「チェコスロヴァキア戦後デザインの葛藤」~もう一つのヨーロッパ芸術~

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 本日は「戦後以降のチェコスロヴァキアのデザイン」を紹介したいと思います。20世紀のチェコスロヴァキアのデザインはとても奇才でアバンギャルド。そしてその背景には社会情勢やアイデンティティーなど複雑な問題を孕んでいました。今回も、日本と随分違う世界観を感じることかと思います。それでは、グラフィックデザイン、プロダクトデザイン、建築、アニメやパブリックアートなど、幅広く包括的にお見せしていこうと思います。 

今回の講師は、Petr Holý氏をお迎えしました。ホリー氏は、幅広いアート、デザインの知見と情熱をお持ちで、チェコ関係のことをお聞きするなら最も適した文化人であると思います。今回も様々なアートジャンルを横断しながら、芸術文化を総合的に網羅していく足掛かりになっていくことかと思います。それではホリーさん、よろしくお願いします。 

以下ホリー氏):

 よろしくお願いいたします。 紹介にあずかりましたペトル・ホリーと申します。 私は、日本の大学で歌舞伎を研究した後、東京のチェコ大使館にある「チェコセンター」というチェコの外務省の外閣団体を創設し、8年程そこの所長をしていました。その際に、チェコ芸術文化を日本で紹介するという役目をさせていただいておりました。現在は「チェコ蔵」というブランドを立ち上げ、その仕事を継承、継続しています。それでは、さっそく今回のテーマ「チェコスロヴァキア戦後デザインの葛藤」に入っていきましょう。 

まず、チェコ共和国の簡単な紹介です。北海道より少し大きい程度の小国チェコは、ヨーロッパの真ん中に位置することから、東西南北の交差点にあり、色々な国からの影響を強く取り入れてきました。それにより、独自の文化が出来上がったと思います。プラハは“百頭の街”とも呼ばれていまして、中世時代の塔が100塔以上ある古都でもあり非常に歴史的に綺麗な街です。

写真右にもある、1985年の名作映画「アマデウス」では、チェコの映画監督、ミロス・フォアマンがモーツァルトを題材に製作しました。モーツァルトは、プラハの街に魅了され、何度もプラハに訪れおり、ドン・ジョバンニというオペラは世界で初演されています。その他、順番にお話ししていこうと思います。

1908年、ARTを主体とする芸術集団、ARTĚLが創立されました。

例えば、この主要メンバーのヤナークホホルは建築家で、後にチェコにしかないと言われるキュービズム建築様式を作りました。 

第一次世界大戦が勃発する前の年の1913年、キュビズム建築様式としてコワジョビツ邸が建設されました。絵画の画法としてのキュビズムはありますが、建築としてのキュビズムというのはチェコにしかないと言われています。

チェコ生まれのアルフォンス・ミューシャで有名なアール・ヌーボー時代は、過剰な装飾に富む様式でしたが、ドイツのバウハウスキュビズムのように、20世紀になると急激に装飾が削られ、そこでモダニズムが生まれるわけです。 

次に、1922年、プラハで「Družstevní práce=協同組合」がつくられます。 これは2つの大きな理由があり、 文化と社会の融和、そして優れたデザインの調度品を作るために、共同組合が必要になりました。

上写真のポスターは先ほどのARTĚLを作った一人 Ladislav Sutnarがデザインしています。しかし残念なことに、この共同組合は1957年に解散しました。 

この共同組合の作品を展示したり売るための建物も作られました。「Krásná jizba」、直訳して「美しい部屋」という名前です。このコンセプトは、住んでいる家のインテリアを美しくしようという運動です。 そんなにお金をかけなくても良いものを求められるような流れが、このようなデザインを必要とするようになったのです。 

1950年代には、これが民芸政策センターになり、チェコの田舎の民芸品などが売られていました。つまりクラスナーイズバというのは、実は一般人向け、 要するに普通の人たち向けにあったであるにもかかわらず、広告やデザインは素晴らしいデザインの数々です。

このポスターは2018年に、Krásná jizbaについて、プラハ工芸博物館で展覧会があったときのものです。 

こちらは、1920~30年代当時のクラスナー・イーズバ 共同組合の広告です。実はこの広告デザインも食器のデザインも、 先ほどのARTĚLのラジスラフ・ストナルのデザインです。そして写真は、なんとチェコを代表する写真家Josef Sudek (ヨゼフ・スデック)によるものです。ですので、当時一番優れた人たちが集まり、このような活動をしていたわけです。 

