「ポーランド美術におけるシュールレアリズムの影響や傾向」~ 中欧・東欧の芸術 ~

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写真引用元:ワルシャワ国立博物館

はじめに

今回は、ポーランドアートを通じてシュールレアリズムの傾向につい理解する講義です。シュルレアリズムとは、戦間期(1919~1939年)にフランスで起こった文学・芸術運動であり、この運動が始まるきっかけとなったのが、フランス人の作家アンドレ・ブルトンが1924年に掲げたシュルレアリスム宣言です。この宣言は、理性や道徳による統制を超えた思考の書きとりの実践と定義したもので、既存の技法を集約して新しいものを創造する、想像の中のものを現実の世界に呼び起こしていくことを謳っています。この宣言を足がけに、多くの作家が「シュルレアリスト」として、集団となって新しい作品を作り始めました。

フランスで始まったこの運動は国内にとどまらず、様々な国に影響を及ぼします。東ヨーロッパにおいても例外ではなく、フランスに移民、亡命した作家が多く存在し、シュルレアリズムの影響を受けたであろうことが伺えます。果たしてどのような動きがあったのか、今回はポーランドのシュールレアリズムを中心としたアートに焦点を当て探っていきたいと思います。 

今回は、学芸員、美術史家であり、ワルシャワ国立博物館(National Museum in Warsaw)の教育部助教授、ズザンナ・ゾール(Zuzanna Szor)氏とオンラインツアーの形式で、博物館内のシュルレアリスムをテーマにした展示Surrealism. Other Mythsを見学しながらレクチャーを進めていただきます。

レクチャータイトルは 、「シュールレアリズム、その他の神話:20世紀のポーランドアートにおけるシュールレアリストの傾向」(Surrealism. Other myths: surrealist tendencies in Polish art of the twentieth centuryです。

それでは以下、 Szor氏の講義内容を短くまとめたアーカイブを見ていきましょう。 

 ワルシャワ国立博物館のズザンナ・ゾール(Zuzanna Szor)です。それでは、現在展示している「Surrealism. Other Myths」の様子をお見せしていきます。 

  今年はシュルレアリスム運動の100周年を祝っています。1924年にフランスの詩人アンドレ・ブルトンAndré Breton)がパリで初めてシュルレアリスム宣言を発表したことが、この運動の始まりを象徴する日付です。この機会に、多くの博物館で展示が行われ、世界中で100年を記念する祝賀行事が開催されていて、私たちの展示もその一環です。

 アンドレ・ブルトンの周りには、パリのシュルレアリストたちの正式なグループが存在していました。彼らはマニフェストを持ち、グループの境界を非常に厳格に定めていました。長い間、シュルレアリスムは地理的にも時間的にも制限された閉じた運動と見なされていました。1966年、アンドレ・ブルトンが亡くなった年をシュルレアリスムの終焉と考える人もいますが、近年、多くの研究プロジェクトや展覧会が行われ、シュルレアリスムを限られた教条的な運動だけでなく、より広い問題、すなわち美術における広い傾向として理解しようとしています。

ポーランドのアーティストたちはブルトンのサークルに所属していなかったため、ポーランドには公式なシュルレアリストグループは存在しませんでした。しかしシュルレアリズム運動がフランスで始まった後、後の数年間で世界各国に拡大した中で、シュルレアリストのアイデアが広がったのです。イギリスや日本のような場所では、他の公式なシュルレアリストグループが設立されましたが、ポーランドではそんなことは起きず、シュルレアリストグループとして自己を同定する正式なグループは存在しませんでした。したがって、この展覧会で見る接続はより広範囲なものであり、このプロジェクトは20世紀のポーランド美術におけるさまざまなシュルレアリスムの影響や傾向を探求し、アバンギャルドなアーティストの作品をシュルレアリストの視点から解釈することを目的としています。私たちの展覧会は、シュルレアリズムを非常に複雑なものとして理解する最近の広い取り組みの一部です。

第一の部屋

まず最初に、展示の建築についてです。作品の配置や空間、アーチはシュルレアリスムや20世紀の芸術建築を参照しています。もう一方では、この展示の建築は歴史的なシュルレアリスム展を思い起こさせるように設計されています。シュルレアリスムの展覧会は、しばしば大規模なインスタレーションとして組織され、アート作品が単に壁に掛かるのではなく、展示全体が体験として構成されることが多かったのです。

これらは非常に複雑な空間的創造物であり、しばしば展覧会のように、一つの大きなインスタレーションとして見られるでしょう。 

ポーランドにおけるシュルレアリスムの始まりは、1929年に現在のウクライナ、リヴィウで結成された視覚芸術家の団体「アルテス協会」と関連付けられます。1920年代ではこの運動が生まれる時期であり、30年代にかけて発展していきます。ここにあるのは、Marek Włodarski (Henryk Streng) の作品です。彼は第二次世界大戦中に名前を変えたアーティストです。 

