「チェコ人形劇とチェコアニメーションの小史」~ 中欧・東欧の芸術 ~

Articles in Japanese

 本日の講義は「チェコ人形劇とチェコアニメーションの小史」(A Short History of Czech Marionette and Czech Animationについてです。

 レクチャーしていただくのは、ペトル・ホリー(Petr Holý)氏です。ホリーさんは、歌舞伎の研究家と共に、過去には在日チェコ共和国大使館チェコセンター東京の初代所長勤務、そして現在30年以上にわたって日本とチェコの文化交流の立役者としてご活躍されています。チェコ文化交流サイト、「チェコ蔵」も運営しています。

今回はホリー氏には、日本でもとても人気があるチェコの人形劇とチェコアニメの歴史や魅力、また、それらがどのように繋がってるのかなども伺います。

日本とチェコは随分と違うアニメの歴史や経緯があることかと思います。それらの政治や歴史的背景に迫りながら、いかにチェコ人にアニメ、人形劇が関わっているかなども聞けたら嬉しいなと思っています。それではホリーさんの方にバトンを渡して講義をしていただこうと思います。よろしくお願いします。

 ご紹介に預かりましたペトル・ホリー(Petr Holý)でございます。今日は「A Short History of Czech Pupettery and Czech Animation」というチェコ人形劇の歴史、それからチェコアニメーションについてお話させていただければと思います。

皆さんは多分今の世の中で一番響くチェコの作家の名前はおそらくヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer 1934-)さんだと思うのですが、シュヴァンクマイエルさんに話の後半に注目を当てたいと思います。

まず、チェコ人形劇の簡単な歴史を紹介したいと思います。

そもそもチェコというのは、ドイツの東側にある北海道ほどの面積しかない小さな国で、ヨーロッパ大陸の東西南北の歴史の交差点に位置するような国です。そのことからも、昔ながらの、庶民向けの様々な芝居の形態があり、そのひとつで強かったのが人形劇なのです。もちろんチェコだけではなく、ヨーロッパの17世紀ルネサンス時代、イギリスやイタリア、オランダ、後にドイツに人形劇運動というのも起こり、様々な巡業劇団が当時のボヘミア王国(現在のチェコ共和国)にも飛び回ってマリオネットっていう人形が持ち込れました。例えば、ジローラモ・レンツィとかアントニー・ガイスラーという人形芝居の家族がいくつかあり、未だに名前が知られているわけです。ですから、チェコの人形劇といえば主としてマリオネットなのですが、要するに「操り人形」なのです。もちろん、中世時代には既に「指人形」があったり、日本ですと「人形浄瑠璃」、19世紀から「文楽」があったりします。人形劇も様々な形態もあり、中国とかインドネシアなど本当に世界各地に人形劇というのはあるわけですので、特別にチェコだけではないというわけです。

レパートリーについては、まずは聖書劇です。当時ヨーロッパは主としてキリスト教ですので、聖書で書かれた話を劇にしていました。例えば、イタリアの即興喜劇、それからドイツでは大政治劇っていうのは「Haupt-und-Staatsaktionen」という風刺劇なども非常に好まれて演じられました。 

実は、チェコで1番古い人形劇の記録は、すでに1697年、日本でいえば江戸時代初期から中期にかけたような時からありました。これはククス(Kuks)というお城の領主、シュポルク(František Antonin Sporck (Špork) 1662-1738)によるものです。彼は何よりも文化人で、例えばオペラや様々な演劇の形態、そして人形劇団もお城に呼んで楽しんだという記録があります。その中でイタリアの風刺激として知られるコメディア・デラルテ(Commedia dell’Arte)などが紹介され、そのキャラクターの1人の道化師、チェコ語ではこの1番下にカシュパーレク(Kašpárek)というものが紹介されて人気を博したと言われてます。ちなみに、カシュパーレクというのは、ドイツではハンスブルスト(Hanswurst)という風になっているわけで、またイタリアのコメディア・デラルテではアルレッキーノ(Arlecchino)、英語ではハーレクイン(Harlequin)ていう名前で知られ定着するようになりました。

これがチェコのカシュパーレック、道化役です。チェコの人形劇で全般に言える話ですが、人形たちは不気味で怖く、可愛くないのですね。アニメーションも結局そういうものが多いのですが、それはなぜと言うと、主として庶民向けで、当時の庶民というのは教養を受けてない人が多いので、なにか教訓的な人形芝居を見せることによって、良き民に育てるということになっていました。そのために人形がわりとリアルだったわけです。ある種のデフォルメは見受けられるわけですけれども、どちらかというとそれを見て怖いという印象を与えるところが1つの大きな狙いだったんじゃないかという風に思います。 

チェコでは人形劇の資料はあまり残っていません。庶民向けだったこともありますが、記録をするという習慣がないため、脚本や台本は多く残っていません。それでも分かっていることは、最もチェコ人形劇の土台を作ったとされるのはマチェイ・コペツキー(Matěj kopecký 1775-1847) です。彼は18世紀から19世紀の前半まで活躍した人ですが、今のチェコの人形劇は、この方が作ったお芝居の多くからインスピレーションを受けています。

 1775年にマチェイ・コペツキーは生まれました。当時すでに中央ヨーロッパで人気のレパートリーといえば、例えばファウスト博士の伝説があります。これがまた面白く、プラハにファウストの家があるといわれます。元々ファウストはドイツのものではと思われる方も多いと思いますが、なんとプラハにもファウストの伝説が生き生きとしています。ファウストについてはまた後ほど紹介します。 

 当時の劇場のお客さんはナイーブで、舞台効果を利用した人形を少し遠くから見ると、まず操りの糸に気がつかなく、これは自ら動く小人ではないかと、非常にびっくりしたようです。

先ほどルネサンスの話を少ししましたが、実は人形劇というのは、どちらかというとバロック時代の18世紀に最盛形を迎えるので、当時中央ヨーロッパで非常に流行ったバロック演劇との共通点がありました。バロック演劇と言えば、日本の歌舞伎とも共通点があります。舞台の効果や、せりふもあります。それから、いわゆる歌舞伎で言うところの奈落(ならく)もあります。舞台下を奈落と言うんですが、奈落からなにか超人的なもの、幽霊とかが出てきたりと、実は共通点があるのです。人形劇はそれを真似るけなんですので非常に面白い。また、人形はマリオネットと呼ばれ、これは中世のフランス語、「聖母マリアの小さな像」という意味です。

