「チェコのガラス芸術とその歴史」中央・東ヨーロッパのアート ー芸術と社会ー

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はじめに:

 中欧、東欧のアートの歴史や魅力を紹介する今企画は、今回で3回目となりました。様々な分野のスペシャリストに90分に渡り講義をしてもらい、専門分野の産業の歴史や、その世界の潮流やメジャーシーン、興味深い作家達のなども紹介してもらいます。

今回は、チェコ共和国の首都、プラハ在住の歴史家、評論家、キュレーターのミラン・フラベシュ(Milan Hlaveš, Ph.D.)さんにお願いしました。現在はプラハ市美術館のキュレーターをされながら、個人としても学芸員やキュレーターなど、工芸関係、特にガラスアートを中心に活躍されています。日本のガラスアートの分野では最も重要な人物で、審査員や展示のキュレーションなども手がけています。チェコでのガラスの用途は、建築やデザインの中だけではなく、現代アートとして作品に多く使用されています。世界三大ガラスである、アメリカの現代ガラス、ベネチアのベネチアングラス、そしてチェコのボヘミアングラスとしても有名です。このガラスの芸術分野の専門歴史家は、チェコでも数人しかいなく、今回その一人であるフラベシュさんに講義してもらう貴重な機会をいただけて感謝しています。それでは以下、内容を簡単にまとめたものになります。

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チェコの地理と資源:

チェコの現在の世界地図から始めましょう。お馴染みのように“ヨーロッパの心臓”として欧州の中心あたりに位置しているチェコ共和国です。

長い歴史の中、そして現在も含めてこの周りを色々な争いがあります。戦乱や政治体制の大きなな変化を経て、現在の国は形成されていきました。

ここで、チェコが現在のガラス大国と形成されるようになったのは、とても才能があり勤勉な作家や労働者がいた事だけではなく、自然から重要な「資源」がたくさん採掘できるところにありました。

古い呼び名「ボヘミア」、現在のチェコ共和国の国境沿いには産業に重要な材料、資源が豊富にありました。「ボヘミアングラス」、もしく「ボヘミアガラス」はの愛称は、この王国の名に由来しています。特に「木」、「水」など特にガラス産業にはにとって重要でした。ガラス制作にはたくさんの水や、薪にするための木が必要でした。また、その他の鉱物「銀」や「銅」などの採掘も頻繁に行われていました。ちなみに、アメリカの通貨 “ドル”「Dollar」の語源は現在のチェコにあった銀山「ヨアヒムスターラー」のから由来している程、当時のボヘミアでの貴金属の原料の採掘は発展していたのです。

中世:

写真のように15世紀の絵では、手前に吹きガラスをする職人、その上部には鉱物を掘ってる人達が描かれています。現在の工場の機械化以外は、現在でも基本的にはこのシステムで、材料が生産、ガラス作品が制作されています。

14世紀頃の王様のためにつくられた「Prague goblets」のガラス杯の写真では、その当時最新の鉱物と精製技術、デザインが駆使した最高の作品とも言えるでしょう。ちなみに写真右のコップの表面にあるボツボツには機能的理由があります。当時まだナイフとフォークがなく、直に手で食事をしていた人達は、手がベタベタになっても、この突起がついていれば滑らずにワインや水などが飲める、とされています。

マリアとキリストの横で膝つく男性が、ローマの皇帝となったボヘミア人、カレル4世です。カレル4世が、プラハを中心としてローマ帝国を統治したボヘミア時代に、美しいステンドガラスを教会などに多用しました。これはガラス産業にとっての彼の大きな業績と言えます。しかしカレル4世の没後に革命が起き、多くの美しい叡智が壊されてしまいました。

幾つかの、例えばプラハ城では15世紀当初につくられたガラスのモザイク画がなど、今でもその美しさを見ることができます。

16世紀にはGeorgius Agticolaの工房やBeakerが制作したルネサンス調のガラスコップなど、その技術と装飾は発展していきました。

ガラス職人 Martin Friedrichとその家族の肖像宗教画にも代表されるように、重要なガラス職人や工房は、権威ある金銭的にも良い仕事となる時代となりました。

