はじめに
“中欧(中央ヨーロッパ)、東欧の芸術と文化の魅力を伝える”ことを目的に、6回に渡り各国のエキスパートにレクチャーをしてもらう企画です。
今回は、チェコ・スロバキア時代の文学を中心に、国家の成立から社会背景、美学やユーモアのセンス、言語の魅力の紹介します。近隣諸国との文化や言語が文学へどのような影響を与えたかなどについてもわかりやすく紹介します。
文学の基本は、文字の情報伝達方法であり、音楽、視覚芸術や身体パフォーマンスなどより、往々にして具体的でしょう。もちろん、各読者の経験や感性は様々であり、同意語が違った背景として受け取られることも文字媒体の特徴でしょう。さらに興味深いことに、他言語、異文化から生まれた文学は、読者の母国語に翻訳されることによる差を生み出します。これは、映画や演劇などでも共通することであり、言語を使用する芸術媒体では他角度から検証や研究できるおもしろさがあります。
今回、言語学研究者であり、翻訳家、語学教師でもあるチェコ人の、ルツィエ・オオナリ・クレスロバー(Lucie Onari Kreslová)さんに、チェコと文学を通して、言語とその文化的背景をレクチャーしてもらいました。
まずは、基本的なチェコ共和国の地理、歴史的背景など、チェコの概要、入門編とも言える講義を行ってもらいました。講義は2023年10月17日、日本大学芸術学部、 芸術総合講座Ⅴで、「芸術と社会」をテーマに、約2時間行われ、本記事はそれをまとめたものになります。それでは以下、講義の内容を簡素化してまとめたものになります。
チェコ共和国について
ヨーロッパのほぼ中央に位置する現在のチェコ共和国は、”欧州の心臓”とも形容されます。首都プラハ(Prague)を首都にするチェコ共和国は、1918年まではチェコスロバキアとして存在し、1993年に建国されました。
国としては比較的若い国のように見えますが、1000年における長い歴史があり、チェコ民族のアイデンティティーがチェコ共和国を現在の形にしたと言えるでしょう。チェコは国土は日本の20%程度、人口は1000万人という少国ですが、とても古い歴史と、豊かな文化や魅力があります。
世界的に有名な芸術家では、小説家のフランツ・カフカ(Franz Kafka)、作曲家のアントニン・ドボルザーク(Antonín Dvořák)、同じく作曲家で、“モルダウ川”などでも有名な、ベドジッヒ ・ スメタナ(Bedřich Smetana)た映画監督のミロシュ ・ フォルマン(Miloš Forman)などが代表的でしょう。
文学の機能性、役割
それではまず文学が持つ機能性や役割について何点か挙げておきましょう。
- 美学的(Aesthetic):まずは、美的感覚を養えることが挙げられます。美しい言葉、構造、スタイル、形式など、その美しさには様々な経験と計算された構築がなされています。
- 文化(Cultural): 歴史情報の伝搬や、伝統文化の価値を記録として残し、その作者や登場人物のアイデンティティーが写し出されています。
- 社会性(Social):特に第一次大戦、第二次大戦のチェコスロバキア時代には、政府や社会へ反応する役割や、表現媒体としても重要でした。
- エンターテイメント(Entertainment):特にテレビやインターネットがない時代では、文学は娯楽であり、エンターテイメントとしての側面は現在より強かったでしょう。
- 教育的側面(Educational):上写真に見られるような、日本ではマンガと思われるものも、チェコでは文学の一つとして数えられます。子ども向けの文学はエンターテイメントが多いのですが、本を通して子どもへの教育的要素を与えたのです。
- セラピー的側面(Therapeutic):先ほどの上の写真で見られるのは、いじめっ子のお話を通して、道徳感や倫理感のテーマが書かれています。また例えば、この本を通して、文学作品を書く側にとって、トラウマを乗り越えたり、自己表現をすることがセラピー的な側面を持つとも言えるでしょう。
文学を通して、読者が経験的に知らない場所、時代、人物など、お話の中の主人公に自身を置き換えたり、話に没入して擬似体験できることが文学の醍醐味の一つでしょう。
チェコ文学のはじまり
まず、皆さんは “チェコ文学”といえば、チェコ語で書かれている文章だと思うかもしれませんが、実はそれだけではありません。 例えば、宗教的なコンセプトを持った昔のチェコ文学は、知識層によってラテン語で書かれていました。その後、現在のチェコのエリアでも、文章がドイツ語で書かれていた時代もあります。つまりチェコ文学とは、チェコ語でだけで書かれたものだけではないということなのです。また、チェコ人でありながら、様々な国に移民として亡命した人たちが、他言語で執筆した文学作品などもあるのです。
