今回はポーランド美術史家であり哲学者の、ヤン・タルナス(Jan Tarnas)氏をお招きし、ポーランド性と芸術との関わりについてお話ししていただこうと思います。ポーランドは、広義にヨーロッパを見た際、真ん中に位置しています。大国に囲まれたポーランドは、長い歴史の中で様々なことが起こり、芸術文化だけではなく全てがダイナミックに変化してきました。遠い日本からは、ポーランドの20世紀の記憶や情報が多いことかと思いますが、本稿ではもっと以前の芸術美術史の話を中心に教えてもらいたいと思います。日本の教科書やオンラインには載っていないことが沢山あるかと思います。歴史や過去の政治体制など、少し難しい内容もあるかもしれませんが以下、タルナス氏の講義内容の概要を短くまとめたものになります。
本稿の目的や取り組みとしては、芸術哲学と理論の観点から、ポーランドの芸術の歴史の観点から、中欧、特にポーランド美術の特異性と、一般に入手可能な西洋美術に関する情報とどう違うのかなどを紹介しようと考えています。そして、過去数千年にわたっての⻄洋⽂明の中で、芸術がどのように⾒られてきたか、さらにはポーランド芸術を⽣み出した歴史的出来事などを説明します。同時に、⻄洋⽂明の伝統、職⼈技などから芸術作品の奥に何があるのかを少しでも理解することは、この文化圏化以外で育った⼈の観点から見るとまた興味深いものかと思います。しばしば、ガイドブックやインターネットとは微妙に違う内容や差異を感じるでしょう。この講義により、何世紀にも渡るポーランド芸術とは何かについて、氷⼭の一角に触れることができることを信じています。
本講義は6つの章と2つの結果に分けられます。まず、最初の1つは、「コンセプト」に関するものです。それは、”芸術としての芸術” というものが、⻄洋⽂明においては他の⽂化圏とは異なって理解されており、ポーランドの芸術を理解する⽅法を深める方法であります。
⻄洋の芸術は、何千年も前に創られた特別で哲学的な概念であり、それは今⽇の芸術へのアプローチ⽅法とは異なります。それがなぜかについて、今現在の芸術理論家、美術史家、芸術家でさえもが、今だに完全には解明できていません。ポイントはなぜ、そして誰がこの恩恵を受けているのかということです。⻄洋美術、その⽂化的影響下にあるすべての芸術を理解するには、この芸術の周辺を理解する必要があります。これは、⻄洋社会で育まれ、⻄洋⽂明の形成に貢献したイデオロギーの流れと価値観の結果であり、このように理解された芸術とは、⽂明のアイデアの産物であります。つまり、単なる物質的な産物ではありません。それは、芸術理論の結果ではなく、芸術そのものを作る実践から来ており、芸術行為を通じてメッセージを伝えたいという、先史時代からの本質的な⼈間の欲求と⼀致しているようです。
”芸術のための芸術”として、アーティストやアートを⾒ると、それは特定の情報やアイデアをコード化(作品化)すると同時に、何かの機能などの特定の社会的機能を果たす場であることがわかります。これは、先史時代のバスコ洞窟で作成された絵画の例です。これは、概略的な⼈間や動物、ある種の神聖なもの壮⼤なイメージを作成するためとしても貢献しました。この時代の彼らにとっての芸術感は、周囲に⾔葉で説明するよりも、もっと深い何かを伝える⼿段でした。つまり、彼らにとって最も興味深い主題は何であるかに焦点を当てるべきででしょう。
⼈類の歴史のすべては⼈間そのものですが、それは芸術が何かをはるかに深く伝える⽅法であることを証明しており、それは本質的な⼈間の性質そのものに属しています。しかし、今⽇私たちが慣れ親しんでいる芸術の概念は英語の「ART」です。
私が講義全体を通して使⽤する「ART」という⾔葉は、歴史を通じて使われてきたのと同じ “アート” の概念を意味するわけではありません。
⻄洋⽂明で⽣み出された芸術概念や理論はとても複雑ですが、重要であり知る価値があることでしょう。
ギリシャ⼈は「τέχνη (テクネ)」という⽤語の下で芸術の概念を理論に導⼊しました。そしてテクネは、具体的には健全な推論(正しいマナー)に基づいて創造する永続的な性質を意味し、その⽤語は、創造の多くの事例を説明するために使⽤されました。芸術だけでなく、その⾔葉は、適切な⽅法で物を創造する能⼒を強調するものでした。ですので、例えば靴屋は、専⾨⽤語が⽰唆するように、履くのに⼗分な靴、快適であることがわかっていて、⾮常に便利で、⻑持ちする靴を作っていました。彫刻家で言えば、彫刻が意図された⽅法で作成されていたのです。そのため、それなりの「機能性」はありましたが、テクネの聖地では、対象を視覚的に⾒ることができる⽅法で⾏われなければならないと強調され、見る者を魅了、理解されるものでしたたのでした。ですので、ARTは、今⽇も⾔われるようなアーティストの内なる想像の表現ではなく、正しいマナーに基づいて見る者のためのものでもあり、ある特定の形でなければならないという考えがありました。それから数世紀後、中世の芸術の概念はテクネからラテン語の「ars(アルス)」に変わりました。アルスをどのように理解すべきかについてはさまざまな定義があります が、最も適切なのはトマス・アクィナス(Thomas Aquinas 1225-1274)による定義であると私は信じています。
