「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国とアート、東と西の狭間で」〜もう一つのヨーロッパ芸術〜

Image courtesy of the author.
Articles in Japanese

6つの共和国から成る連邦国家「ユーゴスラビア」。1918年から2003年まで存在した旧ユーゴスラビアは、非常に多様な民族、宗教、芸術文化が混在していました。

今回、前半を「ユーゴスラビア芸術、思想と王国の終焉」、後半を「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国とアート、東と西の狭間で」という2記事に分け、ボスニア・ヘルツェゴビナの バニャ·ルカ芸術大学 、学生文化センター主任助手のムラデン・バイヤーツ(Mladen Banjac)氏にレクチャーをしていただきました。南スラブ人、ユーゴスラブアートの歴史と文化について教えもらいましょう。それではよろしくお願いします。

以下ムラデン氏):よろしくお願いします。

第1部では、私たユーゴスラビアがどうやって生まれたのか、その過程の特徴として、ユーゴスラビア的国粋コンセプトの形成西ヨーロッパ芸術の影響などについてお伝えしました。

第2のユーゴスラビアは、ユーゴスラビア王国の君主制から独裁政治に変わり、1990年代まで存在していた ユーゴスラビア社会主義連邦共和国で、芸術がどのように関わっていったかを説明していきます。

本日の講義名にもある、「東と西の狭間」に関係する部分から始めます。

」の意味は、 ソビエト連邦共産主義政権。 「西」はアメリカは、フランス、イギリス、西ドイツなどの国々の意味です。

第二次大戦以降、政治的にユーゴスラビアは共産主義国家となりました。

まず、ナチスの占領に対する2つの抵抗運動がありました。1つは、ユーゴスラビア王国によるナチスへの追放運動。もう1つは共産主義への抵抗運動、いわゆる人民解放運動の動きでした。1942~1943年、抵抗運動は同盟国のイギリス、アメリカ、フランスなどに支持され、ユーゴスラビア王国の抵抗運動がありましたが、1941年から1945年の間に、ドイツの政権にユーゴスラビア王国は占領されました。この期間、共産党が率いるグループが、さらにナチス側との関係を構築していきました。

芸術家たちは、前編の「ユーゴスラビア芸術、思想と王国の終焉」で説明したように、ユーゴスラビア王国の芸術の輪郭をつくってきたアーティストや文化人は、ユーゴスラビア王国が、ユーゴスラビア共産主義国に移行する間もその後も活躍し、つまり彼らは既に内面も共産主義者でした。

ユーゴスラビア外交の話をします。  第二次大戦後、ナチスドイツが衰退し、ユーゴスラビアは領土を獲得し、行政分割、行政区が分けられました。

ユーゴスラビアは連邦共和国で、 スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロ、セルビアとマケドニア6つの国で構成されました。これらの国同士でも未だいくつかの政治的問題が続いていますが、今日もその国々は存在しています。

社会主義共和国になり、 共産主義政党の首都はベルグラードになりました。共産党の外交方法はアート、芸術を多くの政策に反映させていきました。

東と西の間について重要だったことは、ユーゴスラビアは共産党ではありましたが、ソ連の一部ではなかったということです。ですので、初代大統領のジョシップ・ブロス・ティトー (Josip Broz Tito)は、 資本主義と共産主義の間の、Non-Aligned Movement (非同盟運動)のポジションをとりました。東か西ではなく、どちらも選択しなかったのです。これは本当に 賢い政治の意志と連合だと思います。

 第三の繁栄する国はそういったところから出てくるでしょう。 過去の、第一世界は西洋からでした。 第二世界はソビエト共産主義の影響力や領域からでした。そして第三世界は、いわゆる中立派の国々、ユーゴスラビア、インド、 インドネシア、 エジプトなど独立した国々からだと思っています。 