戦前の彼の名前はヘンリク・ストリング(Henryk Streng)でした。 彼はユダヤ系の家族背景であったため、第二次世界大戦中に名前を変え、アイデンティティを変えて隠れて生きる必要があったため、よりポーランド語らしい名前を使い始めた。このため、第二次世界大戦以来、彼はMarek Włodarskiとして知られています。この絵画の作品は1930年代に作られたため、まだヘンリク・ストリングという名前を使用していました。しかし、戦中にはそれらのユダヤ人の自分の名前のサインを削り落とし、新しい名前に変更しました。戦前、彼は視覚芸術家協会の創設者の一人であり、シュルレアリスムに大いに影響を受けていました。絵の中の主人公は、隣にある化学的機械で何かを準備しているように見えます。壁や、樹の幹を思わせる緑の岩など、この全体の構成は非常に奇妙で、夢の中の場面を思い起こさせるか、現実と夢の間、あるいは意識と無意識の間にあるようなイメージ、もしくは眠りに落ちる前に心の中に現れるようなイメージを連想させます。これはシュールレアリストにとって非常に典型的なものであり、アンドレ・ブルトンにとって非常に重要なことでした。ブルトンは最初のマニフェストの中で、意識と無意識の境界を取り除く必要性について語っていました。多くのアーティストはそのアイデア、マニフェストにも精通しており、シュルレアリスムの芸術に親しんでいました。 

これらの類似点は主に形式的なレベルにあり、彼らは奇妙な風景や水中の生物に触発され、夢の中で私たちの心に浮かぶ映像に魅了されました。しかし、彼らの作品は独占的ではなく、形式的に記述されることも少なかったのです。 

第二の部屋

この部屋の次の部分も同じ協会のアーティストの作品に捧げられていて、紙の作品もいくつか展示されています。特にこれらのコラージュに注目してほしいと思います。  

これらのアーティストは、当時のフランスのシュルレアリストから取り入れたもので、彼らにとって新しいさまざまな技法を試みていました。例えば、コラージュはフランスのシュルレアリストによって非常に重要で広く探求された技法です。協会のアーティストたちは、これらの技法や実験をポーランドの作品に最初に取り入れた人々でした。

 

ここでは、コラージュのいくつかの例を見ることができます。アーティストグループのメンバーは、写真にも幅広く実験を行いました。これからご案内するのは、シュルレアリスト写真専用の部屋です。 

この部屋は楕円形、卵の形にしています。最初にお見せするのは、アーティスト協会で活動していたAleksander Krzywobłockiによるいくつかのフォトモンタージュです。ここでも、彼らがシュルレアリスト運動からどれほど多くのインスピレーションを受けていたかがわかります。彼らは、奇妙な形や創造物、構成に魅了され、幻想的な風景にインスパイアされていました。

ポーランドで最初にフォトモンタージュの技術を探求した彼はしばしば、自身の構図を整理するために、手の描写を取り入れていました。

写真にはフォトモンタージュだけでなく、他にもひとつのアプローチがありました。 

それは「生活からのモンタージュ」(Montage from life)という名前の芸術的行動で、Aleksander Krzywobłockiも多用しました。これは技術的には日常的な写真、すなわち生活から撮影された写真ですが、彼は自然なシーンに見えない構図を作ろうと試みていました。ここでは、岩の上に横たわる人々が写っており、これは未加工の写真ですが、シーンの状況は奇妙な方法で配置されており、最初の瞬間にはコラージュやフォトモンタージュのように、これらの人々が風景に挿入されていると考えられるかもしれません。彼はこうした奇妙な状況を作り出し、それを写真に収めることに興味を持っていきました。そのようにして、あたかも操作された写真プリントのように見えるものを撮っていたのです。

ここにも他のフォトモンタージュやフォトコラージュがあります。これらの異なる手法で、現実とは異なる構成を描くためにアーティストはs写真を操作しました。この手法の元々の目的は、コラージュやフォトモンタージュが持つシュルレアリスムの興味に起因し、あまり明白ではないつながりや新しい意味を見出し、日常の物体を組み合わせることによって、一つの構図の中で新たな意味や感覚を突然明らかにすることでした。また、シュルレアリストたちはフォトグラムを作成するなど、他の技法でも実験を行いました。これはフォトグラムの例の一つです。 

カメラを使用せずに、物体を感光紙や他の物質の上に置くことによってつくられた写真印刷物です。このように日常的な物体を配置することで、奇妙で独特な効果を得ることができ、この後に更に誰かに解釈されることでまったく新しい形を明らかにすることが可能になります。

ここでいくつかの作品を見ることができます。この技術を使用した最も有名なアーティストの一人はマン・レイ(Man Ray)で、彼は複数の光の露出を使ってこの技法を用いました。 

写真右はマレックス・ピアセツキ(Marek Piasecki)による作品です。彼の写真は、ラウル・ウバック(Raoul Ubac)による写真の隣に配置されています。この展示では主にポーランドのアーティストを紹介していますが、ブルトン運動の国際的なアーティストの作品もあり、より広い文脈で展示しています。

左には、ウバックによる構成作品があり、彼は写真乳剤、感光乳剤を焼くことによって新しい形や効果を追求していました。それに対して、右のマレックス・ピアセツキの作品も示されています。彼は似たような方法で作業していましたが、感光性素材を酸で操作していました。

