本日は、“黄金の60年代”に生まれた映画運動「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」(Česká nová vlna)についてご紹介します。
1950~1960年代の、フランスのヌーヴェルヴァーグや、イギリスのニュー・ウェイヴともまた違う、チェコスロヴァキアならではヌーヴェルヴァーグの魅力や価値を知れる絶好の機会になることかと思います。

今回も、文化人であり「チェコ蔵」代表の、Petr Holý氏をお迎えしました。ホリー氏には、その幅広いアートへの知見と情熱から、前回では「戦後以降のチェコスロヴァキアのデザイン」について、チェコスロヴァキア時代の往年のノスタルジックでシュールなのアートとデザインをチェコっと教えていただきました。
それでは、チェコスロヴァキアの秘宝映像の数々をご紹介していただこうと思います。ホリーさん、よろしくお願いします。

以下ホリー氏):よろしくお願いいたします。本日は、日本であまり知られていない「チェコ映画」についてお話しさせていただければと思います。「チェコスロヴァキア・ヌーヴェルヴァーグ」という言葉は 皆さんにとって馴染みがないかもしれません。ヌーベルバーグというと、やはりフランスやイギリス、イタリアなどが知られていますが、実は1960年代には色々な国でヌーヴェルヴァーグ運動というものがありました。日本でも例えば、勅使河原宏や新藤兼人などの「日本ヌーヴェルヴァーグ」 が知られています。それでは歴史を遡り見ていきましょう。

少し昔まで遡ると、チェコスロヴァキア時代にできた一番古い映画館というのは、Viktor Ponrepoの名にちなんだ、「ポンレポ映画館」が最初の映画館です。既にプラハに、1907年には映画館がありました。やはりチェコは、ヨーロッパの真ん中にあるということもあり、いち早く映画という新しい媒体に注目が集められていたわけです。

ここには1914年の、QUO VADIS というイタリア映画のポスターも残っています。

チェコ出身のポスター画家、アルフォンス・ミュッシャは実は映画ポスターもつくっていたのです。写真は彼が制作した映画ポスターとそのためのモデルのポーズを決めている写真です。元々ミュシャは、劇場のいわゆる書き割り、セットの絵を描く人なので、画壇の人から見れば非常に低く見られていた時期があります。ご存知のように、ミュシャはフランスに行き、 そこで、サラ・ベルナールという大変有名な女優に認められ、そこで一夜にしてトップ画家になりました。

次に、チェコは実は映画大国という言い方もあります。実は映画の無声時代に無声映画をチェコスロヴァキアは沢山作っています。これは有名な話なのですが、特にGustav Machatýという監督が、彼が次から次へと、とんでもない映画を作っていきました。1929年に、このErotikon という映画、 それから1933に年も、非常に日本でも話題になりました Ekstaseという映画を彼が撮るわけです。実はこの映画は、映画史上、初めて肉体関係を描いた作品として知られています。

要するに、女性の裸体がカメラのレンズの前に初めて立ったということになるわけです。

今見ると、非常に美しい表現なわけですけれども、当時として非常にスキャンダラスで、ヨーロッパの映画関係者はこれを強く批判されましたが、おそらく映画史に深く刻まれた作品の一つなわけです。また、映画となるとポスターも必要で、ポスターのデザインも素晴らしいものがあります。

この「エクスタシー」の日本語版のポスターは 「春の調べ」として、ちゃんと東和商事という当時の有名な映画の配給会社に配給されて日本で上映されています。

他にもマハティの他に、Karel Lamač監督や、Martin Frič 監督などが当時活躍しており、女優としてはAnny Ondraという人は、非常に大スターになるわけです。

彼女はチェコ人で、 チェコ語の名前は違うのですが、アニー・オンドラという女優名です。

これらセンチメンタルなコメディに、彼女がしばしば出演し、大スターになっていくわけなのです。

おそらくこちらが日本では初トーキー作品となるアルフレッド・ヒッチコックのです。これに出演しているアニー・オンドラはチェコ人ですので、非常に英語にアクセントがあり、別の人に吹き替えてもらったという話があります。