マリオネットは、操り手は舞台の上から人形を操る。だから元々操り手っていうのは見えないんですね。それで余計にそれを見る方が、奇跡だって思い込んでしまうわけです。人形によって種類は色々あり、写真にある人形はたまたま違いますが、頭から1本の針金でそれで持ち、そして手とか足、例えば目を操るための糸があったりと複雑な場合があります。このように、時代と共に非常に複雑化していくわけですが、元々はやっぱり手と頭を繋いで動かし、その後足の方から動かせるようにしています。ちなみにこれは悪魔の人形です。

人形は大体身長が50~60cmぐらいで、道化役などは少し小さく35cmくらいだったと言われています。また、現存しているもので最も古いのは、おそらく18世紀後半のものになります。チェコでは人形を菩提樹の木を使って彫られます。菩提樹の木は非常に柔らかくて、ぶつかると、例えば鼻が飛耳、角が飛ぶわけなんですけれども、すぐにまた新しいものを作って、糊をつけて直せるようになっています。人形というのは消耗品なのです。そして、大体20世紀になってから、人形を集める人たちが出てきます。ですから、本当に貴重なもチェコ人形がコレクションされているかもしれません。 

 次に、劇作者についてはほとんど分かってなくて、操る人のほとんどは文字が読めない、書けないような状況でした。そのようなことから、やっぱり資料というのは非常に少ない、もしくは無いに等しいということになっています。また、人形劇と言えば例えば即席即興っていうのがあって、それが逆に検閲問題にぶつかることもありました。そもそも台本がない、台本があってもという書けないし読めないわけですので、そういう問題が色々ありました。ところで、よく言われるのですが、人形劇のおかげでチェコ語が生き残った(=当時は公共の場ではドイツ語を話さなければいけなかった)、というのがありますが、それはすごく簡略化した話でしょう。元々、チェコ(=当時のボヘミア)はチェコ語ですけれども、17世紀から20世紀初頭にかけてオーストリアハンガリー帝国の属国でした。ですので、公用語はドイツ語で、例えばプラハに住む人のほとんどはドイツ語を使っていて、例えば路上での簡単なチェコ語での挨拶はもう野暮とされていた。しかし田舎などの村民はその教養を受けてないので、ドイツ語はわずかながらしかできなく、人形劇だとやはりチェコ語にしないと分かってもらえないのでチェコ語が使われていたのでしょう。ですので、人形劇のおかげでチェコ語が生き残ったというのは少し過言だという風に思います。

そしてもう1つ、チェコというのはプロテスタントの国で、17世紀に30年戦争になり、プロテスタントが負けるわけなんです。貴族は迫害され亡命し、残ったのはカトリックの貴族なわけです。その貴族の言葉もやっぱりドイツ語でしたので、その当時少し変なチェコ語で遊ぶというのもお芝居の目的だったという風に言われています。この少し特殊なセリフ回しを少し難しい言葉で「pimprláčtina」と言い、それは実は20世紀初頭まで残りました。 

実は、ファウストの伝説というのは非常に古く、イギリスで初めて本にしたのはこのクリストファー・マーロウ(Christopher Marlowe 1564-1593)です。「ファースタス博士の悲話」というタイトルで、それはなんと16世紀のものです。ファウストと言えば、今はゲーテによるものとされていますが、実はゲーテの100年以上前につくられているのです。 

そもそもゲーテがいつファウストを発表したかというと、第1巻は1808年ですので、さっきのマーロウより本当に100年以上後です。そして、ちょうどゲーテが亡くなる1832年に第2巻が発汗されています。 

ですので、実は、ゲーテなどのファウストが書かれる遥か前から、既に当時のチェコでは人形芝居としてファウストがあり、これが20世紀初頭の人形芝居向けの台本です。その時代には既に一般人は文字を読み書きできるようになったので、このような台本は多く出版されています。 

これは1862年のものですが、非常に綺麗で、状態の良い本が沢山残っています。写真上は、全く別の人が書いた「ヨハン・ドクトル・ファウスト」(Johan Doktor Faust)というものもありす。 

少し余談ですが、ゲーテのファウストの第二幕に、このホムンクルス、要するに「人造人間」の話が出てきます。人造人間ホムンクルスというと、もちろん錬金術と切っては切れない関係です。錬金術といえばもちろん17世紀の当時、皇帝ルドルフ2世がプラハを拠点として選びました。そこに錬金術師ほが沢山いました。まともな人も多かったと思うのですが、ペテン師も多くいて、これが当時のヨーロッパで繋がり、それがファウスト伝説の一部に入ってしうわけなのです。

ちなみに今日は少し時間の関係で全部ご紹介できせんが、数年前にファウストのブルーレイ、「チェコにおける『ファウスト』によせて」が日本で出て、私が文章を書かせてもらっています。 

実はシュールレアリストであり映像作家のヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer)は、1994年にファウストの映画を撮っており、日本でも大変よく知られた映画です。

あわせて読みたい

「チェコ文学入門」中央・東ヨーロッパのアート ー芸術と社会ー

そもそも、「人造人間」という言葉が生まれたのは20世紀、これは当時の日本語訳は人造人間なのですが、もともと1920年代に「ロボット」という戯曲を書いたチェコのカレル・チャペック(Karel Čapek 1890-1938)ロボットという言葉を初めて使いました。ファウストの場合も人造人間として人工的に人間を作るとシーンがありました。

それから、実は16世紀から17世紀にかけて、プラハで活躍したラビ・レーヴという思想家が「ゴーレム」というものを作りました。これは泥人形なのですが、口や額、ほっぺたなど諸説ありますが、おまじないの書かれた紙を入れたり貼ったりすると、ゴーレムという泥人形が蘇って人間を助け、時には反乱を起こして人間を痛めるという伝説が未だに残されています。

ちなみににラビ・レーブのお墓で未はプラハの旧ユダヤ人墓地にあります。

チェコ語では「ゴレム」と言いますが、日本語では「ゴーレム」と言いますね。1920年のパウル・ヴェゲナー(Paul Wegener 1874-1948)監督による無声映画が非常に話題になりました。