では次に、古チェコ語としての文学も、キリスト教に纏わるものから始まりました。その経緯から遡ると、チェコ語での文学は12、13世紀から始まったと言われます。書物に残る、聖バーツラフ(Svatý Václave) に宛てたもの、カレルの人生(Vita Caroli)、聖カタリーナの生涯(Život sv. Kateřiny)などの古文からも、古チェコ語での記述が残されています。
- ヒューマニズム(The humanism)
15世紀ぐらいから、神や宗教のテーマについての書物から、人間や言語自体にフォーカスされる時代が始まります。
ヴィコリン・コルネル・ゼ・フシェフルドゥ(Vikorín Kornel ze Všehrd) は、チェコ語の教育を受けた人物はチェコ語で文章を書くべきだと提唱した重要人物です。
ヴァーツラフ・ハーイェック(Václav Hájek)はチェコの年代記を書いた人物で、 ヤン・ブラホスラフ(Jan Blahoslav)はチェコの文法を画一させた人物、アダム・ズ・ヴェレスァヴィナ(Adam z Veleslavína)は4つの言語の辞書を作成したなど、この国と言語の歴史には欠かせない人物達です。
そしてこの後、ヨハネス・グーテンブル(J. Gutenberg)が活版印刷を発明したことにより、印刷技術と共にチェコ語の普及の拡大、文学の革命が起きました。
1627年には、再生土地憲法 (Restored land establishment / Renewed constitution)が公布され、ドイツ語は第二言語として、チェコ語と併用されるようになり、ドイツ語での文学も多く書かれるようになっていきました。それにより、チェコ語の発展が少しずつ停滞していき、田舎や初頭教育が少ない地域で話されていくようになりました。対して、プラハやインテリ層はドイツ語を話すようになっていきました。チェコ語が記載される物や事(商品やイベント等)が少なくなっていきました。そのような理由から、同時期には、チェコ人アイデンティティーややチェコ語の回帰運動 “National revival” (Národní obrození) も起こっていきました。
この過程を経て、チェコ文学とその歴史の大切な時代が訪れていきます。
国の復活
18世紀後半から、「国の復活」 “National revival” (národní obrození) が始まります。
- 国の復活第一期
国の復活第一期としては、まずは言語を守ろうとする動きがあります。代表されるのは、チェコの歴史、ドイツ語とチェコ語の辞書を作った重要な人物、ヨセフ・ドブロフスキー(Josef Dobrovský)でしょう。例えば、ドイツ語で存在するが、チェコ語では未だない単語やセンテンスを科学的アプローチで作っていきました。次に、言語純粋主義 (puristé)のチェコ語推進者達は、生活の中から言葉を生み出したり、ドイツ語やラテン語から言語体系を使い、単語を作っていきました。
一例を挙げると、例えばドイツ語はいくつかの語幹が繋がり、単語ができています。チェコでは「ハンカチ」という言葉がなかったので、ドイツ語の語幹を応用し、”きれいにする”(Cisto)+”鼻”(Noso)+”布”(Plena)=Čistonosoplena (ハンカチ)、という仕組みで言葉を作りました。
また、チェコで初めての新聞、クラメリウス (Kramerius) が発刊されたのもこの時期になります。同時に、劇場などでのチェコ語で演目が行われ、チェコ文化らしいの題材で、チェコ人のコミュニティーから発祥した舞台で公演が行われるようになっていきました。
- 国の復活第二期
この時代は、科学と芸術の反映時期にあたります。これは一部の人たちでなく、社会的現象として国全体に広がっていきました。
チェコという枠に留まらず、東ヨーロッパの「スラブ民族」のアイデンティティーとしても国や言語を作っていきました。スラヴック文化がこの頃から形成されていったのです。
この同時は、その独自性を歴史が裏付けるエビデンスが沢山あることが重要ということになり、スラヴック特有の歴史的過去 (Proto-Slavic past)を発見する必要性が出てきました。ここに重要な影響を与えたのは、クラロベドフスキー(Královédvorský)とゼレノホルスキー(Zelenohorský)という二つの書物です。スラビアのモチーフや書物が9世紀に書かれていたということが発見され、それがスラヴッア民族に大きな歓喜と民族を結合させる勇気にもなるはずでしたが、後の検証では、それらは模造品であったが判明されています。