こちらもラジスラフ・ストナルのデザインした、吹きガラスによる耐熱ガラスのティーセットです。これが1930年代につくられたというのは当時はセンセーショナルなことでした。  

同時に、ストナルは子ども向けのおもちゃや積み木も作っています。バウハウスっぽい、あんまり余計なリアリズムが見受けられない良さがあります。 

 次に、建築について少し紹介させていただきます。これが、ストナルが住んでいた家です。これは1932年に施工されたもので、当時最新のヨーロッパモダニズム様式です。構成主義とも言われ、余計な装飾を排除するということもあり、 白い漆喰の壁、三角形の屋根が普通だった時代に、天井が平らの屋根がつくられています。このストナルの家があるのは、プラハのBABAという、丘の上にある高級住宅街です。この設計はOldřich Starýと、内部デザインはLadislav Žákいう建築家によってつくられています。当時30代の彼らは、このような建物を次から次へとつくっていきます。 

写真にも見られる、家の角が丸いというのは1920年代から30年代のバウハウスからの影響による近代建築です。

このババ住宅街のカタログもストナルがデザインしています。ストナルのトレードカラーのオレンジ色です。 

協同組合出版からの月刊誌『パノラマ』にて、ストナルが装飾をしています。

機能主義の建物内のインテリアをできるだけの装飾を省いた写真です。 

それからこれがNejmenší dům(最小の家)という本で これもストナルがデザインした構成主義的な影響が見られる装飾です。 

『byt』(=住宅)いう本とがありました。『byt』の写真は、Josef Sudek (ヨゼフ・スデック)の撮影です。

これも非常に有名な本で、絵はチェコ生まれで戦後直後フランスパリに亡命したToyen(トワイアン)というシュルリアリズムの女性画家です。数年前に東京の新国立美術館で、彼女の絵も含めたシュールリアリズムの展覧会がありました。 

 実はLadislav Sutnarは、第二次世界大戦直後、アメリカへ亡命と帰化します。それ以来チェコに帰らず、アメリカで亡くなるまで、たくさんの業績をあげました。 

『visual design in action』という、 これは1961年に彼が出した本で、ビジュアルデザイン、産業デザイン、広告デザインなどの多岐にわたる作品を作り出していきます。

例えばこのタイヤの商品カタログのように、何かのグラフを入れ、このような新しい形にしたのはストナルが最初だと言われています。一般的に面白みが欠けていたパンフレットを、グラフィックデザインによって活気づけたと言われています。  

これは1953年のパッケージデザイン『The force of visual selling』、“視覚的に売る”という、やはり物を披露する時や新商品を紹介する時に、視覚的な部分は非常に大事であるという、グラフィックデザイン上のモットーをストナルは提唱しました。

アリカの電話会社ベルシステムとストナルが製作した本『How to show telephone numbers on letterheads』は、電話番号のデザインや、どのようにそれらを印刷すべきか書かれた本です。ストナルは電話番号をこのように分割し、覚えやすくするようにしました。ですから、当時のアメリカのそれ以前と以後を見ると、番号表記が随分と違います。市外局番を視覚化する独自の方法をデザインし、そのグラフィック言語に”カッコ”のアイコンを導入しました。今でこそ当たり前のものをストナルが創り上げたことは大きな功績です。

色々なアイコンをどうデザインすべきかなど、広告デザインでのタイポグラフィーがいかに大事なことかを発表しています。『New Patterns in Product Design』というカタログデザインでは、プロダクトデザインを熟考して視覚化されています。

 次は少し政治体制の話をしていきます。 

1948年2月末に、チェコスロヴァキアに政変が起きます。チェコスロヴァキア共産党がクーデターを起こし、いわゆるインテリ階級ではなく、労働階級が国の全ての祭りごとに関わるようになりました。 この大変な時代を前に、ストナルはアメリカに亡命しましたが、当時として正解だったかもしれません。

2月25日、当時のベネッシュ大統領は、最終的に辞表を受理し、共産党の新モスクワ派の社会民主党による新政権を指名せざるを得なかったということになります。その2週間後、なんとチェコスロヴァキアの最初の大統領のマサリク大統領の息子、ヤン・マサリク外務大臣が外務省の宮殿の最上階から落ち死亡しました。自殺とされていますが、いまだに暗殺説が強く囁かれています。