実は映画ができるまで、「ゴーレムはこういう形をしていた」という証拠は1つもなく、チェコでも1950年代の映画がありますが、これはこの映画を撮った人や美術スタッフのイメージに過ぎません。 

最後に、日本語の小説になったゴーレムといえばオーストリアの作家、グスタフ・マイリンクですね。

さて、チェコ人形劇の話に戻ります。

 チェコ人形劇愛行家協会というものが1911年にできたり、人形劇専門雑誌「Loutkář」 (人形師という意味)が発行され、一応現在も続いています。

インターネットでも閲覧可能となっているので、是非ご覧ください。

こちらは、戦後70年代に日本であったロウトカ(LOUTKA)という雑誌です。表紙のヤン・マリーク博士とは、チェコスロバキア時代の人形劇の重鎮です。残念ながらこの雑誌は今はもうありません。

チェコで作られ、日本にも支部がある「国際人形劇連盟」(ウニマ(UNIMA)」というのもあります。人形劇の黄金時代には2000に及ぶ人形劇団が活躍したと言われています。

人形については少し不気味で怖いものが多く、写真右の「チェルト」という鬼夫婦の人形なんかもあります。

なんと、日本だけではなく、チェコには河童(Vodník)がいます。 ドイツ、チェコ、オーストリア辺りにはカッパが普通にいるのです。川、沼池、湖など、文学にはよくとかには河童が出てきます。私は日本に初めて来た時は「日本にもかっぱがいるんだ」と思いました。

幽霊の人形も面白く、白衣を着せ後ろからライトを当てることによって、透けて見える効果があります。日本の感覚に非常に近い思います。日本は幽霊は足がないって言われますが、それは江戸時代からの言われで、平安時代には普通に幽霊に足がついていますので同じです。 

ですから、人形劇には幽霊が、河童が、鬼が出てきたりと、おとぎ話的な怪談ものもありますし、それらはやっぱり喜ばれるということですね。

“家庭用人形劇セット”なるものがチェコには存在しており、クリスマスプレゼントなどとして、子どもにあげるという習慣が未だにあります。箱状になっていて、箱の上に穴が開います。そして例えば、書割(かきわり)を挿して、カーテンを紐引っ張れば、観音開きで劇場が現れます。日本でいうママごみたいな感じで、教訓があるお話などを伝えていく文化があります。

これは少し立派なもので、簡単な人形がついていて、お芝居できるようになっています。後のチェコのアニメーションの話にも少し繋がりますが、やはり少し不気味なところがありますね。

人形劇といえば、1920年代にはヨゼフ・スクパ(Josef Skupa 1862-1957)という人はスペイブルとフルヴィネーク(Spejbl and Hurvínek)という親子のキャラクターをつくり、とても人気を博しました。 

少し出目のキャラクターは100年経った今でも人気がとてもあり、プラハに専門の劇場がある程です。

なぜスペイブルとフルヴィネークの話をしたかと言うと、当時のスクパ監督のところで弟入りして人形をつくっていたのが、後にチェコのアニメーションの巨匠という存在になる、イジー・トゥルンカ(Jiří Trnka 1912-1969)なのです。 

こちらはトゥルンカがつくった人形で、非常にトゥルンカらしい特徴があり、本当に可愛くない、真面目でちょっと怖い表情をしています。ちなみに彼は元々画家であり人形師でした。

チェコアニメーションの話に行きます。

歴史的に、最初のアニメーションは、ジョルジュ・メリエス(Georges Méliès 1861-1938)、という、大変有名なフランス人監督がいまして、彼の映画の1902年には既に、ロケットが港に戻るシーンというのがありまして、そこにアニメーションが使われています。初めてのアニメ映画作品は、ジェームス・スチュアート・ブラックトン(James Stuart Blackton 1875-1941)の「愉快な百面草」です。そして、「幽霊ホテル」(Haunted Hotel)もです。もちろん、1920年代にもウォルト・ディズニーも活躍します。「ニューマン劇場のお笑い漫画」(Newman Laugh-O-Grams)が素晴らしいです。ちなみに、ミッキーマウスは1928年以降に始まります。

 

次に、チェコ共和国ではどうだったかと言うと、実はすでに1920年代にこのカレル・ドダル(Karel Dodal 1900-1986)という人、それから当時、彼の妻であったヘルミーナ・ティールロヴァーという女優監督によって始まっています。2人ともエレクタジャーナルプラハ(Elekta Journal Praha)という広告映画会社の出身です。「夜景のプラハ」という映画を1927年に制作します。しかしその後の1939年、第2次世界大戦が勃発し、ドダルはユダヤ系でしたのでナチズムを逃れてチェコから亡命し、ティールロヴァーはチェコに残り、その後2人は別れてしまいます。

その後ドダルはこのイレナ・ドダロヴァー(Irena Dodalová 1900-1989)さんという方と再婚しします。そして共に活躍していきます。 

しかし、更なる迫害を逃れ次の場所へ亡命しなければいけなくなり、彼は逃亡できたものの、たまたまイレナは亡命しきれず、ユダヤ人だった彼女はチェコのテレジンという名の強制収容所に収監されてしまいました。

テレジン強制収容所でイレナは、映画のことをよく分かってる文化人として有名でしたので、強制収容所のプロパガンダ映画の企画(文化映画 Kulturfilme)製作を命令されていました。

アニメの歴史に話を戻しましょう。 

ドダルたちはどういう映画を作ったかというと、この時は普通のいわゆるディズニー的なアニメでした。「雄猫フェリックスの新しい冒険」(Nové dobrodružství kocoura Felixe)や、河童が出てくる「恋に落ちた河童」(Zamilovaný vodník)があったりします。

この数年後に、チェコ特有の「人形アニメ」が非常に人気になっていきます。

それから「塩水のライフガード」(Plavčíkem na slané vodě)とか「フシュディビルの冒険」(Všudybylovo dobrodružství)なども名作です。

あと忘れてはならないのが、「エロチックの幻想」(Fantaisie érotique)という、1937年パリ万博で絶賛された、映像があります。

モダンで面白くて絶賛されていますが、これは子供向けのアニメーションだけではなく、広告映画やアート作品が既にこの時に出ているわけです。

それから「考え、光を求めて」(Myšlenka hledající světlo)というライトによるアニメーション映画というのがあり、非常にアート性の高いものも作っていてます。

