「ボスニア・ヘルツェゴビナのアートシーン」~ 中欧・東欧の芸術 ~

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 今回は、ボスニア・ヘルツェゴビナでアートギャラリーを運営するイシドラ・ブランコヴィッチ(Isidora Branković)氏を招き、「ボスニア・ヘルツェゴビナとのアートシーンとヴァゴンギャラリー」(Bosnian-Herzegovinian art scene and Gallery Vagon)というタイトルで、お話を伺いたいと思います。

ブランコヴィッチ氏は、バニャルカ美術アカデミーを卒業後、VAGON GALLERY を立ち上げて、学生や若手アーティストの制作支援をしており、同時に自身のアーティスト、パフォーマー活動もしています。それではよろしくお願いします。

 こんにちは。私の名前はイシドラ・ブランコヴィッチ(Isidora Branković)です。私はボスニア・ヘルツェゴビナのバニャ・ルカにあるVAGON GALLERYのギャラリストであり、アーティストとしても活動しています。今日は、皆さんにボスニア・ヘルツェゴビナのアートシーンについてお話できることを大変光栄に思います。ボスニアの芸術家がどのようにして様々な境界を超え、現在の若いアーティストたちにどのような活動をしているかなど、ギャラリーの話、美術アカデミーについても話、そして現代アーティストたちについて話していこうと思います。

 まずは、VAGON GALLERYについて紹介し、私と、ここの背景を少しでも理解していただけたらと思います。

ヴァゴンギャラリーは、アーティストが制作や展示の実践に加えて、必要な教育や情報を受けられるため、現代アートスペースの必要性から生まれました。

美術アカデミーでは、多くのアーティストが卒業後に表現活動が消滅してしまうこと往々にしてあります。芸術に対する体系的な支援や、個別の支援の必要性があるのは明らかです。そのようなことから、私たちのギャラリーは、アーティストの権利と創作のためのより良い条件や環境を求めて戦う場所となりました。

それではまずは紹介映像をご覧ください。

ボスニア・ヘルツェゴビナの公用語は、ボスニア語、クロアチア語、セルビア語の3つになりますが、英語でコンセプトや活動内容を説明できることは本当に重要です。また、ドイツ語ができることも英語と同じくらい重要です。なぜなら、私たちの国ではマーケットは小さく、活動機会も少なく、国際的にアート業界でプロフェッショナルな形で働くことができないからです。

私が現在いるのはスルプスカ共和国です。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とは地理的には非常に近いですが、政治的には距離がまだまだあります。ここでは、異なる民族、異なる政治体制、そして異なる法規制の中で暮らしています。 

私たちの国の状況はとても複雑で、ローマ帝国、オスマン帝国、オーストリア・ハンガリー帝国

やロシア帝国など、常に様々な帝国や王族の軍事的圧力を強いられてきました。

多民族が一つの地域に集まったり散らばったりを繰り返した歴史を持ち、第一次対戦後はユーゴスラビアの構成国の一つとなりました。1946年にボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国が誕生しまし、その後1995年、現在のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の連合国家が設立されました。 

 

 ボスニア・ヘルツェゴビナにはまだまだ全くと言っていいほど、アーティストのためのスペースはおろか、ギャラリースペースやアートマーケット、文化に対する体系的な支援が足りていません。そして近年の地政学的問題による大学レベルの教育への困難もあります。

ボスニア・ヘルツェゴビナの人口は300万から400万人で、 ボスニア・ヘルツェゴビナは長年にわたり、セルビア、クロアチア、マケドニアの国々もらの学生にとって、大学の中心地でした。しかし現在、この周辺は非常に困難な政治状況にあり、人々は仕事もお金も普通の生活もできにくくなってしまいました。そのため、大学には非常に少数の学生しかいません。今回、アートシーンを語るにおいて、まずは4つの芸術大学についてお話ししていこうと思います。 