ラテン語のars(アルス)では、⼤まかに⾔えば、芸術は、創造主⾃⾝の精神によって意図されたものを正しく⽣産する原則であるため、この観点では、芸術は、創造物を⽣産する絶え間ない能⼒として理解される美徳の地位に⾼められました。⼈間の⼼の発明のように、芸術における情報伝達の機能が強調されていたため、中世では情報だけでなくアイデアを表現するために芸術媒体に焦点を当てていました。
では、アイデアと情報についての微妙な違いについて説明します。結論から⾔えば、近代で導⼊された芸術という⾔葉や意味と、現代の私たちが芸術として理解しているものの枠組みは完全にシフトしました。概念がシフトされた現代の芸術においては、フレーミングが効率性からオブジェクトへと移⾏したので、今⽇では、少なくとも現代の⻄洋芸術では、そのアートが何を意味するのか、芸術が鑑賞者に何を説得しようとしているのかなどという設問をたてません。傾向としては、どんなオブジェクトが芸術評価に含まれるのかによって、どう芸術理論として消化認定する必要があるのかとなっています。それにより算出された、「アートであるもの、アートではないもの」というものが見出されます。
博物館やギャラリーの記念碑に展⽰されているすべてのオブジェクトは、”芸術”施設内にあるため、アートオブジェクトであります。その考え⽅は、いわばアートワークと名付けられた存在を作成することにつながりました。アート評論家、美術史家、キュレーター、そして芸術に⾦を投資するディープ・ステート・ソサエティーとかディープ・ステート・エリート達など、何がアートで、何がアートでないかを決める⼈々で構成され、理論的概念全体が存在していきました。
これはアートが価値観を大きく変えていくターニングポイントとなりました。
歴史家などは、芸術作品を定義する能⼒を剥奪されたかのように、芸術とは何か、芸術が鑑賞者に何を伝えたいのかを哲学的に説明する必要がなくなりました。芸術作品は貨幣的機能を持ち、ディープステートのグループ達は、芸術を利⽤して社会を再教育し、何が芸術で何がそうでないのかを指摘する能⼒だけを持った世代を作ろうとしたのです。
それでは、アートのコンセプトや概念を理解する⽅法を説明していきます。
芸術作品はかつて、情報伝達と、アイデアを伝える美的マナーで物理的に制作され機能していました。その核⼼は、⻄洋の伝統から現代に⾄るまでのであり、古代美術、中世美術、ルサンス美術、バロックアート、古典美術、さらにはロマン派美術の時代を扱っている場合でも、芸術や美術品を理解するのに役⽴つスキームです。
しかし問題は近現代から始まります。芸術アートオブジェクトが含む要素、神聖な機能、遺伝的機能、次世代や⼈々のグループを教育する能⼒、芸術の展⽰的機能、アートの収益化機能や投資機能などが目立つようになります。それらは全ての創作物に含まれてるは⾔いませんが、それらはアートオブジェクトがアートオブジェクトである必要はあるでしょうか。
それらは芸術オブジェクトの中にある単なるサブシーケンスであるべきすし、それらは最初にまとめられたこれらの3つ(テクネ、アルス、アート)よりも重要性が低くあるべきです。
この複雑な芸術をおそらく芸術哲学的、存在論的理論を、具体的な視点の一例に置き換えるために、まずはポーランドの中世芸術の例を紹介していきます。
これは、14世紀初頭に作成されました、ヘンリク4世(Henryk IV Probus 1258-1290)の墓と⽯棺です。歴史的背景として、この墓碑が作られた時代は、ポーランドのピャスト朝による支配の時代でした。この10世紀から14世紀にかけての時代で、「ポーランド国家」としての歴史の最初の大きな段階を示すものです。
これは当時ポーランド国王だったボレスワフ3世(Bolesław III Wrymouth 1086-1138)の意志と⼀致しています。それは、国を4⼈の息⼦たちに分割するということで、先代の息⼦全員が亡くなったときの状況を避けたかったことです。ポーランドの王たちは、ただ単に統治権と国の多数派を獲得するために互いに戦い、殺し合っていました。そのため、彼は、できればすべての国々からいくつかの税金を徴収して、国を出国するという考えを思いつきました。それにより、彼の息⼦たちは平和に暮らすことができました。しかし問題は、次の世代ではより複雑になりました。
なぜなら各統治者の息子達は、各自が子孫5⼈か6⼈いたからです。
つまり、ほぼ4世紀にわたるポーランドという公国は、彼ら公爵の一連の家族の延長に過ぎませんでした。
歴史のある地点で、この国を再統一しなければならないという考えが生まれました。この墓碑に示された例を見てみましょう。まず、当然のことながら、制作の造形的観点から見ても、素晴らしい彫刻であることがわかります。着色は、この石碑の原版の復元図を見ればわかるようにカラフルでした。さて、この作品が持つ伝達情報とは何でしょうか?