11年前に「ドダル夫妻」(Dodalovi)という本がチェコで出版されていて、色々と面白いことを知ることができます。

次は、少しプラハから離れます。プラハから400キロ程離れた、ズリーン(ZLÍN)という街があり、そこにバチャ(Bata)というシューズメーカーの会社が昔作られました。そこに、創立者で取締り役社長は、実は労働者福祉施設の1つとして、なんと2500人入りの映画館を造りました。実は当時、2500人という人が入る映画館はヨーロッパでここしかなかったわけです。

バチャといえば知る人ぞ知る“靴の王”ですが、実は当時の1番大きな映画館を作る程、映画界にも貢献したわけです。 

実はこの映画館はエフ・エル・ガフラ(F.L.GAHURA 1891-1958)いうチェコ人の建築家がコンペに勝ちとって建築したものです。当時ル・コルビジェ(Le Corbusier 1887–1965)へもこのコンペに参加したのですが、やはり外国人を扱ってしまうとお金が高いのでチェコ人にした、という話があります。

 

 この映画館では、自分の靴の工場の靴を作る労働者のための映画館ですから、上映前には広告映画を見せてしまうわけです。そこで、できるだけ広告映画を面白くするために、バチャが用いた技法というのがアニメーションなんです。

その後、この映画館の後にある、現在住宅や大学となっている場所で、広告映画を作ようになりました。その240分のドキュメントDVDはチェコで紹介されています。この監督たちの中に、後にアニメーションの方にに転じた人が何人もいます。その中に、ヘルミーナ・ティールロヴァーやカレル・ゼマンなどの大変有名な監督がいるわけなんです。 

ヘルミーナ・ティールロヴァー(Hermína Týrlová 1900-1993)は、先ほどドダルの最初の妻として映画をすることに作ることになりました。しかし、彼女の初の映画は、1944年の戦争中のため火事が起きてしまい、ネガが消失してしまいました。それをどうにか復刻するため、戦火に負けず、「クリスマスの夢」(Vánoční sen)という映画をティールロヴァーの後輩、カレル・ゼマンという監督が完成されることになるわけです。 

その後彼女は、この「アリのフェルダ」(Příhody Ferdy mravence)、これはチェコの挿絵家が描いた、当時とても流行ってたキャラクターを彼女は人形にし、人形アニメーションを作る新しい試みをしました。 

次の彼女の作品「おもちゃの反乱」(Vzpoura hraček)、これは反戦的な大変有名な作品です。これも人形をただ新しく作るのではなく、既に知られている挿絵などを人形にして映像を作る、というのがティールロヴァーの特徴でもあります。

これは1958年制作の「結んだハンカチ」(Uzel na kapesníku)という有名な作品です。これは、本当に結んだハンカチを主人公にしています。チェコでは何かを忘れないようにハンカチを結ぶ習慣がありますが、彼女はお金をかけないでそこにあるものを使って作品を作れる才能があり、そしてこれがとても可愛いのです。指人形のような感じですが、アニメーションですので1秒24コマで撮影しなければいけませんから大変です。

次は、先ほども取り上げたカレル・ゼマン(Karel Zeman 1910-1989)です。カレル・ゼマンンはティールロヴァーより10歳年下の後輩で、商業専門学校を卒業し、先ほどのズリーンのシューズメーカー、バチャ社(BATA)に入社し、ショッピングウィンドーのデザイナーなど広告の仕事をしていました。

 

1943年の戦中、ズリーンのスタジオで広告の映画を作っていましたが、戦後は自分の映画の製作をしていきます。ティールロヴァーの意志を継ぎ、先ほどお見せした「クリスマスの夢(Vánoční sen)」を完成させました。これがヨーロッパ各国でとても人気を博し、なんと先輩であるティールロヴァーは今度は彼に嫉妬してしまったのでした。

ちなみに、当時、戦後から1989年まで、チェコスロバキアは、共産主義体制下により、映画などは国有化されました。ですので、反政権的でない限りは助成金がもらえていたわけです。それにより、この当時はあまりアニメーションで政治的なことは少なかったかもしれません。

ゼマンによる、1946年「ハムスター」(Křeček)、1947年の「プロコウクさんのボランティア」(Pan Prokouk ouřaduje)などの作品もよく知られています。

1949年には、世界初、全部ガラスで作られた人形の映画「水玉の幻想」(Inspirace)も有名です。 

その後、お伽話のような、例えば「王様の耳は驢馬の耳」というのを撮ったりします。ゼマンは人形アニメーションも普通の切り絵アニメーションも、共にとても個性的な仕事をしていました。

また、カレル・ゼマン監督は様々な人と協力して新しい仕事もしていきました。 

冒険文学の映画家として世界的に有名だったズデニェク・ブリアン(Zdeněk Burian 1905-1981)と協力もしています。ズデニェク・ブリアンは、古生物学者のヨゼフ・アウグスタ(Josef Augusta 1903-1968)と協力して、世界で初めて恐竜に色彩をつけた人として知られてます。 

日本で1960−70年代にはブリアンの本は結構出版されていて、「人類以前」や「35億年・生命の歴史」など日本の大ヒット作を作っています。

ゼマンのブリアンとの協力で生まれたのが、1955年の「前世紀探検」(Cesta do pravěku)という映画です。時間の川を手漕ぎ船で動きながら、恐竜時代に旅していくという教育映画で、世界的に有名になりました。

この映画は実はアナログ実写と、アニメーションを合わせて撮っています。

この新聞の写真では、円谷英二(1901-1970)監督のゴジラの打ち合わせ中でが、実はこの中にブリアンの絵も参考資料としてあるのです。ブリアンだけの絵に監督が影響されたというのは少し言いすぎが、インスピレーションの1つにそれがあったというのがこれを見て分かります。また、アメリカの恐竜映画へも影響を与えています。

こちらは「悪魔の発明」(Vynález zkázy)は、1958年、戦争が終わって13年経つ頃、原爆の恐ろしさを反戦的に描かれた作品です。

この時ゼマンは、SFの父とも呼ばれるジュール・ヴェルヌ(Jules Verne 1828-1905)というフランスの大変有名な作家の本の挿絵にゼマンは魅了され、それを実写とアニメーションを合わせて映画作品を作っています。

