「ルーマニア現代アートの特性」 中央・東ヨーロッパのアート ー芸術と社会ー

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はじめに

“中欧、東欧の芸術文化の魅力を伝える”を目的に、各国のエキスパートにレクチャーをしてもらう企画です。

今回は、ルーマニアの首都ブカレストで、ルーマニア初となるコンテンポラリーアートギャラリーを21年前にオープンしたハートギャラリー(H’art Gallery)を招きました。

ルーマニアは欧州のEU加盟国の中でも最も東に位置する国で、長いヨーロッパ大陸の歴史の中で、宗教対立や領土問題など、常に波乱に満ちた歴史があります。

チェコからロシアあたりまでのスラブ民族、イタリアやフランスなどのラテン民族、トルコなどのバルカン民族の文化や言語が複雑に混ざっている国です。

このように、「民族、国境、言語、宗教」数百年の間に大きく変化している地で、今回「ルーマニアの近代、現代アートの特性」について、芸術歴史家、キュレーター、ギャラリストとして活躍しているダン・ポペスク(Dan Popescu)さんに3時間に渡り色々と教えてもらいました。

以下、ポペスクさんのプレゼンテーション内容をまとめたものになっています。

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ルーマニアにおけるアートの特性

それでは、ルーマニアのモダン、コンテンポラリーアートの性格や特徴を話していきたいと思います。

まずは、何がルーマニアアートのメインのパワー、モチベーションなのかということが重要です。これについて、とても簡単ではありますが、大きく2つの特徴について話していきたいと思います。

1:伝統や式たりを重んじる感性と、フォークアートの影響と現代の懐古的表現

2:歴史的要因(特に占領下の圧力)における、ユーモア性

今日はこれらについて、簡単ではないですが、リスクや間違いを恐れず、なるべくクリアーに話していきたいと思います。

ルーマニアの歴史と特異点

ますはルーマニアで知っておかなければいけない特異なことは、他のヨーロッパの国々に比べて、一度も「帝国になったことがない」ということが挙げられます。次に、ルーマニアとしての「国」になったのは第一次対戦後と若く、日本に比べたらつい最近のことかもしれません。

国や民族と言っても、それらは細分化されていて、例えばルーマニアには、136種類もの伝統服があるほど多様に文化、バラエティーやセンスがあるのです。

大きくルーマニアを分けると、3つの地域があります。今まで別々の3つの帝国にいた南エリア、北のトランシルバニア地方、東のモルドバ地方に別れています。モルドバ地方は元ロシア帝国の下、南エリアはトルコの帝国下、西はオーストリア・ハンガリー帝国の領土で、大戦後にそれが一つに合わさりルーマニアになりました。3つの帝国に侵略されていた人たちの基本マインドは、それら制圧に反するための独自の方法を発達させる気性でした。それが独自で他と違う、アイロニカルでユーモアがありながらも、伝統を継承していく方法でした。

地政学的に、他者によって分断された世界と、元々あった独自であり多様な違い、それにどう折り合いをつけながら、自己アイデンティティーを画一していったのか、これがルーマニアの歴史にあり、アーティスト達に影響を与えていったのでした。

この意味でも、冒頭で述べた、ルーマニアの「伝統やフォークアートの影響と表現」と「ユーモア性」は、経験的な歴史から来ていると言えるのです。

Constantin Brancusi

 それではまずは、国民的アーティストの実例として、コンスタンチン・ブランクーシ(Constantin Brancusi  1976-1957)を見ていきましょう。彼はルーマニア人で、フランスのパリでその才能を開花させました。彼の有名な作品として、「無限柱」(Infinity Column)があります。

この時代、ブラックやピカソなどがアフリカの民族芸術からインスパイアされたものを美術に応用することが多かった時代です。しかし、ブランクーシはアフリカではなく、自身の伝統にこれを求めました。

20世紀初頭の彼の出身地、オルテニアの土着的な田舎の建築様式では、ブランクーシの柱の様な柱が沢山見られます。「無限柱」は、彼の田舎でよく見られる様式の柱から、アイデア着想されているのです。 

家の柱という意味でも、この無限柱は、天に向かって伸びる塔ではなく、「天を支える柱」という、一般的な天へ続く塔とは逆の発想でつくられているのです。ちなみに、写真に見られる野外作品のこの無限柱は、一つのユニットが大体、一般人と同じくらいの大きさで造られており、人がこの柱を登れると思わせそるような仕掛け、人とクロスさせたメタファーなどの想いが込められています。