ここで特に指摘したいアーティストはフォルトゥナータ・オブラパラスカ(Fortunata Obrąpalska)です。彼女は写真家であり化学者で、リトアニアのヴィルナス大学で化学を学びました。

彼女は写真に親しむようになり、写真に魅了されます。彼女の作品の中で最も重要な二つの領域は、第一にマクロ写真です。これは、日常的な物体の中に異常な意味や形を探求する超現実主義者たちにも興味深いものです。これらの構図は何を思い起こさせるでしょうか。ほとんどの人にとって、月の表面や他の惑星を思い起こさせます。しかし実際には、オブラパラスカはジャガイモの皮の写真を撮っているのです。  

この写真は銀河に似ているかもしれませんが、実際にはそれはクモの巣なのです。フォルトゥナート・ブララだけでなく、当時の他の写真家たちも日常の物体の意味を変え、私たちの身近な環境における超現実的な偶然や効果を見いだそうとしていました。 

彼女の非常に興味深いプロジェクトの一つは、液体中の拡散の実験を撮影したこのシリーズです。彼女は水の入った容器に黒インクを入れ、その液体がどのように相互作用し、溶け合うかを観察し、その写真を撮りました。これらの写真は上下逆さに配置されていることがわかりますが、逆さの方が彼女は非常に詩的に解釈したのです。うちの一つは「ダンサー」と題され、もう一つは「静寂」と名付けられています。そしてこれはネガティブプリントで、たとえば炎や火を思い起こさせる内容でもあります。彼女は、この液体と写真の実験で最も知られています。

 

第三の部屋

三番目の部屋は、40年代と50年代のアートに主に焦点を当てた部屋で、これは内的モデル (Internal models)と呼ばれます。1940年代と1950年代、つまり第二次世界大戦後の時期であり、これらの作品の主な参照は戦争体験であり、戦争の悲劇やトラウマは、多くのアーティストにとってすべてを変えました。 

彼らの中にはアーティスト協会の一員だった者もおり、第二次世界大戦前にアバンギャルド運動に親しんでいた者もいます。その一人がエルナ・ローゼンシュタイン(Erna Rosenstein)です。

彼女はおそらくポーランドで最も有名なアーティストの一人で、彼女の作品はシュルレアリスムと関連付けられています。左は『モニュメント』と題された彼女の絵の一つであり、こちらは右の作品でタイトルは『地獄の花』です。

エルナ・ローゼンシュタインもユダヤ人の家庭に育ちました。戦前、彼女はクラコフ、ウィーンでも学びました。また、パリにも旅行し、1937年にパリでのシュルレアリスムの展覧会を見ました。彼女はその展覧会に強く影響を受け、非常に感銘を受けました。しかし、彼女は自分をシュルレアリストとは呼ばず、アートはアーティストの内面の生活を表現するものであるという考えを主張しました。そのため、彼女はシュルレアリストと呼ばれることにしばしば反対しました。それにもかかわらず、彼女の作品はこれらの概念やシュルレアリストのアイデアと通常関連付けられます。

彼女の作品は、彼女の戦争の経験の文脈で最もよく解釈されます。ユダヤ人の出身であるため、彼女の家族は長期間にわたりさまざまな場所に隠れなければなりませんでした。また、彼女は両親の殺害を目撃したという経験があります。これらの経験は、彼女が晩年にのみ語ったものであり、彼女の作品に見られます。彼女の絵画は、この悲劇的なトラウマ体験を通じて最もよく解釈されます。しかし、エルナ・ローゼンシュタインだけのことではありません。 

この部屋には、戦争のトラウマ体験やシュルレアリスムの技法に関連づけられる他の作品も見ることができます。そして、シュルレアリストの言語は、彼らがその経験に対処し、感情とつながる方法としてしばしば適応されました。

ここで、非常に率直にそれを説明したアーティスト、ドゥバックの言葉を引用して読み上げたいと思います。  

彼はこう書いています。「私にとってシュルレアリズムは、芸術運動というよりも、戦時および戦後の状況です。シュルレアリストの手法を利用することで、戦争中およびその直後に何が起こったのかという感覚に光を当てるかもしれない人間の精神の層を明らかにできると私たちには思えました。」 

これは、彼がシュルレアリストの言語と手法を、彼自身がどのように見ていたかを説明したものです。そして、彼だけでなく、多くの人々にとっても、このシュルレアリストの手法はトラウマ的な経験に結びつく方法であり、戦争中の経験に対処する手段でもありました。

この部屋に集められたアートワークには、コラージュや他の技法が含まれており、その多くは人間の身体をテーマにしています。

その多くは、変形した人間の身体やその一部を扱っており、戦争の経験を通じた視点から見ることができます。多くは紙に描かれた作品です。

第四の部屋

こちらの部屋は、シュルレアリスムの歴史的展覧会を再現しているかもしれません。先ほどお話ししたように、これらの展覧会はしばしば全体がインスタレーションとなり、アートワークはさまざまな方法で配置され、観客や来場者に対して異常な印象を与えるように設計されています。  