剣と盾を持った騎士が描かれています。そして、剣をしっかりと握り、足も活発に動いています。もし彼がすでに死んでいるのなら、石棺の上の墓に横たわっているのはずですから、つまりこれは、最後の審判を待っているのです。彼が笑っているかは、彼は⽣前、⾮常によく奉仕したため、天国に⼊る能⼒を獲得していることを意味します。それが、天国に⼊る能⼒を与えられた場合の存在という、キリスト教的イデオロギー的概念なのです。
さらに重要なことは、“中世の夜”のような⾼潔な⼈⽣に関するこの意味と、彼の両側に⾒える紋章を結び付けることができるということです。帽⼦と紋章は彼の公爵の紋章ではなく、これらはポーランド王国の紋章です。したがって、この彫刻で⽰されているアイデア情報は、善良で⾼貴な統治者はすべてのポーランドの公爵達を、単⼀国家ポーランドに統⼀するという夢を積極的に説得する⼈であることを⽰しています。
⽯棺の上に横たわる死者の描写と、もちろん⽯棺を囲んで聖職者たちが指揮を執っているというこの違いは、情報やアイデアという⾔葉だけでは得られない微妙な違いなのです。
写真右上には、墓地に送られた王⼦の葬儀に参列している証⼈や、彼の死を嘆く表現が⾮常に具体的に伝えられています。この、当時の鑑賞者に対する歴史的で政治的および、哲学的背景のアイデアとコンセプト。これが、古代からモダン時代までのいわゆる巨匠の芸術家が取り組んだアプローチなのです。
今⽇では、美術史家などアートの専⾨家たちでさえ、この視点から⽬を背け、すべてのアートを、今⽇提⽰されているアートの⽤語に置き換えようとしています。これは、そのアートで提⽰されているこのユニークな⽂脈と情報を、単に「何があったのか」という情報に削除しているため、オールドマスターズのアートを完全に破壊しています。
では、過去の時代の芸術をどう見るべきか。西洋文化の本質は何だったのか?その問いに答えるには、西洋文明がいわば、3本の柱の上に成り立っていることを知る必要があります。合理的思考の「ギリシア哲学」、社会を法治国家として組織する「ローマ法」、社会または自分自身のために、善良な振る舞いをする方法「キリスト教道徳」です。
世俗化が進む現代において、キリスト教的な要素は見落とされがちです。キリスト教は古代に新しい道徳体系を導入し、すべての個人の平等という原則を中心に社会を再編成しただけでなく、この世の生活に対するまったく新しい視点を生み出しました。キリスト教徒は自分たちを、自律的で同化していない社会集団としてではなく、日常的な存在と矛盾しない生き方をする人々として見ていました。彼らがローマ人であろうと、フランク人であろうと、スラブ人であろうと関係なく、自分たちが置かれた地域の伝統に従って行動しました。変化したのは、永遠の命という視点と、永遠の命を得るための意識的な行動の導入です。これが、特にヨーロッパのキリスト教化に関する古今東西の芸術へのアプローチの仕方です。同じ神学的概念または宗教概念を提⽰するという点では、類似しているこれらの芸術作品が⾒られるからですが、それらは単に伝統が異なるだけで、それは、芸術の美的モデルと芸術作品のアイデア、情報コンテンツの作成⽅法の単純な違いに過ぎません。キリスト教の道徳は、⾼潔な⽣活を送るべきであるため、キリスト教は独⾃の独⽴した芸術を発展させず、意味を刻み込んだのです。
次に考慮されるべきことは、創作された芸術の主な⽬的が、キリスト教の背景に基づいて発展した概念や価値観の「意味を提⽰」することであります。
キリスト教は、芸術を発信する⽅法であり、芸術表現の核⼼の探究や創造するつもりは決してありませんでした。
しかし興味深いことは、ヨーロッパにおける芸術の発展が、古代から中世へ、中世からルネサンス、ルネサンスからバロックなどの、「コンセプトの発展」です。これは純粋にアーティスティック(芸術的)とも言えます。というのも、例えばゴシック美術、ルネサンス美術、バロック期を分解してみると、すべての要素は、先人の表現手法ありきで創造されていたことがわかります。つまり、古代から中世にかけての建造物の支柱やアーチ、ステンドグラスのコンセプトなどそれらのディテールは、形式的な側面として創造されていたのです。つまり、ルネサンス、バロック、啓蒙時代、ロマン主義時代と、芸術表現に関するこれらの形式的な側面は、異なる美学マナーという形式で使われたに過ぎません。それよりもむしろ大きく変化したのは、意味や概念、価値観で、それこそが何世紀にもわたって芸術の中⼼にあるのです。つまり、その変化の核⼼は、美的なs伝統の変化にあるのです。では、美的伝統の基礎や、特定の意味の概念や価値観を⽣み出したものは何かという疑問です。
美的理論は、「真、善、美」という3つの概念に関するキリスト教の背景に基づいて作成されました。もちろん、どういうわけか、これはカトリック神学の伝統における神の概念と含意されており、それは真実でなければならず、善でなければなりませんでした。⾒たままの地球を創造し、その真実と善性を説明するには絶対的な美しさでなければなりませんでしたが、芸術においてこれらの概念は、世界そのものの芸術構造全体を例⽰しようとしていました。なぜなら真理という概念は、善と美の総和として理解されていたため、善と美は真でなければならなかったのです。一方、善であるものは真でなければならず、美でなければならなかった。だから、真実で美しいものはすべて善であり、美は真実と善の総和でした。だからこそ、彼らはその時点でできる最高の芸術を創り出すことに力を注いだのです。彼らは、「芸術とは善であり真であるものの総体」であると信じていました。