16世紀最後の1590年頃にウイーンから来たルドルフ2世は、オーストリア・ハンガリー帝国の一つだったプラハにアーティストと科学者を招き、作品や発明などの素晴らしいものをプラハでつくらせました。プラハがヨーロッパで最も美しく、アートとサイエンスに活性化された時代です。

この時代に発展した材質がクリスタル(鉱石)です。これを使いインテリアやジュエリーなど、色々な工芸品が作られていきました。写真右に見えるのは精製する機械になります。

左の写真は、17世紀中頃にDionysio Misernoniによってつくられたクリスタル製の作品で、現在はウイーンのKunsthall美術館に保管されています。

ボヘミアンガラス:

その後、チェコ(ボヘミア)の作家や科学者達はこのクリスタルの技術を、硬度の高いボヘミアガラスに応用することで、「ボヘミアンガラスのアイデンティティー」へと展開していきました。

同時代には、イタリアのベネチア近くのムラノ島でベネチアガラスが栄えていました。ベネチアのガラスは「ホットガラス」(吹きガラスをメインとした“熱いガラス”を加工する意味)です。

ベネチアガラスは溶ける温度がチェコガラスよりも低く、加工する時間が長く取れ、細かい装飾ができる“柔らかいガラス”に対して、チェコガラスは溶ける温度が高く、つまり硬い特徴があることから、「カットガラス」(切子硝子)とエングレービング(削り出し)に適しています。

このようにクリスタルガラスの技術を応用し、カットガラスとエングレービングに特化していくことから、ボヘミアンガラスは伝統を作り上げていき、現代チェコガラスの基盤に繋がっていったのです。

18世紀のガラスではゴールドが使われるようにもなり、その華やかさが一層増します。チェコの様な小さな国は外貨が必要であり、ボヘミアガラスの生産は90%が外国へ輸出用として作られました。美しいボヘミアンガラスは重要な産業となりました。現在も多比率で輸出が行われています。

世界にミルキーガラスシャンデリアなど、ボヘミアングラスが広がっていきます。

しばらく時は経ち、ナポレオン戦争が始まりました。戦争状態によりボヘミアガラスは輸出できなくなってしまいました。そして同時代に、イギリスとアイルランドの透明性が高いクリアガラスがヨーロッパでは知名度と人気が高まってきました。

技術革新

それを意識し、逆にチェコの職人は新しいカラフルなガラスを発明し、色ガラスを使った表現にシフトしていきました。モダンガラスの始まりです。この時代の重要人物は作家で色ガラスの発明家のFriedrich Egermannでしょう。

19世紀前半はこの様なモダンでカラフルなガラスがトレンドとなり、エガーマンの工房はとても成功しました。

こちらは現在も“ガラスの町”として名高い、チェコの北ボヘミアにあるノビーボール(Nový Bor)の1830年の絵です。こちらで黒いガラスウランガラスもこの時代に発明されました。

Dominik Biemannのエングレービング技術を使った作品はとても品質が高いものとして現在も重要な作品です。

Tasice glassworksは1820年代にできたチェコでも重要な工房です。

Jablonec nad Nisouは19世紀からガラスジュエリー産業で栄えた町です。ガラスボタンが特に有名で、今でもガラスボタンの製造をしています。

温泉で有名なKarlsbadでは、Ludwig Moserがモーゼル工房(Moser glassworks)を始めました。今でもこのブランドは世界トップのガラス食器ブランドとして知られています。

大きな工場とJizera Mountains 山のオーナー、Josef Riedelは、“ガラスの王様”と言われていた程の成功者となりました。

Sloupにある、Kinsky Glassworksは、「」の製作で有名な工房です。

20世紀:

「O.Bronec, Prague-Nusle, after Alphonse Mucha」この時代は美しいガラスをドアや階段のガラス部分などに使うのことが流行りました。

南ボヘミアのKlášterský Mlýnにある、ローチュ工房(Lötz  glassworks)は、1900初頭にアールヌーボー的な仕事をしています。また、北斎の影響を受けたフランスのガラス文化に影響されたLötzの作家もいて、デザインがグローバルに影響を与えていく20世紀が始まりました。

これらアールデコの多くは日本的インスピレーションから来ています。

Neweltにある Harrach ガラス工房での彩色をしている光景です。

皆スーツを着て彩色の仕事をしている、という写真に、仕事に誇りを持っている

ことと、写真機で撮る機会がなかなか無かったことが伺えます。

ARTĚL Companyでは、いち早くキュビズム要素をガラスに取り入れます。

近代ガラス:

建築家のJan Kotěraがデザインしグラスセットです。この近代的デザインが、チェコのモダンガラスのスタートと言えるでしょう。

そしてこのカットガラススタイルが「チェコガラス」として有名になっていきました。

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チェコスロバキア共和国誕生:

第一次世界大戦後、オーストリアハンガリー帝国が終わり、初代大統領トマーシュ・ゲーリク・マサリークの下、民主主義チェコスロバキア共和国が立国されました。この第一次と二次世界大戦の間、チェコスロバキアでは様々な産業が生まれ文化経済は成長していきました。ARTĚLVáclav Špálaに見られるように、アートやデザイン、もしくは装飾や建築のガラスを通しても、チェコスロバキアのアイデンティティーを築き上げていきました。

1930年はアールデコの時代に入ります。チェコスロバキアのプラハ工芸美術大学の初代ガラス学科の教授になったこの作家、Josef Drahoňovskýは、近代ガラスでキーポイントとなる作家です。

1920年にジェレズニー・ブロッド(ŽELEZNÝ BROD)という小さな町に様々な技術と機械を取り揃えたガラスアート専門高校が設立されました。

Jaroslav Brychtaは、後で出てくるBrychtovaの父です。

1930年代は、チェコスロバキア共和国が設立されてモダンライフデザインばかりではなく、クラッシクなアルフォンス・ミュシャが手掛けたステンドガラスなども含め、美術的ステンドグラスは、教会だけじゃなく、学校、郵便局、市役所、様々な公共の場所で使われました。

しかし、最初のチェコスロバキア共和国が設立されてから20年余りで現状が一変してしまいました。ドイツのナチス軍が、1939年にプラハに侵略しに来たのです。これはチェコの歴史の中でも最も厳しい時と言えたでしょう。

第二次大戦後、現代の チェコガラスの歴史が新たに始まりました。

それまでチェコスロバキアを占領していたドイツ軍は、この地から撤退を余儀なくしました。それを “救った”、つまり代わりにこの地を領土としてロシア軍がやって来たのです。

戦後、ガラス産業には、工房、ワークショップ、学校、材料など様々大事なものが再会し始めました。この時代には、プラハ応用美術工芸大学(VSUP)を終えた若い才能あるアーティスト達は、北ボヘミア地方へ行って仕事をし始めました。後に現代ガラスの巨匠、リベンスキーやロウビーチェック達が良い代表例でしょう。

共産主義:

ソビエト連邦のスターリンはチェコスロバキアの党首、クレメント・ゴットワルト(Klement Gottwald)の承認を経て、共産主義国としてチェコスロバキアを植民地化しました。

共産主義は唯一の思想体系であり、社会システムを形成する方法として、1948年以降は「共有」(commonする概念として、「自由」が亡くなっていきました。それは、小さい家などは個人が保有し続けられましたが、会社や工場などはそのオーナー権を自動的に破棄され、国の保有物と管理の下で存続するようになったのです。ガラス業界もアート内容も、作家と制作の距離感など、目に見えにくい沢山のものも、共産主義によって変わっていきました。芸術的や装飾的なガラスアートは新しい社会の指針には必要なく、重工業と戦争産業が最重要な項目となり、ガラスの重要性が減っていきました。