これはシュルレアリストにとって非常に典型的なもので、彼らは観客とのさまざまなゲームを楽しみ、驚きや驚嘆を生み出そうとしました。そのため、展示の異常な配置もその一部でした。この部屋では主に、三次元のアッサンブラージュオブジェクトを展示しています。主に三人のアーティストによるものです。その一人がエルナ・ローゼンシュタイン(Erna Rosenstein)で、彼女はほとんどの人生を絵画に捧げており、それが彼女の主な技法でしたが、主に晩年の自宅で創作したシュルレアリストのオブジェクトでも非常に有名です。 

これらの奇妙なシュルレアリストオブジェクトのほとんどは「無題」で、見つけた物を用いて、しばしば壊れた日常品の一部で作られています。このアッサンブラージュでは、例えば義歯、革のバッグ、糸、リボン、スポンジなどを使ったいくつかのコラージュを見ていただけます。よく観察すれば、自分で解釈してみることもできますが、彼女の多くの作品にはタイトルがありません。

他にもいくつもの作品が並んでおり、彼女がどのようなオブジェクトを使ってこれらの異常なコラージュを作成したのかを見ることができます。 

この作品は、たとえばチョコレートボックスを使用しています。彼女にとって非常に典型的な材料であるチョコレートボックスや、他の材料を加えたペイントがあります。また、タバコボックスがシュルレアリストのオブジェクトに変わったり、古い電話やゴミ箱などの壊れた家庭用品の一部が使われています。これらのオブジェクトはしばしばタイトルがなく、正確にいつつくられたのかさえわからないことが多いのです。

多くのシュルレアリストと同様に、彼女は捨てられるはずだった物に新しい命を与えることに魅了されていました。物に新しい意味を与え、現実の間に本来結びつかない関係を見出すことに興味を持っていました。 

これは現代アーティスト、Dominika Olszowyによるインスタレーションで、今年この展示のために特別に作られたものです。ワルシャワ国立美術館の最新の委託のインスタレーション作品です。

この展示を補完するために特別に作られたもので、夜の出来事や、私たちが眠っているときや半分眠っているときに思い浮かぶ奇妙な幻想の世界を表現しています。これは、シュルレアリストたちがしばしばコメントしたり探求したりした、夢のような場所を思い起こさせるかもしれません。シュルレアリストのアイデアや概念が時を超えてどのように旅をしたのかを明確に見る機会でもあります。アンドレ・ブルトンの死で終わることはなく、展示の最初に述べたように、異なるシュルレアリストの傾向や概念が時を超えて存在していることを示すのがこの展示の目的です。さまざまな時代の異なるアーティストによって、さまざまな方法で表現されています。ここにあるこのインスタレーションでは、これらの概念が今日のポーランドのアートにおいても依然として存在し、アーティストにインスピレーションを与え、新しい創造の出発点となっていることが非常に明確に示されています。 

第五の部屋

次の部屋は、シュルレアリズム美術におけるオートマティズムについての部屋です。これは私たちの展示にとって非常に重要な部分で、オートマティスムはアンドレ・ブルトンにとって極めて重要な概念でした。シュルレアリスム宣言にて「脳の純粋な自動化」と定義した彼オリジナルのアイデアです。

彼は意識を排除することを意味しており、潜在意識にアクセスするため、さまざまな自動技法がシュールレアリストたちによって活用されていました。思考がすべて排除されたとき、人間の脳で何が起こるのかを発見する手段です。この部屋では、この壁はほぼ全てが Decalcomaniaの技法の作品で展示されています。 これは例えばマックス・エルンストによって使用された技法です。非常に古い技法ですが、多くのこれらの技法は何世紀も前から知られており、シュールレアリストによって再発見され、普及されました。

ここではポーランドのアーティスト、アルフレッド・レニツァ(Alfred Lenica)による作品を見ることができます。その中で私のお気に入りは、さまざまな色の絵具が溶け合い混ざり合い、異常な形を生み出しているこちらの作品です。

レニツァは、シュールレアリストとして自らを特定した非常に少数のアーティストの一人、もしくは唯一の存在でした。彼はシュールレアリストと呼ばれることを避けませんでしたし、彼の作品にはシュールレアリストのインスピレーションが宿っているとしばしば表現しまし、オートマティスムの技法を深く探求したことがわかります。 

前の部屋では、奇妙なキャラクターや風景を持つ非常に異例な構成を示す具象絵画の例を見ましたが、ここでは、抽象的なシュールレアリズムのいくつかの例を示します。 

こちらは完全にオートマティズム的で、シュールレアリズムの「手放す」という概念を表しています。すべての考えを放ち、無意識に達するために、手を使って自由に描いたり、制御なしに絵の具を流したりします。彼らはすべての制御を放棄し、論理思考から解放され、無意識の人間の脳が何を生み出すかを探求しようとしました。これは、フロイトの心理学実験や理論による彼らの魅力と非常に関連しています。心理的オートマティズムです。これは夢の中の絵のようで、とても奇妙で、シュルレアリストたちが無意識の働きであると信じていて、アーティストのプロセスと物語は、ショーの一部です。この部分はまさに、そのプロセスにもっと焦点を当てており、結果についてはあまり重要ではありません。なぜなら、それは無意識の心の結果で、強調することはその創造するプロセスにあります。 