この時代は同時に、重工業化の時代でもありました。直接的にソ連の統治化にはなかったユーゴスラビアは、重工業によって西洋の産業化を支援し、多くの外貨を稼ぐことができました。写真のロゴは、各国の自動車産業、 金属、 農業、 食品加工、 建設などの国営大手企業が、至る所で経済を発展させていったことを意味しています。残念ながら、これらの企業は海外の投資に大きく依拠し、チトー大統領の死後は衰退の道を辿ってしまいました。

とは言え、この時代は人もモノも、都心や地方など場所を問わず往来していきました。宗教も廃止されることはなかったものの、共産主義下では全く推進されませんでしたので人々の心と金銭と時間に隙間があったのです。そこの隙間に入っていったのが文化であり、政府はかなり気をつけながら、その文化の力をプロパガンダの推進力にしていきました。 

ユーゴスラブアートについて、前編ではモダニズムが到来し、独自の融合をとげたことなどをお伝えしました。

この当時のソビエト連邦では、ロシアの実験的アバンギャルドなアートが勃興していました。ユーゴスラブブルータリズムモダニズムでは、このような絵が戦後の復興の時代性を表していました。この絵のように、「伝統を交差しながら今の都市をつくる」という意味では、ソビエト連邦とユーゴスラビア共産主義は相似します。しかし、この絵から見られる、ユーゴスラビアがソビエトとは違う方向性が見られます。 

これには、2つのことがユーゴスラビアの芸術の歴史に大きく関わっています。

1つ目は、1948年、ティトー初代大統領のスターリンのソ連の一部になることに対しての「NO」と言えたことです。スターリンとティトーは第二次大戦前からの知り合いで、双方に共産主義的思想を持っていました。共産主義的思想といっても、マルクス主義、レーニン主義、スターリン主義、トロツキー主義と色々ありますが、この西と東の地理的、思想的、権力闘争の狭間で、ティトーは指導者としてとても賢く、中立、もしくは文化と経済関係は西寄りの姿勢を示していったのでした。そしてそのためには、文化を再復興させる必要を感じたのです。その影響により、一般的に知られている自由の芸術表現は、この地で芽を絶やされることはなく社会的リアリズムは、ある種、空洞化となりました。これはとても重要なことでした。つまり、ユーゴスラビアは、検閲が常にあり、一方方向へしか方向性を見せない社会主義国家の芸術表現とは一線を画したのです。

次は1952年、Miloslav Krlezのリブリャナでの国会スピーチです。彼はノーベル文学賞の受賞候補でもあるほどの作家としてだけではなく、とても賢明な文化人でもありました。彼はティトーとも親交が深く、クロアチアの同郷でもありました。

ユーゴスラビアの民族は中世から皆同じルーツをもつ同胞であり、社会的リアリズムはブルジョワであり、良くないものだと訴えました。それをきっかけに、この地域においての芸術文化は萎縮することなく、その探求と発展をとげていくことができました。 

1953年のスターリンの死後、ユーゴスラビアは1から、その芸術の国際的ポジションを築くことにし、アート関係の内容の検閲を最低限にし、表現の自由を社会主義の枠の中で与えたのでした。

 ティトーはアメリカのハリウッドやソ連、そしてユーゴスラビアの俳優やミュージシャンなどを招待したり、コカコーラやジーンズを輸入、卸売なども行い、それによる様々な人気と、その世界トップの技術のノウハウを吸収していきました。これらに対しても、とてもオープンでありながら、相当注意深く検閲のラインを精査していました。国際的な映画撮影など、ソ連の共産主義とは違うものでした。

新しいユーゴスラビアを統治したティトーはあまりのカリスマ性ゆえに、彼を超える次の継承者はおらず、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国=ティトー、が中心であり全てとなったことで、彼の死後にすぐにユーゴスラビアは崩壊に向かいました。 

リーダーのイメージはとても大事であり、同時に社会主義リアリズムが反映されてなければいけません。左のBožidar Jakacと、右のAntun Augustinčićが受けたコミッションワーク「TITO」です。彫刻家のアントニオ・アウグスティンにおいては、チトーと同じ田舎出身という理由が強いのですが、ともあれ、この彫刻が持つ、チトーのイメージは、後世のチトーのイメージを形成しました。