チェコガラス産業最盛期へ

しかし幸運なことに、1950年代後半から、ガラスオブジェクトも輸出産業として推奨されるよう、指針が変わっていきました。理由は外貨の獲得が必要だったからです。政府としては、輸出を再会し始めようとしましたが、ガラスを教える学校や機関は閉鎖したままでした。そのことにより、教育や水準と政府の指針としてのニーズに誤差が生まれ、50代60年代初頭はチェコガラスにとっては大変な時期でありました。

ですが、プラハアカデミーで教鞭をとったこの時代の重要な教授、ヨセフ・カプリツキー(Josef Kaplický)スタニスラフ・リベンスキーとヤロスラバ・ブリフトバー夫妻、そして彼の学生達は切磋琢磨し、この時代にできる最高の表現をしていったのです。現在でも彼らの様な技術と手法を使った作家達は沢山います。

複雑な配色で表現するヴラディミール・コペツキー(Vladimír Kopecký)、カットガラスの究極を求めたミルシェ・ロウビチコバー(Miluše Roubickova)、花瓶としては薄く巨大であり曲線美を追求したヨセフ・ミハル・ホスポドゥカ(Josef Michal Hospodka)、ガラスの視覚感覚、ガラスの透過性と塊の強さを引き出したヴァーツラフ・ツィグラー(Václav Cigler)などの作品も輩出されていきました。

1958年の国際エキスポでは、チェコの文化発信の場として、レネー・ロウビーチェック(René Roubíček)のガラスインスタレーションを披露しています。

ベルギーのブリュッセルでのエキスポには、かなりの予算がかけられました。その大きな理由の一つに、「社会主義は資本主義よりもいい」という目的もありました。ともあれ、デザインや技術はとても奇抜で、素晴らしい作品であると思います。

1968年、ソビエト連邦がプラハに8月21日に占領してきました。これによりチェコスロバキアはまた違う社会になっってしまいました。同時に、国際エキスポなどの出展はしなくなりました。

またも自由が規制され、作家はアートを民主的に展示をすることが許可されなくなってしまいました。例えば作家のイジー・ハルツバ(Jiří Harcuba)は牢屋に連れていかれた程です。

1970年代は機械化がより導入されていきました。職人技の技術や創造性も低下することなく、新たな表現やコンセプトが更に多様化していきました。

80年代の成功:

80年代の成功した作家達は国際的に活躍の場を広げ、知名度としても上がっていきました。リベンスキー教授から60年代中盤から80年代中盤くらいまでガラスを教わった学生が活躍していきました。

リベンスキー夫婦は制作活動をさらに積極的に進めていきます。

アメリカの世界屈指のコーニングガラス美術館(Corning Museum of Glass)に所蔵された作品や、公共彫刻、写真にあるような建築など、様々なところでその重厚なガラスを発表していきます。

政府の方針もガラスを通して社会主義の美しさを見せるべく、ガラス工業に投資していきました。

80年代はアート業界では野外展やパブリックアートが最も量産された時代でしょう。日本ではバブル成長と共に沢山の野外コレクションやモニュメントが設置されました。ガラス作家達も外で出て、その現場のインスピレーションを作品に消化したり、環境と調和するような制作を始めます。

1989年:

更なる社会的大変革は1989年、社会のあらゆるものが再度変わります。

ビロード革命(velvet revolution)が起き、チェコスロバキアは完全に自由化となったのです。これにより、経済や思想の自由化、民主主義国家として現在のように、工場や工房は私有化となり、現在と同じような自由を手に入れたのです。

1990年代以降、現代ガラスはチェコの重要な文化として更に栄えていきました。上の写真はガラス産業が盛んな場所の地図です。

新しい今ではチェコでもトップのガラス工房、Ajetoも開設されました。

ベテラン作家と新興ブランド:

表現も経済も自由になったクリエイティブなチェコスロバキア人達は、KOLEKTIVBROKISMoserPreciosaRucklCRYSYALEXLASVITなど現在も世界トップクラスのガラスのファクトリーデザイン会社を設立していきました。

共産時代ではプラハ工芸美術大学(UMPRUM)だけが唯一のガラス芸術を学べる場所でしたが、現在は5つのガラス専門高校、そして5つの大学でガラス学科が設立されています。教育レベルの底上げは質の良いプレイヤーの数に比例し、新しい世代の、能あるチェコ人作家やデザイナー達がどんどんと現れてきました。

Petr Stanický、Klára Horáčková、 Jitka Havlickova、 Jan Fabián、 Jaroslav Koléšek 、 Michaela Spružinová、Martin Janeckýなど、常にガラスの概念に新しい光を当てる作家や、高い造形技術を持つマルチな作家が増えてきました。

Jan AmbrůzIvana HouserováRené RoubíčekIvana Marešヴラディミール・コペツキー(Vladimír Kopecký)ヴァーツラフ・ツィグラー(Václav Cigler)、アレシュ・ヴァシーチェック(Aleš Vašíček)、IRDSマリアン・カレル(Marian Karel)、ダナ・ザメチコヴァー(Dana Zámečníková)、アレナ・マテイカ(Alena Matějka)ヤロミール・リバーク(Jaromír Rybák)オルドゥジッフ・プリヴァ(Oldřich Plíva )ヤロスラフ・マロウシュ(Jaroslav Matouš )などの作家達もベテランの年になってもその創造性は増すばかりです。例えばヴラディミール・コペツキー(Vladimír Kopecký)ヴァーツラフ・ツィグラー(Václav Cigler)など、現在90歳を越えていますが、その制作、発表、指導は衰えることはありません。

グローバルなチェコガラス:

チェコのガラス文化が長い間培ってきた技術や知識を、現在は世界中が注目し、チェコから海外へ文化発信、もしくは外国から作家達がチェコへ集まり、勉強や制作、研究をしています。写真上左は、チェコ人作家達がイスタンブールの国際シンポジウムでパフォーマンスとワークショップをする光景です。写真右は、オランダのアルノート・ヴィッサー(Arnoot Visser)が来チェコして制作をしているものです。

世界で唯一の、ガラスを主とした美大生の卒業制作に限定した国際学生ガラスコンペティション、スタニスラフ・リベンスキーアワード(Stanislav Libensky Award)では、日本人の卒業制作も多く受賞しています。

次世代へのガラス:

日本のガラス芸術が向上した理由には富山県にある富山ガラス研究所(TIGA)に、チェコ人作家が教授として、30年に渡り、その哲学と技術を継承してきたからに他ありません。日本で初となるガラス専門の大学、富山ガラス研究所が30年前に開設しました。ヴラジミール・クレイン(Vladimír Klein)パヴェル・トゥルンカ(Pavel Trnka)パヴェル・ムルクス(Pavel Mruks)ラダ・セメツカー(Lada Semecké)ミラーマン(Mirrorman)ヴァーツラフ・レザーチ(Václav Řezáč)など、継続的にチェコ人が先生となりました。今ではその学校を卒業した学生達が国際的にも活躍する作家となっているのです。

また、チェコに移住して制作活動をする外国人アーティストも増えました。韓国からはソンミ・キム(Song-Mi Kim)、日本からは大成哲(TETS OHNARI)、アメリカからはカレン・ラ・モンテ(Karen la Monte)が目立った仕事をおり、チェコ人作家達にも大いに刺激となっていると思います。

ガラスの専門高校がある、Kamenicky Senovではエングレービングの国際シンポジウム(International symposium of engraved glass)が行われています。