ヴェルヌの有名な言葉、「人間が想像できることは、人間が必ず実現できる」というのをまさにゼマンが体現したと言えます。 

これが、「悪魔の発明」の元となったヴェルヌの本です。実は原本のフランス語タイトルは「国旗に向かってって」という意味なのですが、日本では先に映画が流行ったということが理由で、日本語に訳されたのは「悪魔の発明」として翻訳されいます。これはカレル・ゼマンの映画のタイトルからとられたもので、非常に珍しいケースです。

 

ヴェルヌの本が原作となった映画は沢山あります。

こちらは「盗まれた飛行線」(Ukradená vzducholoď)という映画で、ヴェルヌの「十五少年漂流記」が原作です。

ちなみにこの男の子役はミハエル·ポスピーシル(Michal Pospíšil 1955-)という俳優で、後に世界中でチェコの文化発信を精力的にしている「チェコセンター」の総裁になります。

あと恐竜も出てくる「彗星飛行」が原作の「彗星に乗って」(Na kometě)も素晴らしい作品です。

 次は、プラハと映画業界についてです。

ここまでズリーンの街とカレル・ゼマン、そして先輩のティールロヴァーという女優監督についてでしたが、さてプラハはどうどうだったのかっていうことです。

まずは、プラハは先ほどのカレル·ドダンもいた、「アフィト」(AFITについてです。ここは特撮映画(チェコ語で特撮という言葉は使われてなく、人を騙すトリック)に強いスタジオです。

AFITは、第2世界大戦に入ると国営会社はドイツの統治下に陥っていき、ドイツ系のプラーグフィルム(Pragfilm)という名前になり、芸術監督にリハルド·ディレンツ(Richard  Dillenz)というオーストラリア人が起用されます。

1942年に「珊瑚の海での結婚式」(Svatba v korálovém moři)というディズニーのような非常に可愛い映画が作られます。この製作に携わった、例えばエドゥアルト·ホフマン(Eduard Hofman 1914-1987)、イジー·ブルデチュカ(Jiří Brdečka 1917-1982)、ブチェチスラフ·ポヤル(Břetislav Pojar 1923-2012)など、彼らは後々チェコアニメの巨匠として知られるようになる人たちです。

戦中の映画は、日本では大体プロパガンダ映画が多かったのですが、当時のチェコスロヴァキアでは一切ありませんでした。映画の目的は、戦争の恐ろしさを忘れさせてくれるの娯楽が第一目的だったのです。

逆に、チェコでのプロパガンダ映画は、戦争が終わってソ連により共産党によるクーデターが起き、50年代以降プロパガンダの映画が多く見られます。ちなみに、この映画では肌が少し違う、つまり黒人やユダヤ人が悪人、善人は白人などの、差別的な描写があったりとその時代を感じさせます。

 さて次は第2世界大戦以後の話です。チェコは、1945年5月8日に戦争終戦となりました。そして4日後にアフィト社は国有化されたのです。実はこれは非常に大事な瞬間で、国有化により、映画会社には国からの助成金の予算がつくのです。そのことから、チェコのアニメーション業界は、1989年ビロード革命まで、非常に有福な時代になるわけなのです。 

後に、このアフィト社は、「トリックブラザーズ」(Bratři v triku)という、チェコ語で同じような発音の“トリック”と”シャツ”の駄洒落的な会社名になります。ここで、後にモグラのクルテック(Krtek)というなアニメシリーズを書いたズデニェク・ミレル(Zdeněk Miler 1921~2011)が輩出されます。 

ここで再びイジー・トゥルンカが出てきます。先ほどの、プルゼニのスペイブル&フルヴィネークを作ったヨゼフ・スクパのところで弟子をしていた彼もトリック・ブラザーズ・スタジオの設立に携わります。 

トゥルンカは、モダンで少しアバンギャルドな映画を製作しながら、実は彼は画家としても大活躍していきます。

ハンス・クリスチャン・アンデルセンの大変有名な「童話集」のトゥルンカは絵は、子どもには少し怖い絵で、必ず何かしら教訓があります。

また、トゥルンカの「ふしぎな庭」(チェコオリジナルでは「ZAHRADA(庭)」では、後にポヤルという監督がこれをアニメーションとして作ります。 

その後1945年から、トゥルンカはトリック・ブラザーズ・スタジオのアートディレクターに就任します。それまで主流だったディズニー的なアニメーションが好きではないトゥルンカは、人形を多用したアニメを作っていきます。トゥルンカを“東欧のディズニー”と呼ばれることもありますが、それは実は逆で正しくはないのです。

1947年には「チェコの四季」(Špalíček)、四季折々をテーマにして、実験映画として人形で映画にしていきます。国内での評価は芳しくなかったですが、国際的にはとても絶賛されたのでした。

この後、彼は独立していきます。1948年「皇帝の鶯」(Císařův slavík)、1950年「バヤヤ」(Bajaja)、1951年「チェコの古代伝説」(Staré pověsti české)、そしておそらく1959年には最高傑作とも呼べる、シェイクスピアをアニメーションにした「真夏の夜の夢」(Sen noci svatojánské)など、精力的に製作し、世界的に有名になっていきます。

ところで、チェコスロバキアは1948年に共産党のクーデターがあり、いわゆる東欧の旧共産圏に入ってしまい自由が管理統制されていきました。しかし彼のスタジオは1948年以降も、チェコスロバキア政府から資金援助を受けながらも、芸術的自由をを制圧されることはなかった、ということはスタジオの繁栄にとっても大きなことでした。

トゥルンカの製作はスタッフがいながらも、人形のデザイン、原案、シナリオ、絵コンテ、美術、照明、撮影、演技など、全てトゥルンカ一人の決断でこなしていきました。

1948年には中国人が出てくる「皇帝の鶯」(Císařův slavík)、チェコの昔の騎士と馬のお伽話、バヤヤ王子(Bajaja)など素晴らしい作品を作っていきます。

 この1950年の「バヤヤ」の成功を受け、トゥルンカは当局の上層部に進められ、19世紀に書かれた「チェコの古代伝説」(Staré pověsti české)を題材にした映画を作り、チェコで絶賛されました。