こちらも公的プロパガンダを象徴する作品群です。これらの傑作的巨大モニュメントは、旧ユーゴ圏の国々の至る所に存在しています。

これらは、歴史的に戦いがあった場所や重要なことが起こった場所などを記念碑として、政府に膨大な予算が組まれることで実現します。写真の彫刻は、コザラ山の上にあるDušan Džamonjaの作品で、これら一つ一つの白い物体を人民と喩え、私たちが重なり、繋がり、ナチスの侵略に反対する、というコンセプトになっています。通常、丘の上などの素晴らしい場所が多く、彫刻はランドアート、ランドスケープアートとしての配慮もされています。

1971年に建てられたMiodrag Živkovićの“Sutjeska”。これも、たくさんの人が亡くなった戦いがあった場所に、記念碑として建てられました。とても壮大な彫刻で、美術史家たちをもっとも魅了するパブリックアートの一つと言っても過言ではありません。以前これは、ニューヨークの現代アート美術館MOMAでおこなわれたユーゴスラビアの展覧会、「Before concrete utopia」でも大きく取り上げられていました。

こちらは、強制収容所があった場所に建てられた花のような巨大彫刻です。

たくさんの人が戦い、数多くの命が亡くなっていった場所には、必ずというほどモニュメントがあります。 

これはクロアチアの抵抗勢力が戦った場所にあり、このタワーには現在登ることができます。この作品はかなり軽視されていますが、素晴らしい作品です。私にとってもとても好みの作品です。

ベルグラードの近くにあるこのオブジェは、数あるユーゴスラビアに点在する社会主義モニュメントの中でも最も素晴らしい作品の一つです。この作品はなんと、現在有名な慰霊場所、もしくは教会かのように、人が神や命に対して参拝する場所になったり、重要なセレモニーを行う場所としても機能しています。これは、この立地条件が良く、眺めもよく、一般観光者などが立ち寄りやすい場所にあるなどの効果もあってのことです。 

Đorđe Andrejevićの「liberation struggle」(解放闘争)です。こういった絵画などの多くはコミッションワークで、現在の6カ国の首都には必ずあった、共産主義関係の博物館などがオーダーし、これらの作品から伝わるビジュアルコミュニケーションにより、政府は民衆や体制を維持、より強固にさせていったのでした。ナラティブを印象操作とも言える説明が付け加えられ、聖人ではなく市民がヒーローとなり起こす勝利。作品が国の意志統一に寄与しています。

こちらは共産主義思想の父、マルクスとエンゲルスの彫刻です。

いくつかの事例で見てきたように、社会主義モダニズムは、共産党政府のプロパガンダに、芸術をととても意識的に使用されていきました。

これらのようなモニュメントは、ソ連では見ることはありません。そして西側の人たちを驚かせるような内容です。

社会主義的美的感覚と社会主義モダニズムの次は、絵画を数点紹介します。

第二次大戦後の日本は資本主義であるし、アートマーケットが存在していましたが、ユーゴスラビアにはマーケットは存在していませんでした。それによる結果、たとえばこのPetar Lubaradaのように、田舎の素朴な暮らしをしていた画家が、何かのタイミングで政府のコミッションワークを受けて、金銭的生活が一変した作家もいました。 

Miodrag B. Protićもその一人です。彼の抽象絵画は、社会主義リアリズムではなく、社会主義エステティックと言われ、社会主義リアリズムのように直接的ではないものの、政府のプロパガンダとして機能しています。社会主義リアリズムのように共産党が素晴らしい、と訴えるものではなく、モダニズムに対してオープンで、アメリカや日本で見られるものを似ています。しかしソビエトではアンダーグラウンドでしか見られないでしょう。 

