ウクライナの首都キエフにある、中東欧の中でもかなり大きい私営の現代アートセンターの1つ、ピンチュクアートセンター(PinchukArtCentre)。今回はここでキュレーターをされています、クセニア・マリック(Ksenia Malykh)氏を招聘させていただいき、「戦時下におけるウクライナの現代アート」(Ukrainian art in wartime)をテーマにお話をいただくことにしました。
Malykh氏は、学芸員、美術史家、キュレーターとして活動しており、第58回のベネチアビエンナーレのウクライナ館のキュレーションマネージャーもしています。アートセンターで働く傍ら、ウクライナ内外で出版物の発行などにも携わっています。
現在の戦争におけるウクライナ情勢により、社会情勢のみならず、命の危険が隣り合わせにある中、美術館の運営に従事する現地のプロフェッショナルの方にお話を聞かせていただくことにとても感謝しています。それでは以下、Malykh氏の講義を短くまとめたアーカイブになります。
ウクライナの芸術に興味を持っていただきありがとうございます。私はPinchukArtCentre of research platformで働いています。ここは9年間、ウクライナの現代美術のアーカイブを作成している部署です。私は美術史家であり研究者です。普段はコミュニケーションに携わったり、教育、心理学の講義もしています。というのも、ウクライナでは現在、感情や自身と向き合うコンテンポラリーアートへの関心が高まっているからです。特に人々が、芸術のプロセスにとても興味を持っています。というのも、今、非常に速いスピードで、劇的な歴史的出来事が起こっています。ですから、芸術家たちは、このような大災害のような状況が起こるたびに、より鋭い感情を持っています。ですので、私たちはここにアーティストの作品を集め、いつか私たちが言いたいことや、彼らがコミュニケーションツールとして使っているものについて話すことができるようにしたいと思っています。
それでは早速、作家と彼らの作品の紹介をしていきます。
ウクライナの著名なアーティストの一人である、NIKITA KADAN から始めましょう。彼は現在41歳で、戦争に纏わる素材を使った作品を多く制作しています。作品名の“Gazelka”は、ソビエトの車の名前を模しています。
ロシアとウクライナの戦争が2014年に始まり、彼は2015年に戦地に赴き、そこで戦争の物的証拠を見つけに行きました。そこで彼は壊れた車を見つけ、その金属部品を取り外し、それを旗にしたのです。彼は、人間ではないすべての犠牲者の、あらゆるシーンの象徴である印として旗を作ろうとしたのです。これは、世界中のあらゆる物や建物、自然、破壊されたものを象徴する旗のようなものです。
アートセンターでは、旗の他バージョンも見ることができます。これは、事象の証拠として、世界で起こっている恐怖の出来事について叫ぶコミュニケーションのシンボルになっています。
そしてもう一つの作品は、2017年に制作された “Victory (White Shelf) “と呼ばれる作品です。この作品では、ウクライナのアヴァンギャルドに触れていて、彼がどのように歴史や過去を扱い、どのようにウクライナの歴史と美術史家を扱うかというアプローチを如実に示しています。
Vasyl Yermilovの1925年の作品、“Monument of Three revolutions”です。彼はハルキウ出身の未来派アバンギャルド・アーティストで、歴史の3つの革命に捧げた記念碑の模型のようなもの です。彼はこの模型を作り、それぞれのモニュメントをハルキウの中心地に作ることを計画していた。
現在、ハルキウは毎晩絶え間ない砲撃で、電気も何もないような状態になっています。その理由からニキータ・カダンはこの作品に対し、「彼にとってこの作品は、未来派の夢、国境も戦争も犠牲者もない完璧なユートピア世界を夢見た、アバンギャルド・アーティストの夢の象徴のようなものだ」、言及しています。
それにモニュメントの模型に対し、2017年にニキータはベニヤ板のような安価な素材でつくる、「未来はアバンギャルドの夢」のオマージュ作品を発表したました。
また、この簡素な立体に彼は一つの物体を置いています。これはドネスク戦争時の証拠とも呼べる、火災の熱によって溶けたガラスコップです。この、進行中の戦争のダイアログ的証拠のようなものを、Vasyl Yermilovが見たアバンギャルドな未来の夢の上に置いたということです。また白色の立体は、色とイデオロギーを重ね合わせ、それを取り去ろうとしているようです。
このような対話が作家と未来の答えで、実際に起こったことなのです。
ですからこれは、この彫刻からイデオロギーを削除し、その上にこのエビデンスをかぶせるというジェスチャーでもあります。