しかしながら、この時代にはチェコ語とドイツ語の辞書を作ったヨゼフ・ユングマン(Josef Jungmann)や、ボヘミア地方とモラビア地方の歴史を研究したフランチシェック・パラツキー(František Palacký)などの多大な功績により、現在のチェコ共和国へ大きな礎は作られていったのです。
- 国の復活第三期(19世紀後半)
19世紀後半からは、ヨセフ・カイェタン・ティール(Josef Kajetán Tyl)に代表されるような、愛国心を持ってチェコのアイデンティティーを形成していくような、教育的傾向がある人物と文学作品が登場してきました。例えば、ティールは「ヤン・フス」という劇場の演目を作りました。(*「ヤン・フス」:カトリック教会の免罪符に対して反対した、プロテスタントの宗教改革者)これにより、チェコ人が正義のために戦う愛国心を喚起させたのです。
・ロマンティシズム(Romanticism):
感情の自由や、自然との繋がりなどを求める時代になり、ロマン派(Romanticism )の傾向として、人生の様々なことに対して自由を求める傾向が出てきました。
カレル・ヒネック・マーハ(Karel Hynek Mácha) の 「五月」(Máj)や、カレル・ヤロミン・エルベン(Karel Jaromín Erben)の民族文学、詩、おとぎ話 などの13の民族伝統の物語詩を収集して再編していった、「キーティツェ」(Kytice)などが代表例でしょう。これらは、掟を破ったものに罪悪感を負わせる機能があったりと、文学の誘導性を巧みに駆使したメディアとしても扱われました。
・リアリズム(Realism):
ボジェナ・ニェムツォバー(Božena Němcová)は、今回初めて出てくる女性作家でしょう。「プリンセスの誇り」(Proud Princess)や、「おばあちゃん」 (Grandma)などの、おとぎ話を多く執筆しました。
カレル・ハブリーチェック・ボロフスキー(Karel Havlíček Borovský)はチェコ文学の評論家としても登場した先駆的存在です。
このように、この時代には評論家、執筆家、辞書など、チェコ文学がルネッサンス期を迎えたと言っても過言ではないでしょう。
1880年代以降のリアリズムは、典型的なチェコ性を見せるものが流行りました。農村の情景、家族や近隣との関係や問題などを見せるものなどがそれに当たります。
カレル・バーツラフ・ライス(Karel Václav Rais)の「棚」(Skleník)では、若夫婦の奥さんが、家に棚がないことから近所から生活を干渉されるというお話はとても時代性を表しています。
ムルシュティーコベー兄弟(Mrštíkové)は「マリーシャ」(Maryša)という、夫婦と毒殺をテーマにしたお話で、舞台の演目にもなっています。この、劇場が盛り上がった時代、1868年には、国民劇場が作られました。残念なことに劇場は1881年に火事にで全焼しますが、1883年には皆の募金を経て再建されたことが、人民の劇場への熱意の表れでもあります。
20世紀
残念ながら、第一次、第二次大戦がこの時代の文学の大きなテーマの矛先となっていきます。”愛国的”(Patriotism)、国民のプライド、国の文化の防衛が多く表現されていきます。もちろん、戦争の悲劇、戦争反対を意味する文芸作品が多く発表されていきます。
ヤロスラフ・ハーシェック(Jaroslav Hašek)の「シュベイク」(The Fate of the Good Soldier Švejk) は、命令されたことをなんでも行う兵隊をモチーフに、ナンセンスコメディーや風刺表現がとても人気となったお話です。
カレル・チャペック(Karel Čapek)は、フランツ・カフカ(Franz Kafka)に並び、チェコで最も世界的に知名度がある作家と言えるでしょう。子どものための本や戯曲などを書く作家として知られていますが、彼はジャーナリストであり、ファシズム、同時に 国粋主義者やファシズム、人種や性別差別に対して強く反対した作家です。沢山の種類と数の文学を輩出しましたが、48歳(1890-1938)という若さで亡くなりました。カレル・チャペックと兄の画家、ヨセフ・チャペック(Josef Čapek)は、毎週金曜日には、“金曜の会”(Pátečníci)に頻繁に通い会合をしていました。
そのサロンには、大統領となるトマーシュ・ガリーク・マサリーク(T. G. Masaryk)や、外務省のエヴァルド・ベネシュ(Edvard Beneš)、歴史研究者のヨセフ・シュスタ(Josef Šusta)や、ジャーナリストのフェルディナンド・ペロウトゥカ(Ferdinand Peroutka)、反軍国主義、反戦争のフラーニャ・シュラーメック(Fráňa Šrámek)なども参加していました。このように、この抑圧された時代下でも私的な討論会合は、とても重要なものであり、後の時代の重要人物がいかに繋がっていて、協力しながら互いに勉強の場を設けていたことがわかります。