第六の部屋

次の部屋では、比喩的なフィギュア(人体など)芸術の作品をいくつかお見せします。ここは「戦後の魔法の再発見」というタイトルです。第二次世界大戦後、アンドレ・ブルトンや他のフランスのシュルレアリストたちは、魔法、精神主義、オカルトを探求するアイデアに移行しました。

 戦争の経験は、彼らのシュルレアリズムの初期の定義を大いに変えました。彼らの初期の目標である「思考を止めし、オートマティズムに焦点」を当てることが少なくなり、代わりに彼らは主に魔法やオカルト、 そして非ヨーロッパ文化による芸術に魅了されていました。

この部屋はそれに捧げられており、まず、マックス・エルンスト(Max Ernst)のマスクをお見せします。これは私たちの展示で最も重要な貸作品の1つです。

マックス・エルンストのマスクは、パリのポンピドゥーセンターからここにレンタルしたものです。マックス・エルンストは、シュルレアリストグループのオリジナルメンバーの1人であり、戦争中にヨーロッパを逃れ、妻でありシュルレアリストのアーティストであるドロテア・タニング(Dorothea Tanning)と共にアリゾナに定住しました。そこで彼はネイティブアメリカンの芸術、部族の芸術に魅了され、それを作品に取り入れました。彼はこの種の作品を収集し、またこれらの文化に魅了されていました。彼らのシンボリズムと美学によって、ここで見ることができるのは、シュルレアリスムの関心が非常に広範囲であったということです。

ポーランドのアーティストによるマスクや、Władysław Hasiorのポーランドの民芸品に関連などが見受けられます。アーティスト達はポーランドの民俗芸術に深い関心を持っており、インスピレーションとして反映させていきました。   

このような関係性から、シュルレアリスム運動の戦後の関心と、当時のポーランドのアーティストとのつながりを解釈できます。特に、ポーランドのアーティストがパリに旅行し、シュルレアリストによる新たな文化や魔法、神秘主義への関心に触れた時期でもありました。この興味は彼ら自身の地方の伝統とも結びついていることがあり、時にはシュルレアリスム芸術からのインスピレーションが与えられました。   

こちらの絵画作品は、Jerzy Kujawski による非常に興味深い絵画です。絵画のタイトルは「無題:対立の太陽たち」と名付けられています。

Jerzy Kujawski は、1945年からフランスのパリに移住し、彼は第二次世界大戦後のポーランドの芸術コミュニティとアートシーン、さらには国際的なシュルレアリスム運動との間の架け橋となった重要な人物です。彼はシュルレアリスムを完全に理解した最初のポーランドのアーティストと考えられています。ここに見られるこの絵は、1947年にパリのギャラリーで開催されたシュルレアリスムの非常に重要な展示発表されたものとほぼ同様のもので、彼は唯一のポーランド人アーティストでもありました。

この絵はもう一つのオートマティックなテクニック、グラタージュ(Grattage)です。これは、キャンバスや他の表面が塗料で覆われ、その後、例えば黒い表面で覆われ、その黒い表面が特定の方法で引っかかれて、下にある色に到達する方法で行われます。近くで見ると、この技法がどのように行われているかがよくわかります。 

彼は パリでシュルレアリストのサークルと出会う機会を多くのポーランドのアーティストに提供したため、私たちにとって非常に重要なアーティストです。彼は自身の作品の中でさまざまなシュルレアリズムの技法やアイデアを試みました。

第七の部屋

この部屋では、戦後のシュルレアリストを魅了した、魔法やオカルトのアイデアについてさらに議論します。ポーランドのアーティストたちは西側との関係が深まる中で、それを探求していました。この文脈で、私はこの三枚の黒いカードに注目したいと思います。 

これらの作品はそれほど前ではなく、1960年代に作成されたもので、ONEIRON GROUPというグループによってつくられました。このグループは数人のアーティストUrszula Broll, Antoni Halor, Zygmunt Stuchlik, Andrzej Urbanowicz, Henryk Waniek, Henryk Waniekで構成されていました。

シレジア地域出身のアーティストたちは、彼らの活動がシュルレアリスムにインスパイアされていること、そして魔法への魅力とその他の関心事と結びついていることを指摘しています。私たちはこれらのカードを示すことで、シュルレアリストのゲームや、オブジェクトやアイデア間の奇妙で異常な関係を見つけることへの魅力という重要なテーマを強調しています。

これらの黒いカードがどのように作られたのか、そしてなぜこれほど多くのアーティストの名前がここにあるのかということですが、各カードは彼ら全員によって共同で制作されたものです。彼らはこれらのカードを30枚作り、各カードの主要なテーマを一人のアーティストが開始し、他のアーティストがそれぞれを追加するという方法で作成されました。これらのカードはアーティストのスタジオを移動し、各アーティストがその一部を加えていきました。

例えば、こちらの作品を近くで見てみましょう。 

この構成の一部は、関連性がないように見えることもあります。

これは多くの人の心の中で生まれた構成であり、シュルレアリストゲームの変形の一例でもあります。皆さんがご存知の「Exquisite Corpse」というフランスのゲーム、つまり「精巧な死体」を連想させます。このゲームはシュルレアリストたちによって1925年に初めて発明された典型的なゲームです。