カトリック神学における神の概念について言えば、イエス・キリストの地上での物語や教会における神の概念の芸術を例証するものがあるとすれば、それは日常生活を凌駕するほどの努力と配慮をもって創作されなければなりませんでした。当時、できる限りの美を再現するために、あらゆる金、宝石、最高の職人がそのプロジェクトに捧げられました。少なくとも、過去数千年間はそうだったという説があります。
つまり、これが数世紀にわたる西洋美術の美学と意味、概念、価値観の本質を理解する鍵なのです。それはまた、西洋美術とポーランドの美術との違いを浮き彫りにするものでもあります。
では、ポーランドの芸術と歴史的概念、“ポーランド性”について、この講義の第2部に移ります。
ヨーロッパの芸術の最盛は、全てがいわば啓蒙期のタイミングに基づいているからです。⻄ヨーロッパ側では18世紀末、ポーランドではフランス⾰命が起こり、ポーランド分割した時でした。それまでは、すべてがカトリック教に基づいていて、国という概念の歴史的状況が違っていました。
ポーランドの歴史に関するほぼすべてのものは、少なくともその地政学的な観点からある程度説明できるでしょう。というのは、ポーランドはヨーロッパのほぼ中⼼に位置しているからです。現在のウクライナ、その前はロシア、さらに昔はオスマン帝国であり、さらに東を含めると、ポーランドはアジア⽂化への⽞関⼝でもありました。そのため、何世紀にもわたってポーランド領⼟内で起こった数多くの戦争がこの国の芸術的王族に直接影響を与え、その⼀⽅で多くの⽂化と伝統が出会った場所でした。
絶え間ない戦争と、絶え間なく続くポーランド美術の⽂化会議、テーマ、主題、問題を特定するには重要な例を3つ挙げることができます。まずは「キリスト教」と「特定の価値観と美徳への⽂化」、そして「国家のアイデンティティと主権の統⼀をめぐる闘争」の問題であります。
これら3つの事例すべてに順番に説明していきます。
まずは、ポーランドの「キリスト教」の事例です。この国家は、10世紀の初め、当時の統治者による洗礼の受け⼊れによって、部族から国⺠へと形成されました。そのカトリック教徒は、少なくとも20世紀、1960年代か1970年代まで、ポーランド社会で培われた⽣活形態を反映しています。そのような理解の結果として、歴史を通じて最も⼀般的な建築発展の1つがポーランドの教会でしょう。
初期のロマネスク時代から現代のモダニズムまで、それらは神聖な空間であるだけでなく、宗教的な空間でもあります。教会内では、博物館や美術館よりも、芸術的および質的な観点から、はるかに重要な芸術作品が含まれていることがあります。絵画、彫刻、⾦細⼯で、軍事についての建築作品や勝利記念のシンボル像なども印象的です。
では、このキリスト教の事例がなぜ重要なのでしょうか。それは、ポーランドが常に地政学的による戦争状態により、様々なものが強奪され、破壊されましたが、唯⼀、神聖な教会や ⼤聖堂だけは破壊されなかったからです。ですので、現在でもゴシック様式、バロック様式、ルネッサンス様式などの教会がとても良いコンディションで⾒ることができます。そのため、もしポーランドを訪れ、マスターピースとも呼べる芸術作品の歴史を見たい場合は、軍事破壊の影響を受けなかった、教会を見ることお勧めします。
ポーランドが、⾃国領⼟でどれだけの軍事作戦に従事したかを⼤まかに知るために、今⽇、ポーランドの歴史の中で⾏われた事実をお伝えします。今日、966年から2024年までのポーランドの長い歴史で、私たちは初めて、⾃由と主権のために戦うことを強制されなかった三世代が続いています。ですので、1,000年以上にわたって私たちは絶えず戦闘状態にあり、通常の建築物などは、ほぼ20年か30年かの間で、ほとんどが取り壊され、もう⼀度再建しなければならなかったのです。
一般ポーランド人にさえあまり知られていませんが、ポーランドはフィレンツェに次いでルネサンスの芸術家を最初に獲得した偉⼤な場所でした。また、ルネサンス芸術、そしてバロック芸術の場合も同様でした。ですので、⻄洋の芸術の偉⼤な発祥の地について学ぶとき、私たちはもちろんイタリアのフィレンツェが創設されルネサンス、ローマでバロックが創設されましたが、隆盛を始めた直後、これらのアーティストはポーランドの貴族階級の王によって、ポーランドの芸術様式に影響を与え始めました。残念なことに、それらのほとんどが最近とも言える1939年から1945年の第⼆次世界⼤戦中に破壊され、今⽇多くの物を⾒ることができませんが、ポーランドは芸術的なものに満ちた国でした。その問題を指摘する⼈はほとんどいませんが、教会などの建築や彫刻、絵画などは素晴らしい例で、それはイタリア、フランス、ドイツなども同じレベルのものでした。