次はニキータ・カダンの戦争が始まったばかりの頃につくられた作品です。それは “Hold the Thought, Where the Story Was Interrupted “というタイトルです。彼は、戦争が始まったこの時、ウクライナ東部に位置する博物館の一部の断片を回収しました。その博物館の壁などの断片を展示会場の中に運び入れました。この建物は第二次世界大戦時にソビエトの時に作られた建築の一部で、つまり心地よくないわけです。その荒れ果てた中で心地よく見ることができるのは鹿くらいだけです。鹿を人と例え、私たちが遠くを見ているような様子になります。
こちらのアーティスト、Mykola Ridnyiは、戦争の始まった当初にこの作品を制作しました。彼のアプローチは、破壊されたインフラを写真に撮ることであり、その後、人間の視覚的に「死角」を見せる作品を創りました。つまり、これはある意味、世界やヨーロッパ、もしくは西側のウクライナからでは、この東側で起こっているこの惨劇を見ることができない、という比喩なのです。
作家はヨーロッパの様々な国で展示をしていますが、例えば、破壊された住宅ビルの写真が印刷された大きなバナーが見えますが、これはこのビルと同じ大きさで、ウクライナの現実への小さな窓のようなものが、この真っ黒な背景の中にあります。非常にシンプルで、アーティストは自分たちの立場を理解し伝えることができます。
次のアーティスト、Lesia Khomenkoの、2014年に描かれた作品です。ウクライナの首都キエフの中心部で、当時の大統領であるViktor Janukovyčと戦おうとする多くの人々が集まっていました。この革命( 尊厳の革命=マイダン革命 )は、欧州統合に対してのもので、それが中止されたことに人々は非常に憤慨しました。なぜなら、我々は自国をロシアではなくヨーロッパ側に導きたかったからです。そのため、私たちは平和的な政治活動を行おうとする多くの人々を集めましたが、政府はこの革命の最中、圧力と暴力で制圧したのでした。このドローイングで見ることができる参加者の何人もが、このイベント中に殺害されました。例えば、写真にある髭の男はスナイパーよって射殺されたのでした。アーティストのホメンコは、このような歴史的出来事の中で、アーティストとして何が最も効果的な方法なのかと試行錯誤しました。そこで彼女は、抗議活動に参加する人々の肖像画を描き、その上にソビエト時代の書類作成時によく使われたカーボン紙を貼りコピーし、ポートレートが完成するたびに、彼女はそれを人に渡していきました。これは証拠書類や写真よりもパワフルなイメージを創り出しました。
そして、本格的な侵攻が始まった、2022年にLesia Khomenkoが何をしたのかを見てみましょう。彼女はちょうどキエフ国立芸術建築アカデミーを卒業しましたが、この学校はソビエト時代からの社会リアリズム大学でした。多少、現代風に発展させていますが、この写実的な肖像画を見れば一目瞭然で、ソビエト社会主義の流派の特徴を垣間見ることができます。
彼女は侵攻後すぐに、ボランティア活動中の作家の夫、友人、知り合いのITエンジニア、教授など
の一般人(その当時は)を5メートルの大きさで描きました。これらは2022年ベネチアビエンナーレの展示風景で、「自由を守るためのウクライナ」と名付けられたもので、ソビエト社会主義時代の巨大で、労働者など英雄にしたポートレートを意識したのです。侵攻を正当化するための「ウクライナ国民を自由へ解放する」という嘘をあえて逆手にとった外交的手法で表現されています。彼女の夫は未だ軍に従事しており、彼女はアメリカに亡命して制作を続けています。そこで作品を売り家族をサポートし、個々ができる責任を果たしています。
こちらは Vova Vorotniov のドキュメントで、ロシアが情報戦を仕掛け、ウクライナとの分断を煽っていた時、彼はアーティストらしい態度で、ウクライナの西から東へ、この石炭を持ち歩いて移動し様々な地域で、ウクライナ中の情報をインスタグラムで発信しましました。
私たちにある特別な場所や、コミットされている場所、そうでない場所など、歩くパフォーマンスとも言えるものでした。
Yarema Malashchuk and Roman Khimeiは、ビデオアートのメディアで活躍しています。これは2つのチャンネルが同時に動く映像で、ウクライナでの戦時下におけるレイブパーティーの映像で、パーティー時と翌朝の倦怠感ある状況が映されています。パーティーの方は、そのシチュエーションでどう振る舞うか、もしくはこのような出来事から現実逃避できる空間でもあります。生涯最後になるかもしれないパーティーでの人の心理などが描写されています。