そしてトゥルンカの最高傑作といえば、1959年の「真夏の夜の夢」(Sen noci svatojánské)です。当時はもちろんCGはおろかパソコンもなかった時代ですので、手仕事で、同時にパノラマカメラを5、6台、色々な角度から、数秒のアニメーションのために何日もかけて撮っていく大変な作業でした。また当時は、フィルムを現像するまで確認はできないので、取り直しやアイデア変更など、トゥルンカのアニメーション製作は膨大な仕事量だったようです。また、興味深いのは、当時のこれらの人形は、何かの決まり上、人形の指が4本だったのですが、トゥルンカは5本指の人形を使ったことです。 

こちらは、1962年の「電子頭脳おばあさん」(Kybernetická babička)という、非常に近未来的な作品が登場します。

これらの素晴らしい傑作と共に、1950年代以降のチェコスロバキア共産党は、外資と国際的評価を目当てに、ヨーロッパの国際万博にが進出、活躍していきます。 

こちらはトゥルンカの最後の作品、1965年の「手」(Ruka)です。植木鉢を作る職人の話で、突然この手(政府の力の例え)がやってきて、私たちのボスの彫刻をつくれと命じるストーリーです。トゥルンカは同局へ屈さない、というメッセージが込められており、これ以降、彼は作品を作らせてもらえなくなってしまいました。この作品は長年お蔵入りとなり、1990年にやっと放映できるようになりました。

芸術家も一人の人間として、表現の自由に対しての自身のキャリアを捨ててでも訴えたのでした。

ちなみに、表現の自由が管理される共産主義体制下では、映画やアニメーションの製作段階で、検閲が途中入るのですが、その時には多分、別の脚本を見せたりしていたそうです。ですので、出来上がった映画は政府に見せていたものとは違い、禁止になることがよくありました。 

日本でも非常に知られているヴェラ・ヒティロヴァ(Věra Chytilová 1929-2014)という女流監督の「ひなぎく」(Sedmikrásky)という映画の脚本も何冊かあり検閲の検査を掻い潜りましたが、上映後にすぐに禁止になってしまいました。

もう1つ忘れてはならないのは、トゥルンカの愛弟子の日本人、川本喜八郎(1915-2010)氏です。川本さんと言うと、三国士、平家物語などの人形劇で特に1990年代非常に有名になった方です。実は昔からアニメーションも作っていて、非常にトゥルンカの影響を受けています。

10年程前に、「チェコ手紙&チェコ日記」というものが公開されています。1960年代のチェコの情勢について、チェコで芸術家たる生活を送るためにどういうことが必要だったかについて知りたい方は必読ですね。

 トゥルンカの存在がとても大きく、その後はどうなったのかということですが、例えば1965年から今日に至るまで、チェコ夕方の番組、ヴェチェルニーチェク(Večerníček)という、子供向けの10分間アニメーションがチェコ国営放送で大ヒットします。ヴァーツラフ・ベドジヒ(Václav Bedřich 1918~2009)がこの作品を作りました。

 

それから同じベトジヒによる、「芥子(けし)姫と蝶々エマヌエル」(O makové panence)です。日本ではアヘンの元となる芥子の実に先入観がある人がいますが、チェコでは普通に芥子の実畑とかがあり、そこからも主人公が生まれたりしています。 

こちらは、日本でも有名な、「妖精アマールカ物語」(Říkání o víle Amálce)です。イジー・フルザン(Jiří Hrzán 1939-1980)という有名な俳優が長年主人公の女の子の声優をしていることも知られています。

これは「巨大犬フィーク」(Maxipes Fík)という、日本で紹介されていませんが大変人気の子ども向けアニメです。 

「ボブとボベック」(Bob a Bobek na cestách)というのは、魔法使いのシルクハットから生まれるウサギの話で非常に有名です。 

このミロスラフ・シュチェパーネク(Miroslav Štěpánek 1923~2005)っていは、熊を主人公にした少し奇想天外なアニメーションを撮るわけですが、後にブジェチスラフ・ポヤル(Břetislav Pojar 1923-2012)と共作で製作

することになります。日本語では「ぼくらと遊ぼう」(Pojďte pane, budeme si hrát)と言います。これは、立体人形というより人形を半分に切り、カメラの真下に置いてアニメーションしていくというような技法なのです。

ブジェチスラフ・ポヤルですが、先ほど「珊瑚の海の結婚式」「チェコの古代伝説」「真夏の夜の夢」など、トゥルンカの弟子として色々な映画に参加しています。 

写真左のヘンゼルグレーテルの話が元となった人形、イジー・トゥルンカ作の「魔法の森のお菓子の家」(K princeznam se necucha)、や写真右の、飲酒運転はダメ絶対をテーマにした「飲み過ぎた一杯」(O skleničku víc)という映画などがあります。 

私が個人的に好きなのは、この「りんごのお姫様」(Jabloňová panna)で、ある昔の伽話を描いています。言葉がないのですごく分かりやすく、アニメーションも音楽もとっても美しいです。 

先ほどもあったトゥルンカの原作「ふしぎな庭」を、トリック兄弟の撮影所にいたポヤルがさらに人気のアニメーションにしました。  

先ほどの「トリック兄弟撮影所」のロゴマークをズデニェク・ミレル(Zdeněk Miler)が書いたと言いましたが、そもそも彼もズリーン出身で、イジー・トゥルンカに師事していました。 

その後、1948年「太陽を盗んだ億万長者」(O milionáři, který ukradl slunce)という、いかにもプロパガンダ的な映画を撮りました。 

その後、あの名作、「もぐらとズボン」(Jak krtek ke kalhotkám přišel)ができました。私は直接ミレルさんから聞くことができたのですが、これも実はプロパガンダ的教育映画だとのことです。どのようにプロパガンダかというと、クルテックはズボが欲しいのですが、普通はお店に行けばね買えばいいですよね。しかし、そうではなく、いろんな人にお手伝いをお願いして、みんなで共同的に物を作るという、いわゆる共産主義的なコモン考えのもと作られたのです。次に、モグラになった経緯も聞いたのですが、ミレルさんが行き詰まっている時があり、たまたま散歩に行った時につまづいた、モグラ塚から発案されたとのことでした。一般的に可愛くない動物を、ミレルさんはよくも主人公にできたということも素晴らしいことだと思います。当時のオリジナルの画風と現在は随分と変わってしまい、本人が亡くなってクルテックの会社の権利や遺産など、ここでは控えますが色々と残念な問題が起きています。