この建物の⼤きさは、クラコフにある本当に驚くべき純粋なゴシック様式の⼤聖堂です。
主祭壇は完全にゴールドで覆われています。また、後期バロックでは、上品な装飾の始まりであったりと、ポーランドの歴史を理解する場合は、その特異な様式が何分割もされているのです。
しかし、ポーランドは、いち早く芸術作品に新しさを持ち込んだだけではなく、特殊な性格を持ち合わせていました。
キリスト教の影響の次、芸術における「ポーランド性の2つ目の伝統」に移ります。伝統はどのように創造されたかというでしたが、ポーランドは常にさまざまな起源を持つ多くの社会集団が住んでいた地域です。何世紀にもわたって、ポーランド王国の地域で、ポーランド人だけが存在したことは過去にありませんでした。ユダヤ⼈、ドイツ⼈、トルコ⼈、アラブ⼈、ロシア⼈、さらにはプロイセン⼈がいました。そして何より、ポーランドの領⼟に住んでいた先住⺠族のグループが定住していました。ここでのポイントは、その各⽂化が、ポーランド内で独⾃に伝統に融合、同化させていき、ポーランド⽂化とその領⼟内の他の⽂化的伝統が決して衝突しなかった特異点から、⻄洋の歴史でユニークなものとなりました。ポーランドは他の国や宗教が他を弾圧するのとは違い、他の宗教や伝統を強制的に捻じ曲げていく国では決してなかったことも理由に挙げられます。
Lublin城に見られる天井画は、東⽅正教と⻄洋カトリックの神学との融合的組み合わせて、世界で10か所程しか挙げることができないほどユニークなものです。そして、たまたま10か所すべてがポーランド内にあり、その中で、この場所のみが21世紀まで残っている場所です。これは確実にユニークな多様⽂化の組み合わせであり、⽂化がどのように発展したかを⽰す良い⼀例です。
しかしながら、常に人間の争いは絶えることなく、権力、領土の主権、それに加え言語など、時代の進化は戦いも意味し、他の伝統や⽂化を再創造することによって進化していったことも事実です。
それでは、「国家のアイデンティティと主権の統⼀をめぐる闘争」の問題に移ります。
この問題は18世紀、つまり啓蒙時代の末期に起こった歴史的出来事の理解の中にあります。
「分割の歴史」として、ポーランドの最も強⼒な3つの隣国、ロシア帝国、オーストリア、プロイセン王国が、ポーランド政府を追い出し分割しようとした時期がありました。
プロイセンとロシアとオーストリアは、123年間ポーランドを事実上占領することが決定し、1772年、1793年、1795年の出来事の後、ついにポーランドは120年間ヨーロッパの地図や世界地図から姿を消し、主権国家として存在しませんでした。闘争と占領の下で、いかに国家のアイデンティティを維持し、⾃由と主権を取り戻すためにどのように奮闘するということが、ポーランドの⾃由と主権の歴史にあるのです。
ポーランドという国が世界の前から姿を消しましたが、世論は、当時のロシアとプロイセンの皇帝を打倒し主権の⾃由を取り戻すために、いわゆる国⺠蜂起の伝統的な運動を開始しました。
1768年から第⼆次世界⼤戦中の蜂起まで、ポーランド国⺠としての主な価値は、民族の⾃由と個人の価値であり、⾃由のために戦うという独⾃の軍事的伝統を始めたことがわかります。
これらすべての美徳と価値観は、ポーランド人性としてのアイデンティティを構成していました。
123年間、⾃由の必要性を⽬覚めさせる芸術作品の必要性から、思想が反映されたほとんどの芸術作品は18世紀後半に作成され、ポーランドに洗練された美徳を持った数多くの偉⼤な芸術家が創出され、中世初期から文化、そして20世紀へのポーランド性を歓喜する影響を与えていきました。ポーランドのこの教育を受けた素晴らしい画家は何百、何千という数えられるレベルではない程です。もちろんこれは画家や彫刻家などビジュアルアートだけではなく、例えば音楽家のショパンのコンセプトでは、これらの民族性とそのアイデンティティーを色濃く反映され、アートマナーの中に取り込んでいったものが多く見られます。
たとえば、Józef ChełmońskiのIndian Summerという絵画では、ポーランド⽂化やポーランドのアイデンティティーを代表する19世紀の最も有名なポーランドの画家ですが、彼は常に国⺠闘争の問題を扱っていました。
19世紀と20世紀にポーランドで育ったほとんどすべての世代は、常に戦う準備ができるように教育を受けてきました。彼は戦争で軍隊として⾏動し、⾃由のために戦う兵⼠と騎⼠を描いてしています。
芸術に優雅な⾃由と主権、それはポーランドの愛国⼼が象徴されています。
Jacek Maleczewskiの絵では、エレン1世の死を⽂学的な物語を通してロマンチックな描写で表現されています。寓意的な⽅法で、愛のために戦う、という問題に触れています。それは愛のためだけではなく、私たち⾃⾝の⾃由のために⾏動できる主権のためでもあります。
⼀⽅では、感情の抑圧、他⽅では⾃由で⼈間としてどのように⾏動すべきかを特定しようとする存在や、⼈々の抑圧を失うつもりであり、そのために⾃由の問題を扱った芸術品が存在しました。⾃分⾃⾝の存在のために、国家と国⺠の⾃由を巡る論争を推進していくことがポーランド人