ちなみに、当時の社会体制に反対していたチャペック兄弟のヨセフが、現在では国際用語となっている「ロボット」という言葉を創り、カレルが 「R.U.R. 」“ ロッサム万能ロボット会社” (Rossumovi univerzální roboti) という戯曲を発表したことはあまりに有名です。ロボットの反乱、労働者と富裕層との階級対立、社会主義革命の脅威についてなど、100年前に既に彼らが現在と酷似する提言をしていたことは、とても興味深いことです。チャペックは、“Short-stories from 1 pocket”(Povídky z jedné kapsy)では、真実はどの立場で、どの視点で見るかによって違う、ということがテーマにもなる哲学的な作品や、”The Makropulos affair”、 ”The white disease”、”War with the newts”などその他様々な重要な作品を残しています。
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第二次世界大戦以降のチェコの散文作家
第二次対戦後、チェコスロバキアの文学は重要な現代散文作家を沢山輩出していきました。何人かを取り上げていきましょう。
アルノシュトゥ・ルスティッグ(Arnošt Lustig)は1926年に生まれ2011年にその生涯を閉じました。彼ははユダヤ人のルーツを持つことから、幼少期に強制収容所に送られていた経験をもちます。彼の家族も当時、ユダヤ人迫害により強制収容所に送られました。収容所へ送還される時、様々な審査項目があるのですが、年齢、性別、もしくは様々なナンセンスな審査があります。その審査に通過した人達は強制収容所に連れて行かれ強制労働を強いられ、それにそぐわない者はすぐに銃殺か、ガス室で殺されました。彼の父親は、「眼鏡をかけている」=労働者としても不十分な要素だとして、父親は52歳でナチス政権に殺されたのです。その後1968年、アルノシュトゥ・ルスティッグがイタリアでの旅行中に、ソ連がチェコスロバキアへ侵攻をしたことを知り、彼はチェコに帰らず、ユーゴスラビアに逃げ、首都のザグレブの映画スタジオで働き始めたという経緯もあります。その後、ルスティッグは、イスラエルやアメリカに移り住むなど、ナチス政権とソ連が彼と家族、そしてチェコスロバキア人をどれほどの字破壊したかは容易に想像できるでしょう。ルスティッグの文学作品は、そのような苦しいトラウマ体験をテーマにしたものが多く残っています。ユダヤ人迫害をテーマとした作品として、“カテジーナ・ホロヴィツォバーさんへの祈り”(A pray for Kateřina Horovitzová)などが知られています。
次の重要な人物として、ボフミル・フラバル(Bohumil Hrabal)は、ヤロスラフ・ハーシェック(Jaroslav Hašek)、カレル・チャペック(Karel Čapek)に続く、20世紀を代表するチェコ語で書かれた文学作家として、3番目に他言語に翻訳された作家です。文学内の登場人物は、実在した人たちなどを画く作家としても知られています。句読点を一切使わず、一行が究極に長い文章を作る実験的な現代文学、”Dancing lessons for the advanced in age” なども知られています。
その他、ヨゼフ・シュクヴォレツキー(Josef Škvorecký)の “The cowards” (Zbabělci)や、“The nice season” (Prima sezóna ) なども有名です。
オタ・パヴェル(Ota Pavel)は、「スポーツ」についての文芸作品や、“How I came to know fish” にもあるように、「魚」についての作品など、チェコスロバキアの幼少期の記憶、一般大衆的な共感覚を多く作品に残しています。
ミラン・クンデラ(Milan Kundera)は、当初はチェコ語で文章を書いていたものの、後の亡命後は、フランス語で文章を書くようになります。“The Unbearable Lightness of Being”や“Immortality and The Joke” などがチェコ語で書かれた書物としては有名で、単語やセンテンスの選択にはとても注意が払われている作品として注目されています。そのような理由から、彼の数ある作品は、一人の女性を除いては、誰にも翻訳をさせなかったと言うのです。