チェコのアニメーション史で重要な人として、アメリカ人のジーン・ダイチ(Gene Deitch 1924-2020)がいます。当時、チェコスロバキアは旧共産圏だったのですが、1959年にアメリカからブラハに渡り、チェコ人女性と結婚ました。それで実は、この人が「トム&ジェリー」(Tom and Jerry)そして「アリス・オブ・ワンダーランド・イン・パリス」(Alice of Wonderland in Paaris)などの、いくつかの製作をチェコでさせていたのです。また、「指輪物語」を最初にアニメーションにしたのもこの方でプラハのKRÁTKÝ FILMで製作しています。 

次の重要人物はヨゼフ・カーブルト(Josef Kábrt 1920-1989)です。彼もトゥルンカの弟子とも言えるのですが、彼が美術を担当したチェコスロバキアとフランスの合作映画、「ファンタスティック・プラネット」は必見です。フランス人のルネ・ラルー(René Laloux 1929-2004)という監督で、音楽は今LPレコードも出ています、アラン・ゴラゲール(ALAIN GORAGUER 1931-2023)という非常にサイケデリックな音楽です。

ある惑星に大きな宇宙人が住んでいて、取り残された人間は頭脳が優れてるので反乱を起こすというストーリーの未来的サイケデリック作品です。

気持ち悪いながらも見ると世界観が変わる映画なのでお勧めです。

娯楽的作品に移りましょう。ルボミール・ベネッシュ(Lubomír Beneš 1935-1995)という人は「パットとマット」(Pat & Mat)という、これも非常に有名で長い間シリーズ化されたアニメです。 

これもベネッシュが撮った「王とドワーフ」(Král a skřítek)という、昔の伝説を映画化したもので、アニメーション技術の最高傑作の1つです。 

もう1人紹介したいのは、ヴァーツラフ・メルグル(Václav Mergl 1935-)です。この人はチェコで初めてクレイアニメーションした作家ですが、こういう切り絵アニメーション「ラオコーン」(Laokoon)という、不思議なアート作品としか言えないようなものまで製作しています。 

あと有名なのはこの「蟹」(Kraby)。おそらくはロシアでの原作なのですが、人間がある離島で蟹のロボットを作るのですが、やがて蟹が反乱を起こし全部食べ尽くしてしまうっていう、自律機械の暴走を通して科学者理論を問うという映画です。 

もう一人、イジー・バルタ(Jiří Barta, 1948-)という監督の最高傑作の長編「笛吹き男」(Krysař)という、大変有名なドイツの伝説をこの方が人形アニメーションとして作った作品です。この人形は全部木で作られています。セリフがない1時間ぐらい作品でとても興味深いです。

バルタ監督の1987年の映画「最後の盗み」(Poslední lup)です。吸血マシンを使って血を吸うという近代的吸血鬼の話です。大変有名な男性俳優を女装させた実写と人形の合わせた映画です。また、ピクセレーションという、白黒で撮った一コマ一コマに色をつけていくアニメーション技法と用いています。

「見捨てられたクラブ」(Klub odložených)という映画も有名で、これは捨てられるマネキンの話です。1989年のチェコの時代が変わり行く比喩的 映画です。

ここでも興味深い技法をバルタ監督は用いています。蝋ワックスで背景を作り、それを変えながら撮影していくというものです。

ヤン・シュヴァンクマイエル(Jan Švankmajer)はアニメーションの巨匠と称されています。彼はいわゆるシュルレアリスト(超現実主義者)です。チェコの後期シュルレアリズムの第一任者です。仮面劇、それから冒頭で話した家庭用人形劇に子供の頃に感銘を受け、人形劇の魅力にのめり込んでいきます。 

日本では私が翻訳した「シュヴァンクマイエルの博物館」など、本が色々あります。

彼はプラハ芸術アカデミー人形学科を卒業します。人形劇を大学レベルで勉強できたのはおそらく当時は世界でプラハだけだと思います。

プラハ芸術アカデミーの演劇学部、人形劇学科をシュヴァンクマイエルは卒業しています。

その後、とても有名な監督のエミル・ラドック(Emil Radok 1918-1994)監督のチェコ人形劇短編映画、「ヨハンネス・ドクトル・ファウスト」(Johanes doktor Faust)の製作時にシュヴァンクマイエルは人形使いとして携わっています。 

大学を卒業後、彼は仮面劇にて最初のアニメーション「シュヴァルツェヴァルト氏とエドガル氏の最後のトリック」(Poslední trik pana Schwarzewalda a pana Edgara)をつくりあげました。ブラックシアターと仮面劇という、黒子がトリックをしたりトリックを使ったりする、シュヴァンクマイエルの最初の短編になるわけです。

また、様々な人たちと協力して、例えばシュルレアリズムの写真家として チェコでは有名な、エミラ・メトゥコバー(1928-1985)の作品からインスピレーションを得て、「J.S.バッハ-G線上の幻想」(Johann Sebastian Bach: Fantasia G-moll)という映画を撮っています。

その後「石のゲーム」(Hra s kameny)。石を色々な形に並べて撮影されます。昔からシュヴァンクマイエルは、いわゆるマニエリスムや、ルドルフ2世皇帝のプラハで活躍していたジュゼッペ・アルチンボルドに影響を受け、新しいアニメーション技法の実験に挑戦しています。

それから「棺の家」(Rakvickarna)。これは昔の人形劇の題材にしたアニメーションです。

「エトセトラ」(Et Cetera)とは、書体、要するに文字のアニメーションです。カレル・タイゲ(Karel Teige 1900-1951)は、チェコのシュルレアリスムの重鎮の一人です。 

カレル・タイゲの装丁でヴィーチェスラフ・ネズヴァル(Vítězslav Nezval)というシュルレアリスムの詩人の本、「アベツェダ」(Abeceda)が1926年に出版されsました。機能主義時代のデザインの非常に美しい本で、様々な文字の形をした踊り子、ミルチャ・マイェロヴァー(Milča Mayerová)というモダンダンサーが形作っています。そこにネズヴァルの詩があり、シュヴァンクマイエルはそこからインスピレーションを得て映画を1本作っています。

 