チェコノベルバーグに焦点を当てていきたいのですが、その前に歴史を少しだけを述べさせていただきますと、初のチェコ語のトーキーは1930年の『Tonka Šibenice』です。

スタジオについてです。チェコスロヴァキア映画史でとても大事なのものは、第二世界大戦の前になりますが、1931年に「BARRANDOV」(バランドフ映画撮影所)がプラハにできたことです。 これにより、チェコは映画の大国になっていきます。第二次世界大戦が勃発する年の1939年には、敷地面積が4万5千平方メートルにもなりました。東ヨーロッパのハリウッドっと呼ばれ、映画村やスタジオがあり世界中の映画やコマーシャルを撮影しています。野外には先日はサイバーパンクの建物や中世のお城がハリボテであったりしました。また、小道具、大道具、衣装などの取り揃えや、新しいセットをつくる職人の能力も随一を誇ります。

それを創設したのは、ヴァーツラフ・ミロシュ・ハベルです。そして実は彼は、1989年の12月、チェコ自由化最初の大統領「ヴァーツラフ・ハヴェル」の叔父にあたる人なのです。
大統領のバーツラフ・ハベルは元々劇作家でした。チェコスロバキアは、いわゆるベルリンの壁の崩壊に伴い、自由になっていきました。ハベル一族というのは、ものすごく文化人と実業家が多く、このヴァーツラフ・ミロシュ・ハベルはルツェルナフィルムという大きな会社を作っています。また、彼は、戦争中第二次大戦中にドイツに強制労働に行かないといけないチェコ人の若者に、映画作りの人材を雇用して、多くの人を救った功労者の一人です。

こちらがバランドフの建物です。
面白いことに、第二次世界大戦では、チェコスロバキアは、ドイツに支配されていたわけですが、 一切プロパガンダの映画を作っていないのです。その代わり何を作っていたかというと、コメディが多いのです。戦争の毎日から逃れるために、コメディ映画を作っても良いと政府から了解があったわけです。チェコの映画業界は全てがドイツの支配下ですので、チェコ語映画はドイツ語字幕をつけないといけませんでした。

これがバランドフ映画製作所の一部です。近代建築に、オープン喫茶店、レストランなどがを、モルダウ川沿いの崖の上に建てられています。

この建物は、1948年以降の共産主義になり閉鎖になりました。

今でもプールの残骸だけは残っています。

1920年代最新の建築デザインは素晴らしく、本当に当時の映画業界のレベルの高さを物語っているわけです。また、共産主義体制になる前はお金があった時代だったのです。

当時の広告では、「このバランドフのテラスで一番素晴らしい大晦日をお過ごしください」などと、富裕層が集うところとして知られていました。

1950年代から60年代の写真では「三葉虫バー」というものがありました。実は「バランドフ」という名前は、フランス人のバランデという人の名前を取っていて、バランデは考古学者で幼虫の研究者だったのです。そしてさらに、バランドフがある丘の地層には、たくさんの三葉虫がいたことから、そう名付けられました。

チェコで第二次世界大戦が終わり、1945年の5月8日が開放記念日となりました。その直後にチェコスロバキア映画が国有化がされたわけなのです。 これは、共産党とも何の関係がなく、国の産業として映画作りというのは不可欠だと言われるようになったことが理由です。映画作りに直接国が関与することになるわけですが、それは1948年の2月に共産主義になり、その時から国の関与は悪用されていきます。50年代になって、いわゆる東側のプロパガンダが映画に反映されていきます。
要するに、映画業界の国有化というのは映画制作、それから輸入と輸出配給をすべて国が管理することになるのです。時に、国営予算は場合によっては底のない予算がもらえるわけで、非常に映画作りにはいい条件なのです。 しかしそれが1948年、さらには1968以後は厳しい検閲が入りますので、少しでも政治的な揶揄や反したことがある場合は、上映できなくなるというのがあるのです。