ルドビック・ヴァツリーク(Ludvík Vaculík)の “ 2000 words ” は、1968年以降の社会主義体制や、チェコスロバキア政府に対しての、「人間の尊厳のためのマニフェスト」を2000文字で書くという内容でした。言葉使いが巧みで大変優れた内容でありながら、しかしもちろんのこと、大きなスキャンダルを生む内容となったのです。政府はこれによる人民の反対運動を恐れ、彼を呼び出し、様々な尋問などを行ったそうです。
その他、イヴァン・クリーマ(Ivan Klíma) の “Love and garbage” や “My crazy centrury” は、現在も活動しているチェコ人作家としては、最も多く外国で翻訳されているでしょう。
また、ライターであり翻訳家でもある、フランス在住のチェコ人作家、パトリック・オウジェドゥニーク(Patrik Ouředník)の“Europeana. A Brief History of the Twentieth Century”や “The End of the World Might Not Have Taken Place”などは言語、メディア、戦争、信仰など、多面的に人間や人生について書かれている哲学的な本です。
まとめ
ここまで、かなり大まかではありますが、チェコ文学の歴史とその周辺の関係性を紹介してきました。2023年現在では、日本語に翻訳された様々なチェコ文学を手に取ることができるようになりました。以上の歴史や時代背景を知った上で、是非皆さんにもチェコの魅力、その奥深さを知ってもらえると嬉しいです。
最後に、日本大学芸術学部、 芸術総合講座Ⅴ、「芸術と社会」の講義後に学生達から受けた質問に対して答えは、下記に記載されていますので、そちらもご覧ください。
Q&A
Q1:外国の方から見る日本文学はどのように映っているのか印象などを教えてください。
A1: 日本文学はとても興味深く、多様性に富んでいると思います。普通、小説などの散文的なジャンルの話が多くなりがちですが、日本文学の場合、外国人は詩にも比較的なじみがあります。例えば、連歌や俳句、短歌はとても人気があります。また、日本文学には散文を詩で補った作品も多く見られます。様々な“物語”も比較的よく知られており、特に映画化されたものは有名です(例えば、『竹取物語』は映画『かぐや姫』のようなもの)。村上春樹、よしもとばなな、村上龍といった現代作家の人気も高いと思います。私個人としては、日本文学の発展も興味深く、当時の社会の状況をよく反映していると思います。
Q2:チェコ文学や物語で、日本と似ている点などがあればお伺いしたいです。s
A2:確かに類似点はありますが、また多くの国が、ある程度周辺国の影響を受けているということでしょう。昔は、ある特定のスタイルや言語で書くことは、自身の教養や知識を表現する方法とみなされ、時にはそれが必須でありました。日本の初期の文章は基本的に中国語で書かれていたし、チェコの文章はラテン語で書かれていました。このように、私たちを取り巻く歴史的、文化的影響は常に存在していたのです。今、私たちはグローバル時代に生きており、全世界がかつてないほど繋がっています。ある作家は、自国の文化がどのように進化、変化してきたかを文学で示し(例えば日本では、“伝統的な日本”と“欧米化した新しい日本”の両極端の兆候をしばしば目にすることができる)、また、ある作家は、単にそのようなことあまり気にせず、自分たちが好きに楽しくて、不自然ない方法で執筆ています。
Q3:チェコのアニメや絵本でおすすめなものがあれば教えていただきたいです。
A3: 「Pejsek a kočička」、「Čtyřlístek, Rychlé šípy」、子供向けでないものなら「Kája Saudek」などでしょうか。
Q4::もう一度、「プリンセスの誇り」の御伽話を書かれた作家さんのお名前を教えていただきたいです。
A4:Božena Němcová 😊
Q5: チェコは四カ国に囲まれていますが一番影響を受けているのはドイツですか?それともチェコの東西南北で影響を受けている国が変わりますか?
A5: 現在、ドイツがいまだに最も強い影響力があるとは言い難く、20年間ほどEUに加盟していることから、EU自体から影響があると言えるでしょう。
チェコ文学の日本語翻訳版リンク
カレル・チャペック(Karel Čapek)
ミラン・クンデラ(Milan Kundera)
ヤロスラフ・ハーシェック(Jaroslav Hašek)
ボフミル・フラバル(Bohumil Hrabal)
フランツ・カフカ(Franz Kafka)