の基礎となっていったのです。
国家統⼀の問題意識は、ロマン主義芸術の主要な1つとなり、アイデンティティとは何か、そしてアイデンティティとはどのように説明されるべきかというテーマを取り上げていきました。
このように、私たちは自分が⽣まれた場所のアイデンティティの問題、その伝統、受けた教育の場所、環境や自然、そして宗教観などが絶対的に関わっていくのです。
それは、今⽇のように「芸術のための芸術」だけではなく、それは祖国とは何かについての愛すべき理解を⼤切にするための芸術なのです。
ポーランドの芸術性は、争いや独立、自由へのアイデンティティーなどだけではなく、⻄洋美術の伝統を進化させる性格を持っていました。例えば、Olga BoznańskaとAleksander Gierymskiの絵画は、ポーランドで肖像画がどのように進化したかを⽰す素晴らしい一例です。
人物画は、記録として鑑賞者にポートレートを示すものから、作家⾃⾝の経験を参照できるように作成されていきます。絵画が描かれている⼈物と絆を深め始め、⼼理的肖像画を芸術作品として創造され、それがさらには芸術家と鑑賞者の間の関係を構築するものとなったのです。
⾃分の考え⽅を⾒つめ、自身の考えや⾃分⾃⾝を発⾒することで、肖像画を通して自身の鏡をも意味していったのです。
次の例は、全く異なる哲学的概念の1つの例で、最も有名なポーランドの歴史画家の⼀⼈であるJan Matejkoの絵画です。彼はポーランドの歴史の中でも重要なイメージを提⽰する、独⾃の⽅法を⽣み出した道徳主義者でした。
1410年に起こったタンネンベルクの戦いは、ドイツ騎⼠団に対するポーランドの勝利であり、⼈類の歴史の中で最も重要な50の戦いのリストに載っており、世界の歴史の流れを変えた戦いです。次に、1683年、オスマン帝国のウィーンへの攻撃でポーランドが再び勝利し、ヨーロッパでのイスラム作戦を阻⽌するなどしました。このような特定の歴史的場面の絵を、Jan Matejkoは提⽰することで、より広い歴史的⽂脈で鑑賞者を道徳的に影響を与える独⾃の⽅法を発明しただけでなく、歴史における論理的な意味と、そして私たちがそのような政治活動の呪縛に従うべきかどうかを提⽰してます。
次のMatejkoの絵画は、スタニスラフ・アウグストの統治下で1569年に⾏われた「ルブリンの合同」という連合会の場面についてです。ポーランド国王は、この絵の中央に⼗字架を掲げて描かれており、その上で彼はルブリン連合の⽂書への誓いを⽴てています。
これはポーランド王国がウクライナとリトアニアを併合し、ヨーロッパ初の、そして当時最⼤の超⼤国を⽣み出した瞬間の状況です。
ポーランドの巨匠、Stanisław WyspiańskiとJózef Mehofferによって制作されたこのステンドグラスの作品は、フランス的ゴシック様式を参照しており、新しい時代の転換期でもあります。芸術様式の歴史ではマインド世界を表すルネッサンス、スピリッツ世界を表現するバロックが中心にありました。その後に起こる啓蒙主義時代、精神的なロマン派の時代、心を重視した古典期は⼼の期間でした。そしてその後の初期のヨーロッパは、いわばナショナル・アイデンティティ(国民的同一性)の復活でした。
この国⺠⽂化はヨーロッパ中に広がり、ポーランドの伝統においては、古代の伝統と影響を併せ持つギリシャとローマキリスト教の哲学と神学が普及し、王⼥や⼥神たちのロマンティックな物語などをを描いた⽂学や絵画が再登場したのです。
1890年代から1920年代のヨーロッパ初期時代にかけて、ポーランドの装飾芸術の流れが芽⽣えました。美術だけではなく20世紀初頭には、デザイン、建築、タペストリー、インテリア、ファッションなどあらゆるデザインが洗練されていきました。
なぜ、これらのポーランド芸術が伝統の中で進化したのかについてですが、それは14世紀初頭以来のポーランドのユニークな教育⽅法があったからだと考えられます。
この時代の教育は、貴族階級のことを指しますが、まず国の教育を受けた次は、修道⼠によって教育され、その後、学術界により⾼貴な若者たちは⻄側の国々に送られ、フランス、イタリア、スペイン、オランダへ旅をして、異⽂化を体験しながらその中で学んだことが挙げられます。
彼らは、権威ある講師や物語上の偉⼈に学んだだけなく、西洋から美術品も購⼊して持ち帰り、その動きが14世紀末から20世紀まで続いたため、そのおかげでポーランドはヨーロッパ全⼟で最も偉⼤な美術品コレクション国の⼀つとなったのです。その後、自国の遺産、民族の文化を守るコンセプト、つまり国立美術館の考えが19世紀に始まり、作品の買い戻し、建造物の再建を始めました。
東洋芸術の収集に力を入れたFeliks Jasieńskiは15,000点以上の展⽰品があり、そのうち7,000点は極東から、そして⽇本からのもの美術館も設立しています。