もう一つ付け加える内容に、1946年に、プラハ芸術アカデミーの映画学部(FAMU)といって、映画を大学レベルで勉強できるというのは世界的で見て非常に早かった大学がありました。戦後の世代は、そこでチェコスロバキア映画新世代というふうに呼ばれ、そこから後のチェコのヌーベルワーグの人たちがリクルートされていくわけなのです。 しかし先ほど申し上げましたように、 48年の共産党によるクーデターが勃発し、プロパガンダ映画が作られます。それで当時まで国民的大スターという人たちはステータスを失う人たちが多く出たのです。

ポスターを見ての通り、スターリンやマルクスなどの赤い共産主義を作ろうという映画のポスターがでてきます。

実は、チェコの東に東の方にズリーンという町に靴工場、BATA(バチャ)という会社がありました。バチャの社長はチェコで初めての2500人収容できる大型映画館を作り、映画産業にも貢献したのですが、共産主義政府は実業家の彼を揶揄するようになりました。共産主義政府にとっては全ては個人財産ではなく共有財産という意向なのです。ですので、共産党に圧力をかけられ、社長は国から亡命せざるを得ないという状況になったほどです。

例えばこれは作家のミラン・クンデラの有名な言葉ですが「営利的な利権の痴愚、そしてイデオロギーの教理の容赦のなさ、これら両者は映画芸術を危険に曝す二つの悪因である。チェコのキネマトグラフィーが終戦直後に国有化された時に、前者のような悪因となる権力から解放され、また1960年代途中、後者からも離れようとした。正にその刹那的な自由(相対的な、しかし我らのこの惑星ではあれほど珍しい自由)を謳歌していたその瞬間にたくさんのチェコの若き映画人が産声を上げた。」と述べています。

では、改めて、ヌーヴェルバーグというのは何かというと、これはおそらくチェコだけではなく、例えばフランス、 イタリア、当時の日本でもそうですが、「即興の長セリフ、ダークで不合理なユーモア」「非経験俳優をキャスティングする」、旧共産圏の国々では稀な表現で「若者の恋愛のもつれ」などの、モラルの欠如のようなことが多くありました。演出においてチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグでは、多くの映画は文学の原作があり、それに基づいて作られています。

世代的で言えば1930年前後生まれのFAMU出身の作家たちで、彼らが素晴らしい映画を作っていくわけです。

名前で言うと、この左から:イヴァン・パスル、ヤロミル・イレシュ、ヒネク・ボチャン、パヴェル・ユラーチェク、ヴィェラ・ヒチロヴァー、アントニーン・マーシャ、ヤン・ニェメツ、エヴァルト・ショルム、ミロシュ・フォルマン、イジー・メンツルです。
パスルは、英語読みで「アイバンパセル」という人として有名ですが、この人ももちろんアメリカに亡命しています。

この人たちの指導教官というのは、オタカル・ワーブラ教授で、彼は同時に有名な映画監督でもあります。ほぼ、この教授の学生たちが、チェコのヌーベル・ワーグを作るわけです。

先ほどの世代で、映画史に名を残した監督たちの一部です。日本での知名度からいけば、おそらく一番有名なのは『ひなぎく』のヴィェラ・ヒチロヴァー監督でしょう。ヤン・ニェメツやイジー・メンツルの映画も1960年代に日本で紹介されています。

50、60年の話の何が面白いと思われるかもしれませんが、これが本当に面白い映画なわけです。みなさんにも是非見ていただきたいです。

チェコのヌーベルバーグの第一号と言われているのが、このブラーチル監督の『ハト』です。常に面白い象徴主義的なイメージで、セリフはあまりないのです。それこそ、見ている方の心を強く打つというか、和ませる、何とも言えない面白い作品なのですね。

実はこれは2017年ですが、日本のナショナルフィルムアーカイブズ(NFA)で、 チェコの映画の特集をやっていた時のポスターです。日本でも、非常に知る人ぞ知る映画が多いです。