こちらのベルグラードに今もある、1947年からある連邦政府の巨大な建造物です。戦後間もない時にこれを建築したことは、異常なほどの急成長を遂げていることが顕著に見られます。 

こちらも典型的な社会主義リアリズム建築です。基本的にはビルボードの看板がなく、HONORという労働組合がメインで入っている建物ですが、一階部分には素晴らしいアートギャラリーや当時最高レベルの映画館がありました。

こちらはベルグラードにある現代アート美術館です。先ほどの抽象絵画を描いたMiodrag B. Protićは歴史家でありキュレーターであり、この美術館の海外とのコネクションにもなってくれました。ここでヘンリームーアやジャクソンポロック、ポップアート、あんフォルメルなどの展示が60年代に行われるという、とても信じられないことが当時起こっていました。 

1950年代からのモダニズムが流入してきました。写真はクロアチアのアートと建築グループEXAR51の作品です。

冒頭で述べた、1948年、ティトー初代大統領のスターリンのソ連の一部になることに対しての「NO」と言った後、そしてMiloslav Krlezが国会でスピーチをした年代に、これらのアバンギャルドな絵画がつくられました。

こちらはアーティストグループによって構成されたグループの建築物で、3つのモットーとして、Zenitによる伝統的なアバンギャルドの継続」「モダニズム建築の伝統」「ロシアアバンギャルドの保持」です。いかにアバンギャルドがユーゴスラビアに影響を与えたかを物語っております。

フランスのアンフォルメルが政府と作家たちによって受けれいれられました。ティトーはスターリンが亡くなった後、よりソビエトと親交を深め、抽象絵画に対して退廃的な動きになりました。しかし、バンされることはなく、ユーゴスラビアではそれらの運動が静かに継続されていきました。 

現代アートの文脈を急速に吸収し、様々なイメージを実験的に試されていきました。Leonid Šejkaはレディーメイドオブジェクトを絵画の上に配置したりしたりなど、彼を率いるグループ「Medialaは精力的に活動していきました。 

これが1950年代のユーゴスラビア初のコンセプチャルアートと呼べるかもしれません。アートグループ「Gorgona」は、自分たちのことをAnti-Artと呼び、例えばJosip Vaništaは、自社出版の雑誌、Gorgonaの第6巻にて、モナリザのみを全てのページに挿入し、そのアイロニカルなコンセプチャルアートを展開しました。 

彼らの活動は典型的なアートの振る舞いや様式などを斜に構え、政府は活動をサポートはしませんでしたが、彼らの制作活動は広く人気を博しました。既に有名であったり、重要な芸術作品をモチーフに扱い、それに対してのさらなるアバンギャルドでラディカルなコンセプチャルアートを展開していきました。

時を経て現在、アメリカなどの有名美術館がいくつものユーゴアートを再評価しています。

ユーゴスラビアの作家たちが国際的に成功するようになっていきました。

先ほどにもあったアートグループ、Medialaは、ネオシュールレアリズム、ネオダダ、ネオシンボリズムな画法で、フランスを中心に大成功していったのでした。Dado Đurićのようなネオシンボリックもしくはファンタスティックな画風で制作された作家達はマーケットに注目されていきました。

女性彫刻家のOlga Jevrichは、様々な素材で彫刻を造り、欧米のメジャーギャラリーで個展などをしました。鉄のカーテン以降、彼女はさらに再評価されていきました。写真は小さな作品ですが、彼女は巨大なモニュメントなどもつくりました。 

ユーゴスラビア内でその時代、政府のGDPの10%も文化に予算をとっていました。その中には、全ての教会や文化センターにある共産主義のプロパガンダも含まれています。写真にある ポップアートは、こういったテイストさえ、コンセプトが社会主義的であればサポートされていたのです。

Coca‑Cola Socialism」 = 「福祉や平等は社会主義的だけど、生活や消費は資本主義的」という社会の状態を指すジョーク的表現がありますが、これに代表されるように、ユーゴスラビアは二つの顔をもっていました。この社会構造と思想の二枚舌的バランスがとても興味深いことです。