 サラエヴォ美術アカデミー(Academy of Fine Arts Sarajevo)は、1972年にボスニア・ヘルツェゴビナの美術家たちによって設立されました。アカデミーの創設者であり、最初の教授たちであったMuhamed Karamehmedovićと、アカデミックな画家であるAlija Kučukalić、彫刻家のMersad BerberやZdenko Grgić、画家 Boro Aleksićなどに代表される重要な作家たちが代表に挙げられます。 

トレビニェ美術アカデミー(Academy of Fine Arts in Trebinje)は、1995年にサラエヴォの美術アカデミーの一部門として設立されました。当初は絵画学科のみがありましたが、2年後にはグラフィックデザイン学科も設立されました。これまでにアカデミーには27期の学生が入学し、297人の学生が無事に卒業しました。絵画、グラフィックデザイン、彫刻、版画学科などがあります。トレビニェの文化センターの一角として位置しており、音楽イベント、演劇、映画などの中心地として素晴らしいところです。

こちらはシロキ・ブリイェグの美術アカデミー(Academy of Fine Arts in Široki Brijeg)です。ここは、モスタル大学の美術アカデミーで、フランシスコ会の神学にそのルーツを持っていて、アカデミー設立のアイデアを推進したのは、フランシスコ会ギャラリーの主要な人物たちでした。

 

バニャ・ルカ芸術アカデミー大学(Academy of Arts University of Banja Luka)です。 

私はそのアカデミーでインターメディア・アートを専攻して卒業しました。

バニャ・ルカのアートアカデミーには、3つの研究サイクルがあります。ドラマアカデミー、美術アカデミー、音楽アカデミーです。私は美術アカデミーの設立について詳しくお話しします。このアカデミーは1999年に設立されました。その当時、それは革命的な動きで、旧軍事パークに位置していました。現在ののアート学部の教師を育てた教授たちは、旧ユーゴスラビアの教育学部と著名な芸術家たちでした。アートアカデミーの設立案は、1999年にスルプスカ共和国国民議会によって行われ、芸術分野で訓練を受けた人材の必要性、若いアーティストや才能ある人々が芸術分野で知識と技術を習得できる施設の設立計画が承認されました。つまり、アーティストや教授たちの願望と熱意が相まって、ドラマ、音楽、美術の分野で運営される高等教育機関の設立に繋がったのです。美術アカデミーには、絵画、グラフィックデザイン、版画、アニメーション、インターメディア・アートの学科があります。

ここは私たちの絵画部門です。この公園は元戦争時代の軍事施設でした。

これは絵画スタジオです。

グラフィックデザインの学部です。

アニメーション学部です。

ニューメディアまたはインターメディアアートの学部です。 

バニャ・ルカ大学芸術アカデミーの創設者の一人であり、美術部門を担当しているのは、教授でありコンセプチュアルアーティストでもあるVeso Soviljです。彼はその仕事と献身的な姿勢を通じて、現在活躍する数多くのアーティストとなった生徒を育てました。1980年代の旧ユーゴスラビアのアートシーンで最も才能のある人物の一人であり、バルカン戦争にもかかわらずボスニアに留まることを選んだソヴィリは、今日のボスニアにおけるアーティストとアートの状況や立場について長い間考えられてきました。アート、アーティスト、政治国家、社会の関係、私たちの今日とは何かという問題、そして孤立というテーマです。そのため、彼はデッサン、絵画、版画、ビデオ主題の彫刻からインスタレーション、パフォーマンス、環境作品まで、あらゆるメディアを使用しており、私もアカデミーでの彼の最後の生徒でした。