この人はスロバキア人のŠtefan Uher 監督です。このステファン・ウヘルのSlnko v sieti『網に捕られた太陽』はシュールで面白いかと思います。製作グループの作家、Albert Marenčin は、シュールレアリストで、その影響もあったのでしょう。

そこに同時期に、先ほどもあった、現在では偉大なチェコの女性映画作家ヴィェラ・ヒチロヴァーが、FAMUの卒業制作でもある『Strop』(天井)や翌年に『Pytel blech』(袋いっぱいの蚤)を発表しました。

1960年代は、映画だけではなく、いわゆる「演劇運動」、特に「小劇場運動」というのがありました。つまり、演劇が映画に何らかの影響を及ぼすというのがあるわけなのです。ですから非常に風刺的であったり、チェコの場合は不条理劇というのが映画になったりしました。 チェコだと例えばSEMAFOR、REDUTA、NA ZÁBRADLÍという劇場があり、今も現役の劇場になっています。

実はJan Švankmajer監督も、このセマフォール劇場で この「仮面劇」と いう劇団を結成してしばらく活躍していました。

これが後に彼の最初に撮った短編作品『Posledni trik pana Schwarcewalldea a pana Edgara』(シュワルツェンワルト氏とエルガル氏の最後のトリック)に繋がっていくわけなのです。

先ほど申し上げましたチェコ・ヌベルバーグにとって、文学からの影響というのは非常に大きいわけです。 例えばBohumil HrabalやJosef Škvoreckýです。もちろん、フランツ・カフカもプラハ生まれの人ですので、影響しているわけです。あと、多くの当時の1960年代の映像作家の人にとって、実在主義、中でもサルトルの思想が非常に色濃く影響しています。

Až Přijde Kocour『猫に裁かれる人たち』Vojtěch Jasný (ヴォイチェフ・ヤスニー)は、とても実験的でおもしろい映画を撮りました。これは日本でも割と成功を収めた映画です。眼鏡をした猫が、眼鏡を外すと視界に入る人間は性格により色付けら識別されているという映画です。

前回の「チェコ人形劇とチェコアニメーションの小史」でも紹介した、チェコアニメの巨匠、Jiří Trnka監督もチェコ・ヌベルバーグの一人になります。彼の『電子頭脳おばあさん』という、ロボットおばあさんの非常に変な近未来の話や、それから同じく65年に、彼の最後の、政府にバンされる映画となる 『Ruka』(手)が発表されます。

これをもって、彼の制作活動は打ち切られました。この作品は明らかに政府にへの揶揄した反体制的な映画でした。トルンカは1968年に亡くなるわけですが、3年間で1本も作らせてもらえないという非常に不思議な時代だったわけです。

1963年というのは、戦後の映画制作年として、一番実りの多い1年として見なされていて、長編は1年で35本、全てが傑作とみなされていました。『Černý Petr 』(黒いペトル)、『Konkurz』(オーディション)、『Křik』(叫び),『O něčem jiném』(何か違うものについて)、 『Démanty noci』(夜のダイアモンド)、『Každý den odvahu』(毎日勇気を)、『Bloudění』(彷徨い)、『Intimní osvětlení』(懇意な照明)、 『Každý mladý muž』(若き男諸君)、『Lásky jedné plavovlásky』(ブロンドの恋)、『Perličky na dně』(水底の小さな真珠) など傑作作品があります。

ミロシュ・フォーマンにおいては、アメリカに亡命し、名作を沢山創りました。ジャック・ニコルソンの主役として知られる『One Flew Over the Cuckoo‘s Nest 』(カッコーの巣の上で)や、いわゆるモーツァルトの生涯を描いた『アマデウス』、『HAIR』ですとか 恋の起きてですとか 晩年はラリーフリントですとかMan on the Moon (1999マン・オン・ザ・ムーンとか『The People vs. Larry Flynt 』など素晴らしい作品ばかりです。