共産党のクーデターをもって、チェコスロヴァキアは完全に共産権に入ってしまい、その体制は1989年の11月まで続きます。 

1948年以降、チェコスロヴァキアのデザインは、全てプロパガンダに悪用されるようになりました。しかし、例えば「プロパガン映画」については、日本では第二次世界大戦時でプロパガンダ的な映画が多かったのですが、チェコスロヴァキアでは、意外に第二次世界大戦中はプロパガンダというのはほとんどなく、映画として有名なのは、なんとコメディ映画でした。これは、ストレスを忘れるがために、映画館でコメディ映画を見るという不思議な時代でした。そのコメディの中のどこかに政府へのアイロニーがあったり、もしくはプロドパガンダ的なものが孕んでいるなど、チェコスロヴァキア人にしか行間を読めない部分もやはりありました。

戦中にコメディー映画に出ていた当時の俳優たちは、例えばナチスの幹部たちと会わないといけないわけです。ですから、戦争が終わり、こういう俳優たちは別に悪い方に走ってないにもかかわらず、戦争が1945年に終わり、48年に共産党クデータがあり、大体1951~1952年頃には、例えば本当に大スターが吊る仕上げ裁判を受けたりしたということがありました。50年代というのは非常に暗い時代と言われています。 

その社会が一番暗い時期に、例えば現在名、ホテルインターナショナルのようなホテルが建てられました。中に入ると、当時の最高のアーティストによって作られた全てが共産主義的な模様で埋め尽くされています。例えばガラスのステンドガラスの窓や調度品など、まるであの時代にタイムスリップしたようなホテルが現在も残っています。この様な建築をスターリン様式と言い、要するにロシアを模範に建築されているのです。しかし幸いにも、その後すぐにスターリンが亡くなり、63年にクルシチョフによるスターリン批判がされているので、60年代になると意外にも圧力が緩和し、このような建物は一切作られなくなっていきました。 

第二次大戦中はプロパガンダ映画はなかったと申し上げましたが、1950年代の共産主義政権下ではプロパガンダ映画ばかりです。例えば、当時の映画ポスターですが、今これを見ると本当に共産党崇拝がわかります。共産主義の“赤”色、モチーフ、キャッチコピーなど、全てにそれが見て取れます。  

1955年5月1日に、ソビエト連邦の最高指導者ヨシフ・スターリン巨大なモニュメントの竣工式が行われてました。高さ15メートル以上ある彫刻は、数年後に爆破され、現在はこの台だけが残され、代わりに巨大なメトロノームのオブジェが記憶の時を刻んでいます。

1950年代というのは、食料品不足の時代で、このモニュメントは、 ブラックユーモアとアイロニーを込めて、「肉屋の前の行列」という風に呼ばれていました。  

これを設計した、もしくは選ばれた彫刻家がこの Otakar Švec です。シュヴェツは非常に優れたアーティスト彫刻家だったからか、共産党政府に抜擢されてしまいます。

おそらく抜擢され、それを断ったら 刑務所に入れられて殺されただろうということで、 一応当て前としてはこのオファーを引き受け、モニュメント彫刻を制作しはじめました。 

シュヴェツは1920年代、モダニズム彫刻として、パリ万博で受賞した「バイカー」です。

1930年代を代表するコメディ役者コンビ「ヴォスコヴェツ&ヴェリフ」など素晴らしい作品を残しています。 

実は、1955年5月1日に序幕式を前にして、シュヴェツは自殺をしました。その数ヶ月前には、彼の奥さんも自殺しています。その償い、罪悪感、責任を持って自殺したのでしょう。しかし勿論、当時これはメディアで伝えられることはありませんでした。2017年にこの死別を題材とした映画『Monstrum』が作られていますが、それを見ると辛い気持ちになります。 

その後なんと、1962年11月にダイナマイトで破壊され、このモンスター的モニュメントが撤去されました。

右写真は、別のスターリングの頭部です。ほっぺたにWCと書いてある、こういう写真もあるのです。 ともあれ、自由化のために戦った勢力や運動が、現在に至るものとなりました。

チェコスロヴァキアとデザインの話に戻りましょう。その後はどうなっていくかっていうと、 1958年に戦後初の万博、「ブリュッセル万博」がで行われ、チェコスロヴァキアは国をあげて取り組みました。 

写真右のポスターチェコスロヴァキアはプロパガンダ的デザインです。右の少年は赤いスカーフ「ピオネール」をしています。共産党を率いる青年団男子は必ず締めないといけませんでした。