次にブランクーシの有名な鳥シリーズの彫刻群は、彼の田舎では知られている、羊などの家畜を呼ぶ時に使うセラミックや木でできた笛から着想を得ています。このように、ルーマニアの伝統工芸、職人技からの引用が、彼の著名な作品の裏付けになっているのです。

日本人とアメリカ人の間に生まれた、野口イサム(ISAMU NOGUCHI)も、提灯お化けから灯ランプをデザインして自己の美的センスのルーツを探った様に、「ベストアーティスト達はいつも自己の土地の伝統に影響を受けています」(Best artists are influenced by own native tradition)

アーティストユニオン

ところでルーマニアのアートマーケットの歴史はなぜ若いのでしょうか?

その大きな理由に、1945~1989年の間、ルーマニアは共産主義国だったことが理由に挙げられます。現在の自由経済の様に、個人が自分の趣味でアートを購入するという概念がほとんどなかったのです。さらに、89年の革命後も、1999年くらいまではその共産主義的な機関とそのシステムの機能が続きました。

芸術分野を司るメインの機関は、共産主義管理下にある、「アーティストユニオン」(Artists’ Union)というものだけでした。アーティストユニオンとは、1945年に、ソビエトの機関によって作られたもので、資産や財産は政府に帰属しますが、作家達は政府から支援を受けられるというシステムです。

例えば、学生は例えば美大を卒業すると、アートユニオンのメンバーになる資格があります。ここに所属していると、現金給付はないものの、制作するアトリエや、作品の材料などを支給してもらえます。その他、イタリア研修の渡航費や、サマーキャンプなどの機会も与えられたりします。また、“共産銀行”からお金を借金をでき、その返済を作品で返すことができた作家たちもいました。

これは、政府に帰属するアドバンテージはありましたが、同時に国の意向に反することはしていないかなど、表現内容に対しての政府の監査が入ることもありました。また時に、社会主義や戦争のプロパガンダに使える作品を、作家は制作依頼をされたりなどもしました。

その後、1989年の革命と共に、これらのシステムがに全て終わったことにより、作家にとってはアトリエ料金や材料など上がり、外国に行くにもビザを給付されることも大変になり、今まで政府の扶養の恩恵を受けていた作家達は生活できなくなってしまいました。

H’art Gallery

ハートギャラリーは、国が自由化して落ち着いた、2002年に開業しました。ルーマニア初のプライベート、自己経営の現代アートギャラリーです。 

私がオープンする2002年までは、波乱で著しく蠢く世間の中、アーティスト達もそれにただ翻弄される時間でしたが、2002年くらい以降は、アートマーケットがなんとなくできてきた様な感じがします。と言っても、以前と社会が真逆になったような状況ですから、今まで私たちが経験的に知っていることがまるで様変わりしたのです。建物やそのテナントは、今までの様に管理がされなくなり、まるで手付かずの廃墟となっていきました。“アート作品の展示”という概念は今とはまるで違い、ワイルドな廃墟らしいお店の跡地くらいしか、展示会などをスタートする場所はありませんでした。その様な時代を生きた現在の40代以降の世代は、「いいスペースがなかったら、それに勝る、それを壊す様な絵やオブジェを創ればいい」という考え方が定着していきました。この様に、ルーマニアのアーティストたちはどんな社会状況にでも適応する能力を培っていったのです。

先程の “アーティストユニオン”があった時代では、そこに所属する作家だけが “アーティスト”でしたが、これからは “自由に社会で活躍できるアーティスト”になっていったのです。

それでは、一部のギャラリーアーティスト達を例に挙げながら、ルーマニアアートの傾向を、より具体的に見せていきたいと思います。

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Dumitru Gorzo

ドミトル・ゴルゾ(Dumitru Gorzo 1975-) から始めましょう。

彼は北ルーマニアの田舎出身で、現在はブカレストを中心として活動する、ルーマニア内外でもとても評価されているエスタブリッシュなアーティストです。

ゴルゾには、スキャンダルを起こしたり、タブーを壊したりする表現が見られます。権力に対しての批判や皮肉をコンセプトにしたり、深層化にある社会的タブーにもパワフルに立ち向かい、しかし滑稽なアート表現として消化していきます。