67年の『Hoří, má panenko』は本当に伝説的な映画です。消防団の映画で、彼らが舞踏会を行って、いろんなことが起きる内容です。それが、コメディなのですが、当時の社会の非常に強い批判、また、人間の風潮を強く批判する映画で、笑っていいかどうかというのは実はよくわからないのです。チェコのヌーベルバーグは、非常にブラックユーモアがたっぷりあるのです。

それから65年に、エルマル・クロス監督とヤン・カダール監督の二人による合作映画『Obchod na korze』(大通りの店)」という、戦争中のユダヤ人のテーマを扱う映画があります。

これはなんと、1965年第38回アカデミー外国語映画賞を受賞しました。実は、60年代にチェコスロバキアで作られた映画の何本かが アカデミー賞を受賞したり候補になったという時代でもあります。

そもそも、チェコ・ヌベルバーグがなぜ起きたのかといと、まずはやはり、プロパガンダ映画への抵抗があったわけです。先ほど申し上げましたように、60年代の初めにロシアのニキタ・クルシチョフという政治家がスターリン主義を批判したわけです。それもあり、プロパガンダ映画の抵抗になり、真実を映像にする必要性を感じたからというふうに言われています。ですので、普通の映画だと“虚構”というのが割と強くて、虚か事実かどっちかわからないのです。しかし、ヌーベルバーグというのは、本当に生の人間をさらけ出すというのがメインの目的だったのです。さらに、それで当時は、すでにフランスやイタリアなど、各地映画芸術の最盛期でもあったということで、インスピレーションとしては、チェコの戦前のポエティスム、イタリアのネオレアリスムです。共産権の国であったチェコスロバキアに、海外からこういう映画が自由に入ってこれた60年代というのは、50年代と違って、非常にオープンになったわけです。しかし、その全てが終わるのは、1968年の旧ソ連の戦車が侵入してからです。

ですので、68年の夏までは、割と緩やかで自由で、しかも検閲はなかったわけです。
また、チェコのヌーベルバーグの場合は、フランスと違って、映画運動というほど団体での行動ではなかったわけです。 あとは、映像の作り手が、被写体の人々と関わる行為そのものを記録する手法がチェコの映画でも使用されるようになり、映画は一つのドキュメンタリーとしても捉えることができるようになりました。

これは、先ほどから登場しているVěra Chytilová監督の1963年の社会学的なスタンスが強い『O něčem jiném』(違うものについて)という体操選手についての映画です。

69年の有名な『Ecce Homo, Homolka』は、三部作ですけれども、まさにチェコ社会への通列な批判で、チェコ人の良くない人柄というか、性格の大衆性を見せていて、あまり実は笑っちゃいけないというか、もうどちらかというとちょっと見て辛くなるようなのがあります。また、プロの俳優じゃない、もうドヘタの演技が最高です。

こちらも65年、『Perličky na dně』(海底の真珠たち)たちというオミニバスです。

これはチェコ映画の担い手となるイジー・メンツル、エヴァルト・ショルム、ヴィエラ・ヒチロヴァー、ヤロミル・イレシュ、ヤン・ニェメツ監督本当が、ボフミル・フラバルの原作から映画を製作しています。

イヴァン・パスル監督の、あまり有名な映画ではないかもしれないですが、ロバート・デニーロも出演している映画『Intimní osvětlení』を アメリカで撮っています。

それから、映画がさらに哲学的なスタンスに富んできます。これはフランスのヌーベルワーグによる影響があり、社会的コンテキストを網羅する 作品が非常に多くなってきます。特にこの『Démanty noci』(夜のダイヤモンド)は、戦争とユダヤ人問題を網羅する映画です。

さらに、この『Smuteční slavnost』(葬儀)はエヴァルト・ショルム監督です。このように割と暗いテーマの映画も、全てがやはり社会問題や真面目なテーマを扱っています。こちらは実は68年にソ連の戦車が入ってしまって、撮影されたのはまさにその頃でした。 初上映されたのは69年でしたが、1回の上映でお蔵入りになってしまいました。