このゲームは、最初の人が一つの単語を書き、二番目の人がその前の単語を知らずに別の単語を書くというものです。一定の文法的な順序があり、この方法で文が作られますが、各人は以前に何が作られたかを知らないため、珍しい予想外のフレーズが生まれます。これが最初の文が作られた方法であり、「エクスキーズ・コープスは新しいワインを飲む」と名付けられました。これがゲームの名前が考案された経緯です。また、このゲームは、三人以上の人々が他の人のアイデアを知らずに一つの絵を描くビジュアルな形式でも遊ばれます。このように、以前の部屋でお話しした通り、シュルレアリストたちはしばしば地域の芸術や文化に影響を受けましたが、彼らの人間の脳やその内的世界に対する興味から、素朴だったりナイーブで自発的、子供たちのアートあるいは精神的な障害に苦しむ人々の作品にも影響を受けていました。  

次に、独学のアーティストであるTeofil Ociepkaを紹介します。彼は炭鉱で働いていましたが、合間時間を利用して絵を描き始めました。これは彼の神秘主義や魔法に対する興味と関連しています。彼は絵を描くことで、神秘主義やさまざまなスピリチュアルな概念に関する自らの考えを表現しました。彼は地元でオカリストグループを立ち上げ、他のアーティスト や同様の関心を持つメンバーと共にこれらのアイデアを探求しました。ここで、彼の絵画の一つをお見せしたいと思います。

これは「マンモス土星ライオン」と呼ばれる作品で、土星が生命が存在する惑星であると信じていました。彼は土星には豊かな動植物があり、とても生き生きとした惑星だと考えていました。こ

マンモスの背後にあるアーチは土星の軌道、つまり惑星のリングを表しています。 

また、ここにはこのアーティスト自身の自画像も見ることができます。彼は想像力から生まれたキャラクターや生き物に囲まれています。彼は典型的な画家の自画像のポーズで立っており、ペイントブラシを持っていますが、そのペイントブラシは別の生き物によって支えられています。そして、絵のパレットの代わりに、彼はこの神秘的な鳥を持っています。これは、今日の興味をシュルレアリスムの視点から解釈した部分です。

この展示部屋を出ると、現代アーティスト、ゴシュカ・マトゥガ(Goshka Macuga)による神秘的なインスタレーションに出会います。これは実物大の女性のモデルで、19世紀の神智学協会の創設者、ヘレナ・P・ブラヴァツキーを表しています。彼女は歴史上の人物で、神智学協会を創設し、超常的な能力を持っていたと信じられています。そのため、彼女はこの二つの椅子の上で浮かんでいる姿で表現されています。この作品は、展示会に貸し出されたものです。しかし、これは現代アーティストによる作品であり、今回の展示で、シュルレアリスムの概念や興味が国際的なアートの中で今もなお生き続けていることを強調するもう一つの瞬間です。非常に有名な物語の一つで、この女性に関連するストーリーがあります。彼女は主にこの分野の先駆者として知られていますが、それは彼女の超常的なスキルや活動のおかげでもあります。

 この展示の終わりに近づいている中で、このインスタレーションの配置は、観客に遊びや驚きを与えています。

第八の部屋

最後の部屋に案内します。この部屋はPhases運動 (The International Phases Movement)について取り上げています。 

この運動は1954年にシュルレアリスムの思想に由来しつくられました。これはより広範な運動であり、アンドレ・ブルトンのシュルレアリスムグループよりも民主的でオープンでした。この運動はシュルレアリスムの遺産を探求し続ける自由を求めるものでしたが、他のアイデアにも心を開くものでした。

この運動とアンドレ・ブルトンは1950年代や60年代でも時折協力しており、シュルレアリスト運動は一緒に展覧会を開催したり意見交換をしたりしました。この部屋では、ファズ運動の一員であったアーティストの作品を展示しています。 

ここには、グループが発行した雑誌も展示しています。Phasグループは、さまざまなアーティストによる文章やビジュアル作品、その他の探求を発表するために雑誌を発行しました。そして、これらの雑誌の中には、ポーランドのアーティストによる作品の複製を見ることができます。たとえば、この作品はZbigniew Makowskiによるものです。 

マコフスキーは運動の一員であり、シュルレアリスム運動に非常に感銘を受けたアーティストの一人でした。彼は第二次世界大戦後、非常に頻繁にパリを訪れ、アンドレ・ブルトンと出会い、彼の作品やインスピレーションをシュルレアリスムと直接的に関連付けました。1959年のグループ展は重要です。この展覧会はPhases Movementがポーランドのギャラリーで開催したもので、戦後ポーランドにおけるこのシュールレアリスムアートの政治的意義に関連しています。1959年の展覧会は、ポーランドのアーティストたちをシュールレアリスムの文脈で世界に知らしめる初めての展覧会でした。この展覧会のオープニングセレモニーでは、アンドレ・ブルトンの演説の録音が流されました。ブルトンはポーランドの知識人やアーティストたちに向けてこの演説を準備し、ゲストを歓迎し、展覧会を開幕しました。これは、ポーランドのアーティストをシュールレアリスムアートの文脈で公式に位置づけた重要な瞬間として記憶されています。