また、ゴルゾの出身地のマレモレッシュ地方は、木工フォークアートが有名な場所で、彼はその技術を自身の制作アイデンティティーに取り入れています。

写真にある四人の女性の作品では、大きな木板を彫り、セクシャリティーについて展開していきます。

ユーモアたっぷりで、ゴルゾ自身の頭が皿の上にあったり、性器や乳房、コスチュームなどがめちゃくちゃな状態でひけらかされており、 作品タイトル「Chick and Dick」にピッタリです。 女性達の背景の柄は、ゴルゾの出身地の刺繍デザインを模しています。この作品がつくられた2003年当時では、この様なセクシャルアイデンティティーを公でひけらかすことは社会的に大きなショックなことでした。

次のプロジェクトは、ブカレストにある大学の近くの公共の外に描いたものです。農村の人たちを都心の壁に描いたもので、これを見たブカレストの人たちは、これにイタズラ描きをしていったという経緯がありました。しかし、彼にとっては、「誰が何を描いても、この絵自体が強いから、壁はより良くなる」と言ったのです。つまり、ルーマニアの社会状況が難しい過渡期を過ごしたゴルゾのような世代にとっては、それほど強いものが描ける勇気と、状況を受け入れられる強気を持っているのです。ちなみに、彼はこの壁を切り取ってギャラリーに持ってくるという規格外にスマートな方法で展示をしました。

また、ドイツでも同様のプロジェクトをしたのですが、ドイツでは誰も彼の壁に上書きすることはなかったことが印象的です。ドイツはルールを重んじて、ルーマニアはパンクのアナーキー。何でもメチャクチャにして覆い隠す、というルーマニアの特徴が露呈されています。

最後に紹介するのは発表後にスキャンダルとなった「ピンクの繭」プロジェクトです。ゴルゾは、石膏でつくられたピンク色の “まゆ状”のオブジェを何百個も公共の建物や壁に無許可でくっつけていきました。

これが行われた2003年当時、ルーマニアには、イリーガルな「グラフィティー文化」は存在していなく、概念も情報もありませんでした。そう言った意味でも彼は先駆者かもしれません。

アーティストにとって、外や公共空間を室内の中の様にしてみる試みや、逆にギャラリー空間中にあったものが外にあると認識や機能性、見方が変わるのでは、という仮説の基に、実験の場としても試してみたのです。

人々は様々な噂をしていきました。包まれた小さな赤ちゃんのようにも見えるため、メディアによる避妊の宣伝かと思う人達がいました。政府が行った、地震が起きるサインではと言う人もいました。ポルノだと言う人、悪魔教のシンボルで、催眠や洗脳をされるという人もいました。このオブジェを取り除こうとする人もいたのですが、壁にしっかりとくっついているので、ハンマーで叩き壊さないと取れないことから、バチが当たるのでは?と思い、取ることを拒む人もいました。

その後なんと、ルーマニアの国営テレビ、プライムTV(Prime time TV news)で4分も特集されることがありました。普通でしたら、現代アートについて4分もテレビで特集されるなんてことはあり得ないことでしょう。

番組では「サタンがブカレストにきた」、「シークレットサービスの仕業」と噂される程でした。

2003年のルーマニアの社会状況は現在とまるで違った時代です。こういった行為がまるで新しく、誰もどうしていいかわからなかったですし、これらを取り締まる法律や罰則もなかったのです。

日本人にとっては多分イメージがつきにくいかもしれませんが、ルーマニアやヨーロッパの歴史はここ100年の間だけでも、まるで違う世界の区分に切られています。ですので、「現在」は過去から未来の「プロセス」して捉える視点が強いのです。そう言った視点が、社会的には“アナーキー”とも呼べる様な、活動がこんなにも突然、しかも容易く現れたり、無くなったりすることができるのです。

Marian Zidaru

次にマリアン・ジダール(Marian Zidaru 1936-)の絵画と彫刻を紹介します。ジダールはブランクーシに影響されていると言い、彼同様、木彫も多く制作しています。 

宗教的と神秘主義者的な彼は、神のイメージ、ケンタウロス、天使などをモチーフにし、彫刻表面の感覚(テクスチャー)に重要な関係性があると感じています。斧で直接彫られた跡が作品表面にはあり、ルーマニアの木工芸に感情的な表現方法を取り合わせています。

ベネチアの行われた展示では、キリスト教バイブルの1シーン、女神のイメージを制作しています。ジダールの土着的な影響はルーマニアで普及しているルーマニア正教で使われる木工の「祭壇」だと思います。この木工技術、雰囲気や彫り癖などが影響しているのでしょう。