ものづくりの世界で「シンポジウム」というのは、作家達が一定期間同じ場所に滞在し、制作を共にしながらお互いの意見や技術を交換する交流会で、世界的に1960年代頃から行われるようになりました。

Novy Borの町では、ガラスアートでは世界で最も有名な「IGS」(International Glass Symposium Nový Bor )が3年に1度開催され、シンポジウム期間には海外から沢山の芸術家やファンが集まります。

PASKMuseum KampaPortheimka MuseumVysočina MuseumMoravian GalleryMuseum of Glass and Jewellery in Jablonec nad NisouKuzebauch GalleryMuseum of Decorative ArtsMoser Glass Museumなど、これでもまだ一部と言える程、チェコでは現在、至る所でガラスの美術館やギャラリーがあります。

まとめ:

以上が、歴史家兼キュレーターのミラン・フラベッシュ (Milan Hlaveš)さんに「チェコのガラス芸術とその歴史」について、2023年11月14日、日本大学芸術学部、 芸術総合講座Ⅴで、「芸術と社会」をテーマに講義してもらったまとめになります。とても専門的でありながらわかりやすく、歴史を紐解きながら勉強できとても楽しい時間になりました。90分のレクチャーではもっと細かく詳しく説明をしてもらいましたが、残念ながらここでは全部の紹介や説明は困難であるため、割愛してまとめさせてもいました。


レクチャー講師:ミラン・フラベシュ(Milan Hlaveš, Ph.D.) 
チェコのプラハ在住。芸術歴史家、評論家、キュレーター
現プラハ市美術館キュレーター

元国立工芸芸術美術館、工芸部門チーフ
専門分野はガラスアートや陶芸、プロダクトデザインを専門とする現代ビジュアルアートの歴史家。多数の出版物の著者であり、数十の展覧会を開催。 第 1 回国際ガラス展富山(2018 年)、第 4 回コーバーグガラス賞(2014 年)、第 28 回ニューガラスレビュー – コーニングガラス博物館(米国ニューヨーク州コーニング)(2006 年)の審査員

Q&A

Q1: ガラス細工に興味を持ったきっかけは何か、またチェコ内ではどれだけ有名なものなのか? (日本との認知度の違い、制作環境の充実度など、どれだけ身近なものなのかご存じであれば知りたいです。)

A2: 12歳の時、ガラス職人(ランプ職人)になることを決心しました。 その決断は固かったし、私はとても頑固ですから両親もそれを許してくれました。 私は大学でランプ細工を学び、その後歴史を学びました。 現在はガラスと陶芸を専門とする学芸員です。チェコ共和国では、ガラスは家族の銀として国民に認識されています。 チェコのビールやチェコのアイスホッケーよりも価値がわずかに低いだけです:)

Q2:日本には日本各地に多様な伝統や文化があります。年々減っていく祭りや行事は間接的にしかお金にならず、しかしその地域であるために必要なもの(行事、食、言葉など)だと思います。チェコガラス文化にも危機があったように、チェコガラス以外にも危機があっくり、伝統文化はどのように守られていますか?

A2:工業的に生産されたガラスは、1990年以降ヨーロッパ全土で一連の危機を経験しました。一部の地域では完全に消滅しました。 チェコ共和国では、多くのガラス工場が消滅しましたが、生産の多様性は減少しませんでした。 しかし、過去 30 年間の危機により、かつては有名だったチェコの繊維、陶器、そして大部分の磁器産業がほぼ壊滅状態になりました。 現代美術(スタジオ)ガラスおよびその他の産業(繊維、陶磁器、宝飾品など)は現在最盛期にありますが、国際的な名声を獲得したのは 1950 年代と 1980 年代です。 今日、チェコ共和国は、グローバル化した世界で、職人技の伝統が残っている数ある国の 1 つですが、もしかしたら、もはやそれもそれほど重要ではなくなったかもしれません。 ともあれ、それでも私たちは未だとても元気です;)

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