Vlada Ralkoの絵画は、日記的手法でペインティングをします。このパソコンを見ている女性の状況は、全てのウクライナ人が共感できるものでしょう。というのも、私たちは現在の情勢についてかなり多くの時間をニュースなどのメディア費やしているからです。現状をメディアを通して、常に迅速に対応できるようにする。それが同時に疲労や不安なども引き起こしているのです。
この暴力についての「戦争日記」は、ブチャを一例にした、戦争内でのロシア兵による性的暴行についての恐怖を描いています。彼女は、それがどのように起こりうるのかを理解、考えようとして描いたようです。そして、この恐怖の中で生きていくために、それに対処するために、同時に逃避しながらも何かに反映させる方法のようなものでした。また、実際に起こっているこの惨劇を可視化させる機会ともとれるでしょう。
ロケット、イルカ、鳥や骸骨など、「死」について皮肉に皮肉を重ねて表現しています。なぜなら、「戦争をやめて平和に暮らそう」などの戯言は実際には起きることはなく、相手国には通じることはないからです。彼らは戦争を続け、別の国を占領するでしょう。これが、私たちウクライナ人に実際に身体的、物理的に起きていて人生を豹変させたことなのです。
こちらは先ほども挙げた、「The Revolution of Dignity」 (尊厳の革命=マイダン革命)と時の精神状態を日記として描いたものです。彼女は常に気持ちや心に触れることがあると、A4程のサイズの紙にドローイングをし、それはまるでニュースのような感じになっています。
OPEN GROUP は、現在はメンバーがウクライナ、アメリカ、ベルリンに行ってしまいました が、この作品では戦争による亡命者がカラオケで戦時下の状況をシェアして騒げる場、という仮想の元、実際に無くなってしまった家をイメージして造られています。
実際に心理学者などと協力し、その被害者から聞き取りをし、全ての木や壁などディテールが記憶とドローイングの証言内容のみによって作られています。
オープングループによる「無題」の作品では、2015年の戦争の始まり時期に創られました。
紛争や戦争では死者の数だけが公表されます。しかし、それ以上にあまり詳細やリアリティーはない。これに対してオープングループは失くなっていく人の名前、場所、時間をプリンターから印刷して出力していく方法をとりました。こちらはベネチアビエンナーレでも紹介されました。
次のパワフルな作品もベネチアビエンナーレでも紹介された作品で、戦争に兵士として行ってしまった家族についてです。写真左は、何件もの家族の家の玄関にカメラを設置させてもらい、戦争に行った息子、家を離れざるえなかった娘などを待つ家族のリアルタイムドキュメントをライブするものでした。写真右は、家族の食卓の写真です。
このポイントは、オープングループの三人の作家は、3ヶ月のベネチアビエンナーレの展示期間、一人1ヶ月の展示会期中は水以外何も食べず 椅子に座り、映像を見つめるということをコンセプトとしたのです。それはあたかも、心配する家族の状況を少しでも共有するかのようです。
先ほども紹介したアーティスト、Lesia Khomenkoの作品に戻ります。
これらは、戦争により、日々のルーティーンが変化せざる得なくなったことをテーマにしています。日常の、例えば部屋を掃除できること、家族と時間を共にすることがどれだけ有難く裕福なことかということを表しています。この絵は磨りガラスの額に飾られることで、絵のディテールは見えない状態です。諸行無常の日々とそのルーティーンと絵画に対しての提示方法についての一つのアプローチとしています。彼女は現在アメリカに、家族は西ヨーロッパへ亡命し、夫は前線で戦っています。彼らにとっては、なんてことない日常の、共に食事することさえ難しくなってしまったのです。
次は、Oleksiy Saiによる、日常の変貌について表現された作品です。彼はかつて広告代理店の所長をしていました。彼は何年もの間、エクセル・プログラムで絵を描いていて、ある意味での彼のヒーロー(未だ見えない何か)を描こうしていました。
しかし、エクセルソフトでつくられたカラフルな絵は戦争が始まり作風が豹変しました。
あたかも、ミサイルや爆弾が投下されたウクライナ東部の地図かのような絵は、何千もの手作業によるドリルの穴によって破壊されています。
こういった状況の中、 Kateryna Aliinyk, のような若いアーティストも登場しています。ロシアの侵攻により、ルガンスク州の家も故郷も全てを失くした彼女は、絵を描くことで、昔の記憶、例えば家で庭の手入れをしていたことなどをモチーフに「占領される前の記憶を想像すること」をテーマとして絵を描いています。
土、根っこ、土地、野菜などを通して、ロケットや骸骨など戦争の残骸、その混ざり合った状況を見せています。もちろんこれは環境的な問題も示唆しています。