チェコスロヴァキア政府は莫大な資金を出し、国を挙げての万博に取り組みました。

有名なのは、写真右のアトミウムです。日本の1970年、大阪万博の「太陽の塔」と似た存在です。 

チェコスロヴァキアはTATRAという車を披露しました。

この車、603というのが非常に有名ですが、一般人はまだまだ乗ることができず、乗っていたのは幹部の人のみでした。

“ポチェムキンムーラ”という表現がチェコではあり、“張りぼてで立派に見せかける”意味ですが、ここでは、「実は一般人が乗っているというふうに見せて宣伝」してることを意味しています。

チェコは、19世紀末から国産車を作る会社、L&K(ラウリン&クレメント)があり、明治時代の日本にも何台か輸出されている非常に優れた車です。その会社は後にŠkoda (=SKODA)という会社になります。 

こちら、日本の雑誌「カーマガジン」ですが、1964年の8月の表紙に、当時のチェコスロヴァキア大使館の建物とその前に2台の車があります。車に旗がついているのは、大使が乗る公用車ということです。ベルギーのブリュッセル万博の6年後に、日本でも紹介されたということになります。

戦前からこのタイプはあり、1554年にデザイナー、フランチシェック・カルダウスにデザインが付け加えられます。

写真右のように、共産主義の国でこの ポップアートみたいな絵は変ですし、アメリカ人のような人が立っているような変な矛盾が当時のチェコスロバキアにはありました。 

タトラ503は、後ろにこの尾びれがついていて、実は戦前からのデザインですが、ヒテラーも非常に好んだデザインだったようです。

タトラ社には戦前から色々なタイプがあり、タトラのT77、T87など非常に車として優れています。 

写真右は、T603についての広告デザインです。

タトラ繋がりです。T3というトラム(路面電車)が1960~80年に大量作られ、興味深いのは旧共産圏の各国へ輸出されたということです。

今も多分北朝鮮で走ってる可能性は極高いです。このタイプのT3今もも走っていますね。写真の共産主義を象徴する星星がつけられるようになったのは1948年から 89年です。今はだいたいチェコの紋章ライオンが付いています。 

これがデザイナーMiroslav Navrátil がデザインした椅子で、 それが後にこのようなデザインになりました。 

もう少し万博の話を続けます。こちらは、チェコスロヴァキアパビリオンの建築モデルです。

近代的な建物と共産主義的彫刻は変なものです。

チェコスロヴァキアは万博を通して、伝統産業であるガラス芸術を継続的にアピールしています。 

ガラスの噴水含め、あらゆるものがガラスでつくられ、まるで舞台のような照明を使って展示をしています。 

当時の1950年代を代表するようなデザインは、後に「ブルッセルスタイル」と呼ばれるようになりました。

非常にシンプルで皆に求められやすいものだったと思います。

 こちらは万博時の演劇です。

世界にも有名な「ラテルナマギカ」は、1957年に、スフォボダという演出家の協力を得て創立になりました。 初演はブルセルの58年です。

ラテルナマギカは何かというと映画、投影機、演劇、パントマイムやバレエを複合した独創的なもので、メディアアーツのルーツとも言われています。

大事なのは、多数の映写機を使うところです。今はパソコンやプロジェクターで簡単にできますが、当時としては前代未聞で、沢山のプロジェクターとスクリーンを使っていました。

ここに図がありますが、スクリーンと映写機を動かしながら、このような舞台を作って、背景には映像があります。

次はインテリアデザインの話に移ります。

共産主義時代ですが、例えばAlexej Kusákの『センスの本』や『私たちが住んでいるところを綺麗にしないといけない』という本が出たりと、家具を新調することが非常に流行するようになりました。 

例えばこれは、団地の小さなアパートでも使えるような、空間を有意義に使えるような家具が流行り出したわけです。

先ほどは戦前のストナルの本でしたが、こちらは戦後のものです。

亡命した彼は、当局にとって、けしからん人物になっているので、一切、彼の名前を挙げることはできないわけです。おそらく、彼と一緒に亡命しなかった同僚が関わった人が本出版したのです。

家具、住宅、展覧会の写真があったりと、とても素晴らしいセンスと共に、懐かしの時代を思い出します。

これもブリュッセルスタイルにあたります。

照明器具も立派です。

先ほどもお伝えしましたが、1958年のブリュッセル博覧会のパビリオンで展示されたもののほとんどは、見かけだけで、本当は一般人の日常にはなく、お店行っても買うことができなかったわけです。 