まとめ

展覧会の最後には、キュレーターのハナ・ドロスク氏(Hanna Doroszuk)が再びシュールレアリストのゲームの話題に触れました。「これはフランスのシュールレアリスト、と彼らに影響を受けたポーランドのアーティストたちにとって非常に重要なテーマです。偶然のゲームや、異なるアイデアを結びつける社会的な相互作用のゲームは、さまざまなアーティストの心の中で芽生えました。 

彼らは社会的なゲームを楽しむことが好きで、それによって想像力を活かし、偶然に生まれたさまざまなアイデアを喚起することができました」。

この展示の終わりにあたるこの小さな部分では、Zbigniew Makowskiが創り出したゲームの例を見ることができます。彼は、言葉遊びや他のゲームを参照する遊び心のあるインスタレーションやアート作品を数多く手がけた芸術家です。たとえば、このホイールはさまざまな言葉の偶然の組み合わせをつくることを可能にし、それがさらなる新しい通常のつながりを創造する出発点となることができます。 

タロットカードも同様で、タロットリーディングの技術はシュルレアリストたちによって探求されました。マコフスキーだけでなく、ブルトン界隈のシュルレアリストたちも、タロットリーディングのアートに魅了されていました。タロットのシンボリズムを理解しようとしました。

展示の最後に、鑑賞者が自分たちでシュルレアリスティックな形と形状で遊ぶことを目的として用意されたものをお見せします。ここでは、Makowskiのカラフルなブロックが展示されており、訪問者がここにあるオブジェクトを使って自分自身のアッサンブラージュをつくれるようになっています。

これにて展示ツアーを終わりますが、もしご質問があれば、どうぞお尋ねください。

Q&A

Q1:ポーランドからパリや他の西洋諸国への移民が多いと聞いていますが、彼らはフランスとポーランドの文化的、哲学の違いだけでなく、国自体の文化についても違いがあるはずですよね。

A1:その通りです。特に、当時ポーランドが第二次世界大戦後にソ連の一部ではなかったとはいえ、鉄のカーテンの東側に位置していたことを考えると、ポーランド、ウクライナ、東ドイツの生活の現実は西ヨーロッパとは大きく異なっていました。したがって、今日見られる文化的な違いだけでなく、東西ブロック間の非常に異なる戦後の現実もあったのです。また、移住することや西ヨーロッパの国に訪れることも容易ではありませんでした。このため、当時のアーティストにとってこのつながりは非常に貴重で、旅行が今日のように容易にはできなかったため、このつながりはしばしば唯一のものでした。それは、彼らが現代アートの傾向を知り、世界中の現代アートに親しむことを可能にするでしょう。

Q2:しばしば、特に東欧の人々からの政治的トラウマをまだ見かけます。彼らが西側に逃れても、その政治的トラウマにまだ囚われているのか、そしてそれを何らかの形で表現しようとしているのか、ということが気になります。彼らはこのトラウマから解放されているのか、それともそれを保ち続け、アート作品として表現したいと思っているのでしょうか。

A2:ポーランドにおいてシュルレアリスムが政治的だったかどうかについてもよく議論されます。さまざまな解釈があり、特定のアーティストによっても大きく異なります。シュルレアリスムはその起源において政治運動ではありませんでしたが、ポーランドでは戦後のシュルレアリスムがフランスとは異なっていたと言われています。

インスピレーションは異なり、戦後のシュルレアリスムは戦争のトラウマに対処する手段でもありました。そこで、当時のポーランドアートの違いが非常に明確に見られます。

Q3:この展示の興味深い点は、現在の現代アーティストと、50~70年前のシュルレアリスムのアーティストたちとの組み合わせです。この「今」と「昔」の組み合わせについて教えてください。

A3:今回の展覧会のキュレーターにとっても非常に重要なポイントだと思っています。なぜなら、冒頭でも言及したように、ポーランドにおいて公式のシュルレアリスム運動が歴史の中で一度も存在しなかったからです。この展覧会は、シュルレアリスムの様々な傾向をアートにおいて示す試みまたは、シュルレアリストの視点から多くのアーティストの作品を解釈する試みです。

一方では、ポーランドのシュルレアリズムを、時間的にそして地理的に制限された運動以上の、より広い傾向として示す試みでもあります。同じ時期にシュルレアリスムからのインスピレーションが存在し続けたことを示し、シュルレアリズムはもはや閉じられた運動として解釈されるのではなく、シュルレアリストのインスピレーションやアイデア、美学が現代アートにも、1960年代や1980年代、そして他の歴史の時点においても見られることを証明しています。

これは、歴史的な作品と現代の作品を一緒に並列して展示する方法の一つです。

Q4: 最初に、展示が「即興」、「偶発的なプレイ」、「無意識や潜在意識」などの定義について触れられています。これらはすべて異なる言葉であり、異なる意味を持っていますよね。例えば、最後には、人々が遊べるボックスがありましたが、あなたは様々な言葉を用いています。

この展示では、これらの言葉についてどのように定義されていますか?