それからまた、Vera Chytilová(ヒヴィエラ・ヒチロヴァー)監督の作品『Ovoce stromů rajských jíme』(天国の樹の果実を食べて)で、このポスターはなんと、ヤン・シュヴァンクマイエルの妻、シュルエアリズムの画家だったEva Švankmajerováが担当しています。

非常に有名な映画を撮っている、パヴェル・ユラーチェ監督とヤン・シミット監督の2人による映画『Postava k podpírání』(支えるための姿勢)という映画があります。2012年の荻上直子の『レンタ猫』も影響されているのでしょうか。これは、とある町に、猫のレンタル屋があり、そこで猫を借り、それを返しに行くと、店ごと無くなっているという、非常に不条理で面白い映画なんです。このユラーチェク、例えばヒチロヴァー監督の『ひなぎく』、アニメーション巨匠のカレル・ゼマンの『狂気のクロニックル』という長編映画の脚本を書いています。

この映画の主役の俳優が猫を飼えそうと思って歩いているところの後ろに、スターリンの像が数ヶ月前にあったということです。

これはPavel Juráček(パベル・ユラーチェク)です。非常にユニークな人で、脚本が多いのですが映画も何本か撮っています。

これはつい最近ですね、 彼の日記を元とした数千ページに及ぶ大著が出ました。

ユラーチェクの妻のダニャ・ホラーコバは、自分の夫について『パベルについて』という本も出版しています。

それからこの、Jan Němec『O Slavnosti a hostech』(パーティーと招待客)という映画です。 副題として、「一人の人間の悲劇を呼び起こす、愚痴と利己主義の割り当てについての比喩」という、また難しそうなタイトルです。

これは、お客さんが、とある人のパーティーに呼ばれるわけですが、最初からちょっと誰のパーティーなのか、何が起きているのか分からないまま映画が終わってしまうわけです。共産主義を批判する映画として知られていて、共産主義による見えない圧力を批判する作品として有名なわけです。

同じくニェメツ監督の『Mučedníci lásky』(愛の殉教者)。非常に映像が美しく、歌が良くて、単に感傷的ではない作品です。

大スター歌手のMarta Kubišováが主演をしています。特に68年に自由の名曲、『マルタのための祈り』という曲で有名になりました。チェコは1989年の11月17日に「ビロードの革命」が起きて、その時に再び彼女は脚光を浴びるわけなのです。

これは、本人はチェコスロバキアヌーベルバーグと関係ないと言っているのですが、ヤン・シュバンクマイエルの『Zahrada』(庭園)という、非常に不条理劇を思えるような短編です。久々に会った二人の同級生が、一人を自分の家に招くわけですけれどもそこに着いたら柵が人間でできているというものです。

その翌年に完成されるPavel Juráčekの『PŘÍPAD PRO ZAČÍNAJÍCÍHO KATA 』(新入りの死刑執行人のための事件)という、 ジョナサン・スビフトのガリバー旅行記が 原作として作られた映画です。

初版は1726年です。皆さんご存じのラピュータやバルニバルディというのは、実は当時の地図でいうと日本の近くにあったという説があるのです。これはもちろん、スビフトの空想なのですけども、 当時の地図を見ると、字が小さいのですが、ここにJAPONと書いてあり、レッソと書いてあるのは北海道のイエソにあたります。

チェコスロバキアの映画音楽の巨匠と称されるZdeněk Liška 彼は長編の音楽を担当しただけではなくてアニメーション音楽もよくやっていました。ですから、ゼマン監督やシュバンクマイエル監督の映画の音楽もほとんどを担当していました。リシュカ監督が亡くなってシュバンクマイエル監督は、自分の映画のために、今までの彼のあるもののみを使うということを決めたぐらい、この人を崇拝していました。