 それが大体10年後くらいに一般的になっていきました。

ラジオ、蓄音機、テレビなども本当にいいデザインです。

この椅子はVertex社のもので、先ほど路面電車と同じデザイナーです。 

あるものは他社の有名な家具に似ていたりと、バクリの時代でもあったわけです。

これも60年代のデザインに入れてもいいと思うのですが、Otto Wichterleという大学教授は、実は世界で初めてコンタクトレンズを作った化学者です。この機械を使って、初めてのコンタクトレンズ製造に成功しました。このコンタクトレンズ製造機は、MERKUR社の部品から作られたものです。  

今もメルクル社は経営している玩具メーカーなのです。金属のパーツとネジを使ってプラモデル的に車や動物などをつくることができ、また部品だけも売っています。 

これを使ってWichterle博士はコンタクトレンズの試作を作れることを証明しました。 

 多分、他の西側諸国や日本だったら、しっかり会社の資金で機械を作っていくと思うのですが、彼は子供が遊ぶようなもので、日曜大工みたいに機械を作れてしまうからすごいですね。 

これは万博の展覧会の本の表紙になっているJaroslav Jetmarのブリュッセルブ万博以降に出来た造語、ブリュッセルスタイルの食器です。

今から見ればまた共産主義国家と思えないようなデザインがどんどん生まれていったわけです。

50年代は非常に大変な時代だったのですが60年代になり、それこそ先ほどお見せしたスターリン像が爆破されて以降、割と自由を迎えた間があります。 

 Jaroslav Ježekの磁器のオブジェが一世風靡しました。

現在もチェコ国内外の収集家を魅了するグッズになっています。 

70~80年代は各家庭にこのような置物があった程です。

その他こういった作家の作品も名作です。

 

CZECH 100 DESIGN ICONS」が2005年に出版されたりと、チェコのデザインがアイコン化していきました。

この本の中身を覗いていきましょう。

チェコスロヴァキアの工業デザインやプロダクトデザインはますます発展していきました。 西ヨーロッパををもっと魅了しよう、外貨を稼ごうという目的もあったことでしょう。 

ČEZETAは、600年代を代表するスクーターです。当時の60年代の映画などには必ずこれが出ていました。

非常にバイクとしては優れていましたが、愛称は「ブタ」と言われていました。

自転車、ミキサー、アイロン、ランプなど、60年代以降のデザインは今でも見劣りすることなく、とても斬新でシンプルなデザインです。  

現在ではとても高価なコレクションアイテムとなっています。

この時代のアニメ関係をお見せします。

今も愛用されているキャラクター、Zdeněk Milerクルテックです。 一番暗い時代、1957年に「モグラとズボン」というアニメーションが生まれました。

こういうアニメーションが生まれるわけですので、やはり毎日の大変さを思わせないようなものが 求められたというふうに思います。 

チェコアニメの巨匠、Jiří Trnkaのブルセル万博の翌年にできた「真夏の夜の夢」です。

非常に長編で、シェイクスピアをアニメーションした作品です。

現代へと年月を経ていく中で、歴史に残る作品をさらに紹介していきます。

60年代のチェコのおもちゃです。作家のLibuše Niklová とアイコン的の猫です。

彼女のおもちゃ作品は、テイトモダンなどの有名美術館のコレクションにも入っています。リブシェの息子、Petr Niklは有名な画家として活動しています。

また建築の話です。

プラハ4区、ポドリ地区の水泳プールで、65年に完成した鉄骨の構造です。

チェコの建築的なアイコンともなっている、Ještěd Tower、テレビ放送機兼ホテルです。

建築家のKarel Hubáčekは、69年にこれでペレ賞を受賞しました。

60年代の、瞬く間の自由というのは、またも1968年8月21日に、ソ連軍がチェコ全土を占領し、これでまたチェコは不自由になりました。

1970年代の大阪万博とは非常に盛り上がっていて、世界的に注目されました。チェコからは、ガラスの巨大なオブジェが運ばれました。

ガラスの巨匠、 Stanislav Libenskyと妻のJaroslava Brychtováは、ガラスの川を大阪のためにガラスで制作しました。

そしてもう1人、こちらもガラス作家のRené Roubíček は、ガラスの雲という、パイプガラスを巧みに組み合わせた作品を展示しました。 

まだまだ、お見せしたい素晴らしいアートやデザインがありますが、代表的なもののほんの一部を、1940~1970年代までの時間軸でお届けしました。日本では、第二次大戦後から表現や経済の自由がありました。しかし、チェコではその自由は規制されており、アーティスト、デザイナー常に葛藤していました。だからこそ、チェコスロヴァキア人たちの自由への意志は、その創造性やデザインに込められているのだと思います。 

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