A4:はい、オートマティズムに専念した部屋では、このトピックが最もわかりやすい形で表現されています。ここでは、意識と潜在意識の違いを説明することに焦点を当てています。英語の用語を使う場合、ポーランド語とは少し異なりますが、意識と潜在意識には言語的な違いはあまりありません。この場合、潜在意識といった方が良いでしょう。このトピックは、写真に専念した部屋でもさらに掘り下げていきます。この文脈でオートマティズムが初めて言及されているわけですが、ポーランドのシュルレアリスムはフランスのシュルレアリスムほど形式化されておらず、ドグマ的(固定された堅固な信条)でもありませんでした。アンドレ・ブルトンは複数のマニフェストを発表し、グループは特定の概念によって非常に公式に定義されていましたが、ポーランドではそのようなことは起こりませんでした。そのため、ポーランドのアーティストたちが得たインスピレーションは形式的なレベルであり、フランスのシュルレアリスムとの接触はそれほど密接ではありませんでした。多くのアーティストが技術や視覚的なレベルでさまざまな形を実験しましたが、ドグマ的または概念的なレベルでの実験はあまり行われませんでした。ほんの少しのアーティストは概念に取り組みましたが、ブルトンの周りのように書籍に基づいていたわけではありません。この点に触れつつ、アンドレ・ブルトンが定義した言葉について説明しようとしていますが、そこに重点を置いているわけではありません。

Q5:次の質問です。国立博物館への質問ですので、少しタブーかもしれませんが、アーティストの振る舞いや作品のビジュアルから、どうしてもお聞きしたいのが「薬物」に関する質問です。展覧会に出展されている作品の中には、作品やアーティストと薬物との関係についての何らかの記録やアーカイブがあるなら、その点について何かコメントいただけますか?

A5: 私は、ここに展示されている特定のアーティストについて詳細な情報を持っているわけではなく、この問題に詳しいとも思いませんが、ここに展示されているアーティストについての情報は持っていませんし、この展覧会の文脈でこの問題が議論されたことはありません。この問題は、キュレーターやほかの関係者との議論の中でも特に浮上していません。このトピックに興味があるなら、スタニス・V・イグナトヴィッチ・ヴィトクの作品を探求してみることをお勧めします。彼はここでは紹介していないアーティストですが、彼の作品はシュルレアリスムの視点からも解釈されることがあります。彼は多くの物質を使用して、自身の知覚や芸術表現に影響を与えるアーティストであり、これは非常に広く知られている人気のあるトピックです。彼は特定の作品を描く際に使用した物質を詳細に記録しており、その結果を分析することで、どのように自分の脳や芸術表現がそれらの物質に影響されるかを考察していました。興味があれば、彼の名前をお教えします。このトピックはよく議論され、非常に良く研究されているため、ここでも興味深いかもしれません。彼の大規模な展覧会が2年前に開催されました。彼はポーランドで非常に有名なアーティストであり、ポーランドのアバンギャルドにとって非常に重要な存在です。今日の展覧会では彼の作品を展示していませんが、シュルレアリスム芸術を理解するための非常に広い角度から見ると、彼の作品もそのように理解されることがあります。

Q6:博物館と選択についてですが、あなた方キュレーターは、今回のアーティストや作品を選び、展覧会のコンセプトを作成しました。つまり、何かをフィルタリングしたと言えます。したがって、今回展示できなかった未フィルタリングの作品もあるはずですし、シュルレアリズムとして定義できなかった作品もあるでしょう。この展覧会の選定はどのように行われたのか、また、フィルタリングはどのように行われたのか、選定は難しかったのかどうかを教えてください。

A6: キュレーターを代表してお話しすることができるのですが、この選定は非常に難しかったと言えます。展示のキュレーターであるキュレーターのハナ・ドロスク氏(Hanna Doroszuk)は、ポーランドにおけるシュルレアリスムを展示するという困難な任務に直面していました。このテーマは、特定のアーティストの出版物や展示で以前にも議論されてきましたが、ポーランドの芸術におけるシュルレアリスム的傾向をこれほど複雑な形で示す初の展覧会です。

私たちにとっては非常に大きな展覧会であり、最大の展示スペースで行われていますが、ポーランド芸術のシュルレアリスムのすべての側面を示すには十分なスペースではありません。1920年代から現在までの作品を展示するために、非常に長い期間が必要です。そのため、さまざまな異なる側面を提示する方法で選定を行いました。シュルレアリスムとポーランドの芸術に対する広い理解を示すことが重要でしたので、様々な技法を披露すること、特にキュレーターが非常に多くの技法や実験に重点を置いていたことがわかります。アーティストたちがシュルレアリストのアイデアを探求した多様な方法を示すためにも、コラージュやアッサンブラージュなどの複数の形を見せることができました。

また、さまざまな時代を表示し、シュルレアリスムのインスピレーションが第二次世界大戦前にどのように見られたのか、そして戦時中や戦後にポーランドの芸術環境がパリにおけるシュルレアリスム運動の変化にどう対応したのかを示すことも重要でした。ここで紹介できる作品はもっとあるかもしれませんが、選定は非常に困難でした。展示の主なアイデアは、これを非常に複雑で持続的な概念として示すことです。

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