戦争を記録することについて制作するYana Kononovaについてです。彼女は写真家として、また、ジャーナリストとしても活動しています。写真作品は、どのように記録のドキュメントを意味を持ってアート作品にシフトさせるかが重要であり、醍醐味でもあります。
私たちはウクライナの北東地方のハルキウにて、ロシアが占領後、そしてウクライナ軍隊がここを解放した後、森の中で大量の死体を発掘しました。ジャーナリストがその死体や体の一部を写真に収める中、彼女は直接的ではない方法で戦争について語る方法を模索しました。この写真では、死体や墓は映されておらず、この活動に携わる人達が疲れや苦しみの日々の中、タバコを吸ったり休憩する休憩の一瞬が切りとり、人々や森がいかに疲労困憊であるかという写真作品です。ドキュメンタリーをトランスフォームさせるアート的な素晴しく心苦しい表現になっています。
Zhanna Kadyrovaの作品では、ウクライナに降り注いだロケット弾の破片をパイプオルガンの上部に取り付けた。ロシアは現在も楽器などを軍国プロパガンダに使用することもあり、それを逆にアイロニカルに使用したものです。
次もカディーロバーの作品です。写真にあるのは、石でできたウクライナの代表的なパンです。彼女とパートナーは侵攻が始まって1ヶ月程、恐怖と心配の中生きていて、ウクライナ西部の山の中へ逃げ、水も電気もない小さな家に避難していました。彼女は作家として何もできないジレンマに失望していて、どうにか芸術家として戦争に対処する道を探そうとしていました。彼女はある村の小さな店に行き、人のポートレートを描いたりインタビューをするなど色々なアイデアも考えていたましたが、なんと近くの川でウクライナのパンにそっくりな石にインスピレーションを感じました。そこから彼女の制作が始まり、作品購入された100%の売上、20万ドルもウクライナ軍に寄付したのです。しかも、寄付先のシステムを構築し、政府や機関に寄付するのではなく、ウクライナ軍として戦かっている、アーティスト出身の兵隊に直接支援したのです。
彼女がいかに作家として戦時下でも自身の立ち位置を見つけることができ、また社会に貢献できるかという素晴らしい一例かと思います。
Yevhen Samborsky は、SNSなどでよく見かける言葉や格言的なワード使用します。「Everything was divided before and after」や「If there will be bombing,we will be free and then bombing again」など、むしろユーモアあるジョークともとれてしまうほど毎日実際に戦争現場で起こる惨劇とSNSで流れてくる言葉を、絵画というフォーマットに刻したのでした。
以上、ウクライナのアーティストが戦時下によって負った傷、感情、そして作家としての責任からの制作活動と作品などを紹介してきました。
まだまだ語り尽くせない程の作家と作品がありますが、とりあえずは以上になります。
ありがとうございました。
Q1:とても濃密で心苦しい、しかし重要なお話ありがとうございました。
まず基本的な戦争の時期の情報としてお聞きしたいのですが、2014年と2024年の二つの年が“戦争が始まった”と理解していいのでしょうか。
多くの日本のメディアでは、この2022年から正式に戦争が始まると考えていると思うが、あなた方の多くは、2014年からすでに戦争が始まっていると言っていますよね?
A1:2014年に戦争が始まりました。始まった時はまずは東側でした。その時は市民はボランティアに行ったりしていて街にサイレンが鳴ることや規制はなかったのです。しかし22年からは11時以降は外へは出れず、男性は徴兵のため国外へ出られることはなくなり、日々サイレンが鳴っています。ですので、今回2014年の戦争が始まった頃と、22年の完全な深刻化の時の作家と作品を紹介しました。この2ポイントがウクライナのアートの歴史のピリオドとなっています。2014年からの戦争を、ロシア側は内戦、内紛と位置づけ、侵攻を否定していました。世界も国々もロシアと揉めることはしたくないため、エスカレートしないように特にウクライナを支援したり助けたりすることはなく、見ないようにしていたのです。
ロシアはチェチェン共和国の時もアフガニスタンの時も同じやり方です。ロシア近くに住む相手国の市民にロシアパスポートを与え、それから、私たちの国民が危険にさらされていると言い、私たちが彼らを救いに行くと言い、それから、彼らは土地を奪おうとする。彼ら帝国主義的のスタイルは毎回同じで、「あなた達国民を守るためだけにここにいる」と言うお決まりの方法で侵略するのです。
Q2:作家が立ち位置を見つけ、こんな状況でも制作をして母国をサポートする。しかし、アーティストは戦争や政治のことをアートにすることにより、精神的にも身体的にもおかしくはならないのですか?