Giuliano Nardin

ジュリアーノ・ナルディン(Giuliano Nardin 1978- )は、素朴でナイーブな表現をする、オルテニア地方出身の作家です。彼のルーマニア性は、ドラキュラ、ヴァンパイア(吸血鬼)で有名なこの地方の「モロイ」(Moroi)のメンタル性を感じます。

モロイとは、ヴァンパイアとゾンビの間の様な存在で、この地方の人達は、人間は一度死んでもゾンビ的に蘇ると信じていました。

写真の左絵のように、は心臓に矢が刺さってるけど生きている、そんなメンタリティーと同時に、ナイーブで素朴で生命力があります。

モロイなどの民間伝承的おとぎ話に影響されたマインド、 に繊細な漫画的モダン表現が合わさり、ここにも私はルーマニアらしいアートを感じます。

ナルディンのカラフルな色使いは、オルテニア地方(Oltenian)の伝統的なカーペットの配色とも似ていて、これらはトルコの伝統技術が、ルーマニアでさらに発展し、アーティストが引用しているものと見比べてみると面白いと思います。

Ion Bârlădeanu

ヨアン・バルレダヌ(Ion Bârlădeanu 1946 – 2021)は、私にとって最も印象的で面白いアーティストの一人です。

彼はとても才能がありルーマニアの現代アートの歴史の中でも重要な作家の一人として2021年に生涯を閉じました。

バルレダヌは美術や芸術の教育を受けていない、アール・ブリュット的な背景が彼のストーリーには大切なポイントです。

バルレダヌは1946年にルーマニアの田舎で生まれました。共産主義の機関で働いていた父が嫌いで18歳の時に田舎を離れます。漫画を描くのが好きだった彼は、仕事をしながら夜は田舎のバーなどで絵を描きながらで10代後半、20代を過ごしました。

1980頃からバルレダヌのコラージュが始まります。

ドローイングや色彩をしないで済むショートカットとして、雑誌や新聞などを切り貼りしていきました。ちなみにこの当時は、外国からの雑誌などは中々手に入らなかったのです。1983年頃までに、シュールレアリズムのダリ的なコラージュを構成できるようになったと言います。

バルレダヌはどんどんコラージュの世界にのめり込んでいきました。

この画面の中では、彼が自由に映画監督となれ、好きなストーリーの一場面をつくれるのです。 さらに言えば、ルーマニアや世界中のアーティストや俳優にタダで出演してもらっているのです。監督になった彼は、プロ意識を持って制作に向かっていきました。テーマは、ホラーでもポリティカルでもポルノでも、ユーモアとアイロニーに溢れたスチールがの一場面を情熱的に仕上げていきました。

さて、彼の独自スタイルはどうやってできたのか?

この答えは、「彼はコラージュの歴史知らないから」と答えられるでしょう。ブラックやピカソのコラージュを知った後、多くのアーティストはその真似をしてしまいましたが、バルレダヌにはそのような情報はなかったが故に独自の発展ができたのです。

実は彼との出会いは、友達のアーティストが中庭で彼を見つけたことから始まりました。なんと、89年の自由化になった当時に仕事を失くしたバルレダヌは、12年間ゴミ溜めで暮らしていたホームレスだったのです。ブカレストの路地で出会った時、彼は拾ったトランクの中に70年代からつくっていたコラージュを抱えていたのです。アル中で、まともな生活ができる状態ではない彼を、私がお風呂に入れ、アパートを借りて、食事を与え、彼の作品を売って生活ができるように整え、アーティストとギャラリストの生活が始まりました。

15年程の付き合いの中、30年以上のルーマニア内外で展示をし、多大な時間を共にしました。「ゴミ箱からギャラリーへ」、彼のキャリアは、ルーマニアの現代アートの中の重要な位置付けになりました。これは私たちの歴史を語る上でとても重要なポイントとなっています。

ルーマニアの特徴をこの例からあげるのであれば、ルーマニアの様なセオリーとしては帝国下になかった小国や、政権が大きく頻繁に変わるようなオーガナイズされてない国は、とても強いユーモアを持っていると言えるでしょう。

全てのものがサブジェクトになり、ユーモアの対象になります。ルールがないから、教会でも政治でも全てのものを対象となり得るし、それは何もタブーや表現にリミットがなく、全てがアートになり得るということなのです。