このDušan Otaševićの制作した作品「POP ART」が、ユーゴスラビアがアメリカ化されていくリアルを物語っています。これはユーゴスラビアと日本の大きな類似点だと思います。第二次世界大戦、アメリカ文化が日本へ持ち込まれ、日本はこれらを自分のバージョンに作りました。ですので、日本版のアメリカ式現代美術があります。ユーゴスラビアにおけるポップアートは同じようなものでした。60年代はアメリカの影響をとても歓迎していながら、資本主義にアイロニカルな側面も見せます。このように、アートだからできるこの絶妙なバランスが作品に込められていきました。

具象系な作風がまた注目されます。この当時は出稼ぎに出る人が多く、共産主義らしいこの時代のリアルを労働風景をモチーフにして伝えています。

ベルグラードの学生文化センターヨーセフ・ボイス(Josef Beuys)が来てくれました。ここは国際的にもアクティブで知られており、ネオアバンギャルド運動が盛んな場所でした。ボイスの6時間にわたるレクチャーでありパフォーマンスにもなりえる彼のこの講演は、たくさんの聴衆を学内外から集めました。横にいるのはマリーナ・アブラモビッチです。

マリーナ・アブラモビッチは、現在最も国際的に知られている一人でしょう。彼女は70年代に、学生文化センターでパフォーマンスなどで、とてもアクティブでした。パフォーマンス中に命の危険にさらされる程のこともありました。この辺りから、国際的に注目を集めるようになりました。

数年前にベルグラードの現代美術館で行われたアブラモビッチの個展は作品もレクチャーも含め、とても素晴らしいものでした。

6人のアートグループNew Art Practiceの一人Raša Todosijevićです。彼らはユーゴスラビアにパフォーマンスアート、ネオアバンギャルド、コンセプチャルアートなどを広めた作家達ですRaša Todosijevićの作品“Was ist Kunst?”(ドイツ語でWhat is Art?)では、第二次大戦までユーゴスラビア占領し続けたドイツ人の役人の手が絵の具を女性(Raša Todosijevićの彼女)に白状させるかのような取り調べを援用した作品です。

ユーゴスラブアートを語る場合、ティトーが亡くなる1970年代までがより政府との緊張感があり、80年代以降はよりコンセプトの自由性は緩くなりました。 

最後は私の好きな作品Braco Dimitrijevićで終わろうと思います。これは一種のオープンでクリティカルな作品です。共産主義とコンセプチャルな偶然の通行人シリーズです。一般人を撮影し、大きく引き伸ばして印刷し、ティトーやレーニンなどの写真が掲げられていた場所に設置するという作品でした。これは、世界の現代アートの礎になったと思いますし、たくさんの人に影響を与えた作家です。

ここまで2回に渡り、ユーゴスラブアートをお伝えしてきました。今回の内容は本当に一部の一部であり、まだまだ紹介できていないことがほとんどですが、少しでも深く、ユーゴスラビアと芸術の関係、芸術がどう国に重要だったかが伝わったかと思います。

ティトーと、さらにその周りにいた重要人物たちは皆、とても教養があり思想的で、そのアートが生き残る上で欠かせない要素だったことを証明したのではないでしょうか。

しかし現在、50年続いた共産主義体制下では、一切のアートマーケット育ちませんでした。多くが政府の受注作品、ユーゴスラビア出身の現代アーティスト達は海外に移住し制作活動をしたことで、現在もユーゴスラビア地域の国際的なアート市場は皆無に近いものがあります。比較した場合、例えばボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、モンテネグロより、EUに先に加盟したクロアチアやユーゴスラビア時の首都のベルグラードの方が先進しています。 

政治の話をするときりがなく、また、芸術や感性の話からそれてしまいがちですが、「社会における芸術」、もしくは「芸術における社会」を、みなさんにより興味を持ってもらえたら幸いです。

Facebook
Twitter