A2:そうですね、私たち全員、本当に疲れきっています。作家の道具であるアートは、現実や何が起きているのかを理解する必要であるし、それを消化することには相当なエネルギーが必要です。しかし戦い続けなければ、あなたの母国は奪われてしまいます。アーティストも戦わなければならず、周りの環境や状況に左右されます。
現在はキエフでは芸術関係の展示がとても価値を持ってきています。人々は感情を表現すること感じること、そして自分達の文化やアイデンティティーを再認識する、ということなどから入場者数も増えているのです。人々はよりウクライナや自身の歴史に興味を持ち、知的欲求が出てきています。例えば、現在前代未聞の、ウクライナの歴史や文学などを中心とした紙媒体の本が売れています。
Q3:聞きにく変な質問ですが、ウクライナに反対し、要はロシア側をサポートするようなアート作品や作家などはいるのでしょうか。
A3:いません。シンプルに彼らは私たちを殺しにきています。
Q4:俗にいう“ポリティカルアート”とは縁のない作家も沢山いたかと思います。彼らはこの戦争以降、表現内容が変化したりした、ということでしょうか。
A4:そうですね。突然敵の軍人が家に押しかけてくるような状況です。その現実を回避することができない現在、表現や心のフレームにそれが入らないことがあり得ないのです。
Q5:ゼレンスキー大統領やウクライナメディアに対しての反対や避難する声、表現などはどうでしょうか。
A5:もちろんあります。私たちは政府に対してとてもクリティカルで、それはあっていいのです。例えば現在も残るソビエト時代のモニュメントに対してなど、研究者やアーティストなど、それらの力や勢力に反対する活動もあります。私たちは常に満足はいかないのです。
Q6:ピンチュクアートセンター(PinchukArtCentre)についてお伺いします。2014年の前と後で、運営や展示内容など、様々な変化があったと思いますが、そのあたりについて教えてください。
A6:2022年の2月の侵攻時から夏まではアートセンターを閉鎖していましたが今は開館しています。閉鎖期間はメンバーは他の欧州の国で展示のために活動をしていましたが、今はメンバーの多くが帰って来れたので、現在は年間4回の展示、一つが国際展、3つが国内作家を中心に展示などを精力的に開催しています。
若手作家を中心としたFuture Generation Art PrizeやPinchukArtCentre Prizeなどの公募形式と賞とその展示も行っています。これは賞金が多額なだけではメディア、評論家のサポートも入る大きな登竜門として注目されています。
Q7:現在戦時下のウクライナでは男性は調整制度があるのですよね?
A7:はい、25~60歳以下の男性は軍に従事することを求められています。女性は欧州を中心に亡命していますが、なるべくこのアートセンターで仕事を作り、美術館の仕事に従事してもらえるよう新しい仕事をクリエイトしているところです。
現在はほとんどのウクライナ人の家族や友人の誰かは戦争により亡くなったりしているので、人権についてはとても繊細で難しい問題が山積みですが、私たちはできることを一生懸命やるだけだと思っています。
Q8:来年についての活動はどんな感じですか?
A8:来年はなるべく通常時と言える展示や経営状況にしたいと思っています。
一つポイントは、キーウのオーディエンスが変化しているということです。東側などの先頭地域の人たちがよりキーウに集まってきたり、キーウにいた人たちが他の国に亡命したりなどで、オーディエンスの種類が変わってきています。そこに臨機応変に対応していきたいと思います。ヤングスター(オシャレな若者)達をターゲットにもしています。
Q9:美術大学についてどういう感じか知っていることを教えてください。
A9:国内トップでもあるハルキウ国立芸術デザインアカデミーは現在閉鎖されています。キーウの美術大学は運営されていますが、パンデミックとロシア侵攻以降はまともに教育が受けにくく、レベルが下がっていると言わざるえません。他の大学でも近いことが言え、オンラインでも授業が行われますが、やはりオンラインによる不具合は否めません。
美術教育の衰退を少しでも緩和できるよう、私たちアートセンターでも様々なプログラムやワークショップなどを作り、ゲストなどを招待して美術振興に努めています。
Q10:今回見せてくれた作品の話です。作品自体が現在の状況への反抗運動でありながら、しかしビジュアル的には美しく、それを保つ意識などについてコメントをもらえますか。
A10:美学と意味、それらを何から参照しているかは重要です。今回はあまり触れませんでしたが、ウクライナのモダニズム、ソビエトのイデオロギー、コンセプトの共通点など、ウクライナの芸術の歴史には厚みと質がしっかりと反映されていることが言えると思います。