例えば1961年のフランチシェク・ヴラーチル監督『Ďáblova past』(悪魔の罠)や『Údolí včel』(蜜蜂の渓谷)の音楽もリシュカ監督が担当しています。
勿論、戦争をテーマにした作品も多くつくられました。
ヤン・ニェメツ監督『夜のダイアモンド』や、

ヤーン・カーダール監督とエルマル・クロス監督の『エンゲルヘンという死神』などの名作があります。

その中で一番有名 世界的に有名なのはこれはJiří Menzel(イジー・メンツル)監督の『Ostře sledované vlaky』(厳重に監視された列車)でしょう。非常に悲劇的な映画で、若い駅員さんの話です。この映画は、1967年、第40回アカデミー賞を受賞しています。ですから、一番最初に『大通りの店』、そしてフォアマンの『火事だよ、かわいちゃん』、そしてこの映画が立て続けて受賞の対象になったわけです。

それからカヒニャ監督の『Kočár do Vídně』(ウィーン行きの馬車)というこの映画もなかなか興味深いです。やはり戦争のテーマです。

ユダヤ人の虐殺などをテーマに、戦争を生き残ったとても美しいユダヤ人女性の話『Dita Saxová』です。非常に心を和み、悲しい、しかしちょっとシュールな映画で、原作はアルノストルスティックです。

それからこれはシミット監督の『ホテルオゾンでの8月の最後』 です。この映画もまたシュールな映画です。要するに地球に、おそらく原爆が落とされ、ほぼ全員が死亡した中、生き残る母子家庭の物語です。

戦争テーマは終え、ミロシュフォルマンの『ブロンドの恋が作られて』です。 恋人の話であり、また非常にコメディとして輝き、アメリカでも非常に人気作品になったと聞いています。こちらもアカデミー賞の候補になりました。
この時代は、検閲を受けないコメディ映画が沢山登場しました。

さて、66年にいよいよ偉大なチェコの女性映画作家、Věra Chytilová(ヴィェラ・ヒチロヴァー)監督が、『Sedmikrásky』(ひなぎく)を撮るわけです。 日本でも素敵、かわいいと人気ですが、これも実は当時の社会を批判する映画として非常に名高い映画です。 この映画も共産党にものすごく批判され、上映禁止処分を受けた後にお蔵入りになります。
監督は7年間の映画活動禁止を命ぜられました。

ヒチロバー監督と協力した、重要人物、 美術・衣裳デザイナー のEster Krumbachováさんを紹介します。クルンバホバーさんは、美術を担当したり、脚本、そして自分の映画も実は1本だけ撮っています。非常に面白いチェコの映画に面白い影響と貢献を残した人です。

Jaromil Jireš監督による『Valerie a týden divů』です。14歳の女の子が女性になっていくという、いわゆる思春期を描く、非常に魔化不思議な映画で、日本でもファンが多い作品です。

先日、NHKで日本のサブカルチャーの番組で、「日本のゴスロリータの始まりはこの映画だ」と言われていました。

この映画の原作はVítězslav Nezvalの『Valerie a týden divů』(ヴァレリエと驚異なる一週間)で、日本語でもこの本が出版されています。

最後に紹介する、チェコのムーベルバーグを締めくくるかのような映画『Spalovač mrtvol』(火葬人)です。 第二次世界大戦とユダヤ人の虐殺頃の火葬場の館長を務める人の話です。

その人は病的になっており、あらゆるものを自分の火葬場に例えるわけですね。実はこれも悲劇とブラックヒューモアがあり、割と笑える映画なのです。

これにて、長くなりましたが、チェコスロヴァキアのヌーヴェルヴァーグを是非観てくださいというお誘いを終わりにします(笑)。
ヌーヴェルヴァーグの映画を中心に話ましたが、映画、デザイン、写真など全てが繋がっていることも今回の取り止めのない話からご察しいただけるかと思います。
また、チェコスロヴァキアやチェコ共和国の映画はまだまだ日本では十二分に知られていません。今回を通して、皆様が興味をもってくれ、視聴したり研究したりしてくれると幸いです。

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