しかしポーランドの芸術の歴史の中で最もな損失は、ポーランドで起こったあらゆる戦争で、芸術の大半が外国人に盗まれたことです。1655年から1660年の期間にはスウェーデン海軍、第⼆次世界⼤戦中にはドイツ⼈、あるいソビエトによって大半を盗まれたのです。現在、西洋の名だたる美術館やギャラリーで見られる美術品の多くがポーランドからの⽂化遺産であります。
第⼆次世界⼤戦中の損失額は300億⽶ドルから600億⽶ドルと推定されており、戦前の盗難品の損失リストを作成することはほぼ不可能です。今⽇に⾄るまで、アジアや⽶国、南⽶など世界中の美術館を訪れた美術史家や美術学芸員が、美術館でポーランドの芸術作品を⾒つけるという例が発⽣しており、それを公的に取り返すことは⾮常に困難です。
最後に、今後みなさんがポーランドをどのように観光し、芸術を体験するかについてです。
個人的意⾒では、博物館や美術館よりもむしろ、教会、シナゴーグ、正教会、その他すべての神聖な場所こと訪れるべきでしょう。なぜなら多くの場合、そこにある芸術作品は、美術館やギャラリーで⾒られるものよりはるかに質が⾼く、通常は無料で体験できるからです。そのためにも、旅前にしっかりとリサーチや予習しておくべきであり、⽣態学的、歴史的背景、特に歴史的概念に関して芸術が何であったかについての微妙な違いに常に⽬を向け、注意を払うことをお勧めします。時には芸術を経験するのに、何も理解する必要がない時もあるでしょう。自然とアートがあなたに影響を与えるということがあり、みなさんにその感性があると信じているからです。しかし、少なくともその⽂化や伝統、時には情報に関して、その作品を解読した美術史家によるより深い知識が必要であるとも信じています。たとえ異なる伝統から⻄洋⽂化や⻄洋の伝統に属したとしても、⻄洋の⽂化や伝統を理解することができなければなりません。⼈間は、そのアイデアを⾒つけ、そのアイデアについて熟考し、少なくともそれについて⾃分がどのように感じ、どのように議論し、どのように対処できるかを⾒つけ、それをどのように受け⼊れ、どのように否定できるかを⾒つける必要があります。
Q&A
Q1: 深く広い芸術と歴史の関係、そしてポーランド性について教えていただき、ありがとうございます。隠されたメッセージやコンセプト、あるいはなぜその瞬間にこの歴史の中でそれが起こったのかなどを説明していただけて、とても勉強になりました。
A1: 簡単な補⾜ですが、現代はポーランドらしさを限定するようなものは何も創られていないとも言えるでしょう。1890年代から1939年までの第⼆次世界⼤戦と、1945年の第⼆次世界⼤戦の終結から現在までの “近現代アート時代”には、数え切れないほどの偉⼤なアーティスト、素晴らしい作品が制作されています。しかし、彼らは俗に言う伝統的なスタイル、もしくはポーランドらしさというよりワールドワイドで哲学的なものに向き合う姿勢のものが多いのです、
私の主な仕事は、芸術とは何なのか、そして芸術でないものとは何であるかを研究していますが、今⽇の“アート”と⼀般的に呼ばれるものは、⻄洋あるいはアメリカ⼤陸とヨーロッパの両⽅を指す⽤語であるアングロスフィア(英語圏諸国)での、英語とインターネットにおける、さまざまな政治的観念を参照した方法をとったコンセプトを提示するものと考えていいでしょう。
共産主義、ネオ・共産主義、ネオマルクス主義の概念が最も⼀般的な対象でしょう。
これらのイデオロギー構造の背景にあるこれらのオブジェクトは、私の意⾒では実際には芸術品ではなく、美学的に洗練されたソーシャルエンジニアリングだと考えます。残りのものは、単なる装飾的なネット時代のアールデコ、というものでしょう。なぜなら、建築におけるブルータリズムや近代建築におけるミニマリズムなどに関しては、情報やアイデア、アートの概念そのものにはあまり興味がないからです。あなたはただオブジェクトの視覚的な一例として⾒ているだけで、それが結果、好きか嫌いかと⾃問しているに過ぎません。もし気に⼊らないなら、モダニズムからブルータリズムへ、あるいは⼀つのスタイルから移⾏するだけです。時代と場所、環境により、アートとその起源は異なるのです。
今回、私は芸術やアートを長い過去の歴史を通じて、アクティブなノウハウにアプローチする手掛かりを紹介したいと思いました。なぜなら、現代アートのギャラリーや博物館で鑑賞者に起こる最も⼀般的な感情は「混乱」であり、しかし彼らは⾃分が何を探しているのかまったくわかっていませんし、どうすればよいのかわかっていません。
しかし、それに対してアート業界と芸術社会は、アートが正しいありきで「アートを感じたり鑑賞するべきだ」と求め、誰も「この芸術作品が何かを提⽰している」、あるいは「何も提⽰していない」という議論をしないからです。
政治的、美知的で合理的な判断、あるいは感情的な判断でしか芸術作品を観るだけではなく、もっと偉⼤な芸術の伝統を参照し、視覚的構成の新しい⽅法、芸術の新しい主題、そして今⽇の芸術とは何かという概念を深く掘り下げる現代芸術を追求して欲しいです。
Q2: 今回の中で、アートには「マナー」というキーワードが重要だと何度か⾔ったと思います。私はこの⾔葉を「⾃⼰教育的な影響を与えるようなもの」だと解釈しましたが、もう少し説明をいただけますか?