次に、「自然の歴史(組曲)」(Historia Naturae (suita))は、アルチンボルドから影響を受けてつくられています。

アルチンボルドは、神聖ローマ帝国の中心地がプラハの時代の皇帝、ルドルフ2世の皇帝画家として、果物や野菜の組み合わせで皇帝の肖像画を描くことで有名です。彼の絵は非常にシュールなところがあり、20世紀のシュルレアリストや、シュヴァンクマイエルは、このような絵からさらに影響を受けて作品をつくったわけです。 

次に、シュバンクマイエルはオーストリアのウイーンのスタジオA Zeigtで、Picknick mit Weissmann  という短編映画も手がけます。

シュヴァンクマイエル曰く、自身の最初なるシュルレアリズム映画とは、アニメーションではなく実写の「庭園」(Zahrada)という映画です。話はシンプルで、2人の同級性の人たちがが久しぶりに会い、1人の家を見に行くという流れです。そして、誘われた家の垣根が人間でできている柵がある、という、いかにも60年代のチェコです。私の中ではチェコスロバキア・ヌーヴェルヴァーグにこの映画も入るべき傑作の1つだと思います。 

それから「納骨堂」(Kostnice)という映画で、プラハから2時間ぐらい離れたところにクトゥナーホラ(Kutná Hora)という昔の銀山の町があります。そこには人の骨で装飾ができている納骨堂があり、それをシュヴァンクマイエルは取材して映画を作ったりするわけです。 

ファウスト伝説に基づいた「ドン・ファン』(Don Šajn)も作っています。

ルイス・キャロルの 「ジャバウォッキー」(Žvahlav aneb šatičky slaměného Huberta)という映画も作っています。シュルレアリスムと人形の破片など、非常に簡単に言うようですが、もう複雑な世界観なので、やはり実際に見ていただければという風に思っています。

 

ゴシック小説の「オトラントの城」(Otrantský zámek)。これは切り絵アニメーションです。要するにキャラクターを描いて、手などそれぞれ切って関節で繋いで、カメラを上に置き、素材をテーブルにおいてアニメーションしていく方法です。 

1974年には、彼の触覚主義的な思考が反映された「地下室の階」(Do pivnice) を製作します。

シュヴァンクマイエルとシュルレアリスムは、実はちょうど100年前にフランスで結成され、チェコは10年の1934年に「チェコスロバキアシュルレアリスム」グループというのができます。ですから今年創立90周年記念で、またシュヴァンクマイエルが生まれたのも1934年なので、今年で90歳の現役です。 

あとやっぱりエドガー・アラン・ポー(Edgar Allan Poe 1809-1849)に魅せられて「アッシャー家の崩壊」(Zánik domu Usherů)をアニメーションで作ったりしています。 

今までは短編の話ばかりでしたが、1988年にスイスの制作で、「アリス」(Něco z Alenky)を作っています。ルイス・キャロルの原作です。当時、共産主義時代に外国で製作をした映画は多分これは一本かもしれません。非常に例外的なもので、それだけシュヴァンクマイエルが有名だったというわけです。 

それから「男ゲーム」(Mužné hry)、 

「闇・光・闇」(Tma světlo tma)があります。

政治体制が変わりだし時の映画、「チェコに於けるスターリン主義の終焉」(Konec Stalinismu v Čechách)です。

これも非常に有名な映画「フード」(Jídlo)です。子供の頃からシュヴァンクマイエルは食に対する脅迫観念というのがあり、ある意味、人間は人間を喰らう、つまり社会は人間を食らう、文明は人間をダメにするという脅迫観念に駆られ、食や触覚に纏わる様々な映画を実は作っています。 

「ファウスト」(Faust)、「悦楽共犯者」(Spiklenci slasti)、それから「オテサーネク」(Otesánek)など、少し恐ろしい話がありますが、それを超現実主義者のシュヴァンクマイエルは現実の話に変えてしう大胆で面白い名作ばかりです。 

それから、実はシュヴァンクマイエルさんにとても大事な助っ人がずっといまして、それはエヴァさんで、ほとんどの美術は彼女によるものなのです。彼女も実はシュルレアリスムの女流画家で、おそらくシュヴァンクマイエルさんぐらい重要人物だと思います。

 例えばシュヴァンクマイエルの2005年の映像、「ルナシー」(Šílení)という映画でも、やはりエヴァさんが関わっています。残念ながら、この映画が紹介される直前に亡くなったてしまいました。

 こちらは写真左は、東京のラフォーレ原宿で大きな展覧会をした時の写真です。これはイエスキリストがフェティッシュのように、身体中に釘が刺さっているものです。写真右は「サヴァイヴィング ライフ」(Přežít svůj život)です。ぜひご覧になっていただきたいです。 

今のところ最後の長編はこの「蟲」(Hmyz)です。これは、実はカレルとヨゼフチャペック兄弟に「虫の生活」っていう戯曲があるのですが、それと別のものを混ぜてシュヴァンクマイエルはこの映画を作ったわけなのです。 

それから非常にやっぱり注目すべきドキュメンタリー、つい最近作った「錬金炉アタノール」(The Alchemical Furnace)。これは「蟲」の映画の、いわゆるメイキングムービーです。アタノールというのは、錬金術者が使ってた溶解炉の意味です。 

最後に、つい最近発表された「クンストカメラ」(KUNSTKAMERA)。これは、自分の、アフリカアートのコレクションなどをただただ映して、そこにいろんな音楽のコラージュがあるという、非常に面白いものです。

ルドルフ2世時代に隠しルームにあった部屋を全部装飾で埋め尽くしていたものが「クンストカメラ」、日本語に直訳すると「芸術の間」という意味です。

例えばプラハだとストラホフ修道院(Strahovský klášter)という有名な修道員の図書館にも、ルドルフ2世時代のこのクンストカメラは残っています。まさに生涯をかけて現役のシュヴァンクマイエルさんがそれを作っているのです。 

これにて今日は終わりにしたいと思います。ありがとうございました。

ここまで、ペトル・ホリー(Petr Holý)氏の数時間に及ぶレクチャーをかなり省略しながらまとめさせいただきました。全くまだまだ尽きることがない程の興味深い話ですが、残念ながら大きく割愛させて今回はアーカイブをお届けしなければなりませんでした。チェコと日本の文化に深く広く精通されているホリー氏だからこその、とても重要なお話をいただけたことに感謝します。ありがとうございました。

Facebook
Twitter