Gili Mocanu

ジリ・モカヌ(Gili Mocanu 1971-)は、ルーマニアの東に位置する港湾都市、コンスタンツァ出身です。パッションがあるイメージを表現する画家で、自身の経験を絵画に適応させるタイプの作家です。

「死の海」と題した海とそこでの経験、水絵の具のドロッピングフローと色が流れて混ざる効果がより情熱的に見える作品です。

水平線や石製の北斎の波を引用したりなど、形而上学的なランドスケープを、意味深に多次元に表現した作品も印象的です。

近年は形のないものを対話していく様な、「セルプポートレート」を通して、自己が消失していく様を見せてきています。

アメリカの抽象絵画のモダニスト達は、絵画をフラットな色の表面にしていく仕事をしてきましたがモカヌの場合も、少し違うスタイルがあるけれども、関係した哲学で繋がりがあります。この万華鏡のような作品を見ても、「人生は幻想」ともとれる共通項が見てとれます。

イメージを使って、絵画が虚像へのゲートウェイとして機能する。仏教的な部分とも何か共通意識がありそうですね。

Victoria Zidaru

ビクトリア・ジダール(Victoria Zidaru 1965-はマリアン・ジダールの妻であり、布や土、種、枝、虫などのプリミティブなマテリアルと用いて彫刻やインスタをしている作家です。 スピリチュアルやキリスト教など、自身のルーツと見えない力へのアプローチがあり、オブジェと鑑賞者の間に生じる、例えば祈りや儀式的行為にも注目しています。

女性的な布と刺繍する表現方法、生活する家族が日常で行ってきた文化的行為が制作に取り入れられています。

Anca Mureșan

アンカ・ムレシャン(Anca Mureșan 1965-)は、数え切れない程たくさんのサイズが違う絵を部屋中にインスタレーションしていく作家です。

写真でのインスタレーションはハートギャラリーでの最初の展示でしたが、ここから彼女の作品はどんどん発展していっています。

2次元アートをする画家というのは、往々にして3Dに対峙することがあるのですが、彼女においては3次元世界を拒否する、というスタンスをとっています。

“生きてる人は3次元を共有するが、それはつまり死を誘発することになる。2次元世界は人間だけが頭の中に持ち得るものであり、その世界は生き続ける” という思想から、展示空間を二次元で全て埋め尽くすのでした。

日本人の場合は空間や白紙自体がサブジェクトとして意味を持ちます。それに対して彼女の様に二次元の絵画で埋め尽くし、彼女のイメージの中に没入させる感じも、もしかしたらお国柄が出ているかもしれません。

以上が、私が仕事をしている作家達の一部ですが、ここからもルーマニアの特性が感じられたかと思います。

伝統と懐古的表現方法、アナーキーでパンクで皮肉たっぷりのスピリッツ、これが現代のルーマニア美術に生きていると思います。

まとめ

今回、日本大学芸術学部、 芸術総合講座Ⅴ、「芸術と社会」の講義にて、普段は学生達が中々知る機会がない、東欧は「ルーマニアの芸術」のテーマについて時間をとることができ、学生にとっても、日本の美術大学としても新鮮な機会であったと思います。講義をしてくれたポペスクさんに感謝します。

Q&A

Q1: ダンさんが一番好きな日本人アーティスト、また作品があれば教えていただきたいです。

A1: Tets Ohnari, Ryuta Iida, Isamu Naguchi, Nobuyoshi Araki and Hiroshi Sugimoto

Q2: 良い作家、作品の審美眼を養うためには何が必要だと思いますか。

A2: Complete sincerity and skill (徹底した誠意と技術)

Q2: ルーマニアアートの今後はどのように変化していくと思われますか。 

A3: It’s unpredictable. Art has a life of It’s own. You can only prepare your attention, like a hunter.  Could be different technique, could be new way of approaching a subiect. For example, in painting, the newest thing îs that painters like Lucian Hrisav and Radu Pandele they use spray and airbrush instead of pencil or brush.(それは予測不可能です。 芸術にはそれ自体の命があります。 ハンターのように注意して準備することしかできません。 全く別のテクニックかもしれないし、主題にアプローチする新しい方法かもしれない。 たとえば、絵画において最も新しいことは、ルシアン・フリザフやラドゥ・パンデレのような画家が鉛筆や筆の代わりにスプレーやエアブラシを使用していることです。)

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