A2: 私はそれを芸術作品の視覚的機能に⾔及したいと思います。鑑賞者に芸術作品を対峙させるというアイデアは、芸術作品が作成された時代の鑑賞者だけでなく、未来の世代にも残ります。芸術におけるマナーは、芸術を理解することがゴールではなく、
作家の考えていることや、仕事を通して何を伝えたいのか、重要だったのかを問いただすことだと思います。そのためには知識が必要で、例えばゴシック⼤聖堂を知るために建築力学、宇宙、カトリック神学など沢山知ることが必要でしょう。
アートを通しての教育的側面のマナーについては、現在と未来のための文明を築き、命を永続させたいという考えに⾃問することだと思います。
ラテン語の⾔葉で、「芸術や歴史⾃体に⽐べれば⼈間の寿命は⾮常に短いのに、芸術は⻑⽣きする」といわれるのはここからも来ています。
Q3: ありがとうございます。今⽇の現代美術では、「団結」や「⾃由」、この⼆つの⾔葉については意味が変化したと思いますが、どう考えますか?
A3: その問題の理由は、特に第⼆次世界⼤戦の後、誰もが動揺と落胆による精神状態から、私たちが⼈⽂科学を教えるのをやめたことです。特に⻄洋の学術界のほとんどが、歴史を遡って⽂明のルーツを研究しなくなり、古典的な教育や⼈⽂科学を放棄したため、社会や次世代は、神話とのつながりを失い始め、⽂学、政治と美術史の理解が、⽂化を知る理解を失い、結果それが国家的アイデンティティと社会的アイデンティティを失うことに繋がっていっているのです。
多くの人が自国はおろか世界の歴史について知らず、ましてや芸術に関する基本的な理解や、社会を形成した美徳の価値観についてまったく知りません。
それ故に、いわゆる現代のコンテンポラリーアートは主に今⽇のグローバリストの社会政治的傾向の影響を受けており、今⽇の芸術で表現されているものは、母国やローカル社会の問題よりも、“地球人”として、 環境や気候など地球規模の問題に関⼼を持つ方向になっています。それが逆に、精神的な基盤を作り出すことへの弊害になっているとも言えるかも知れません。
私たちには共通の地球市⺠としての経済的背景と経済的可能性、そしてグローバリストによる社会が、国家のアイデンティティーや国⺠的影響⼒をどのように発揮するかということに焦点を当てるのではなく、地球という惑星に焦点を当てることがトレンドとなっています。この傾向は⽶国でも欧州でも同様であります。この、ある意味ローカルから浮足だったとも言える感覚は、自身のアイデンティティーの欠如に繋がり、バーチャルな世界へとも繋がっているのかも知れません。
Q4: この縦軸も横軸もカオスの世界の中で、「芸術の自明性」は何にあると思いますか?
A4: 芸術はイデオロギーに征服されることは決してないと私は信じています。もちろん、芸術は常にイデオロギーの影響を受けており、私たちは美術史のさまざまな瞬間でそのような傾向を観察することができますが、個⼈的には、先史時代の⼈のような美術品を作ることができたら、芸術は安泰であるかと思います。もし私たちが芸術を失うなら、私たちはアートギャラリー、美術館、芸術教育など全てを失うことになるからです。もし、私たちが「なぜ良い映画を⾒なければならないのか」、「なぜ良い⽂学を読んで、偉⼤な詩を求めて渇望する必要があるのか」という感覚さえ完全に失ったら、「幸せ」や「成功」だけではなく「理解」や「ユーモア」の概念さえなくなるのではないでしょうか。
今回は、想像以上に混沌と、しかし興味深いレクチャーになったかもしれません。しかし、芸術は本当に複雑で、また時には、芸術の実例や歴史的な政治イデオロギーも含まれるという考えを提供できたことかと願っています。皆が明るい未来の⽬標に集中すれば、最終的には私たちが望む場所に到達できるでしょう。