これは大きなネズミ捕りのような彼の作品で、現代美術館に所蔵されています。

そして、インターメディア科の教授でもあるアーティスト、Mladen Miljanovićです。彼は1981年にユーゴスラビアのゼニツァで生まれ、中等学校後、予備役将校学校に入学し、そこで軍曹の階級を得ました。軍曹として、彼は兵役中に30人の兵士を訓練した程です。彼は2002年にバニャ・ルカの芸術アカデミーに入学し、そこで絵画の学士号と修士号を取得しました。2023年には、ベオグラード芸術大学でニューメディアの博士論文を審査されました。教育者としての芸術活動の傍ら、彼はバニャ・ルカ大学芸術アカデミーでニューメディアアートを教える教授として働いています。彼は芸術活動を始めた当初、ニューミュージアムのキュレーターであるローラ・ホプトマンとマッシミリアーノ・ジョーニによる「Younger Than Jesus – Artist directory」の33歳未満の国際アーティストセレクションに含まれていました。第55回ヴェネツィア・ビエンナーレをはじめ、様々なグループ展に参加。ウィーンのMUMOK、ニューヨークのGallery MC、ブダペストのACBギャラリーなどで個展やプロジェクトを開催しています。

彼の概念的かつ積極的なアプローチは、しばしば周囲の環境や生活条件に疑問を投げかけます。彼の作品は、破壊され、貧困に陥り、民族的および領土的に分断され、外部から孤立した国で、戦争中およびその余波の中で育った経験に影響を受けています。墓石工房での仕事経験はアーティストとしても影響を与えています。戦争の影響と軍学校で得た知識は、彼の芸術の基本的な基準を形成しています。画家であった彼は、現在、パフォーマンスと概念的な戦略を組み合わせて、多元的で社会に関与し、破壊的な現代芸術のアプローチを行っています。芸術は目標ではなく、むしろ彼のアプローチのツールです。

スクリーンには彼の最新の展覧会と芸術プロジェクト「REALTIME MONUMENT」の作品の一部が映し出されています。「Realtime Monument」には、一方では死の表現のメディア配信を主題とし、他方では石に刻まれたオブジェの形での新しいメディアデバイスの死後の表現形式を主題とする研究が含まれています。死の文脈を伝えるメディア表現の研究の焦点は、2020年から現在の2021年までの期間です。この2年間は、COVID-19パンデミックにより、ほぼすべてのメディアで死が中心的なトピックとなった期間です。彼は、この死の役割とCOVID-19パンデミックを、第二次世界大戦後の最も重要なメディアおよびグローバルイベントとして意識的に位置付けています。芸術研究の対象が表現される作品と周囲の全体は、一時的なまたは永続的な死の記念、永遠の記憶または記念碑として最も頻繁に使用される素材で実行される新しいメディアデバイスの形式への文字通りの先見の組み合わせです。その意味で、この展覧会は死を伝えるメディア形式に疑問を投げかけると同時に、アーティストが「リアルタイム モニュメント」と呼ぶものの可能性に関する芸術的実験でもあります。

これは、トラウマ的な出来事がその発生の過程で形式化されることを意味します。定義上、むき出しの人生についてより多くを語る死の社会的、政治的、または文化的なメディア空間とは何でしょうか。そして、今日の人生は死の観念や恐怖にどれほど染み込んでいるのでしょうか。死は現代のコミュニケーション チャネルを通じてどのように表現され、メディアを通じてどのように伝達されるのでしょうか。これらの作品では、死が潜在的またはリソースの位置づけとして、どのような位置づけにあるかが疑問視されていますが、死が資本の世界においてどの程度商品になっているかについても疑問視されています。 

そして、これは「未来(2017)」と題された作品で、松葉杖で支えられた黒い花崗岩の刻まれたFUTUREという文字が見えます。未来の肖像画は暴力で作られています。それは墓石のように見え、宇宙の無限の星空に失われた、死んで忘れ去られた可能性のように見えます。

これは「私に嘘をつくつもりですか?」というタイトルのビデオ作品、映画作品です。作家Milanovičは、視聴者をボスニア・ヘルツェゴビナの残酷な現実の世界に引き込むためのコンセプトです。特別警察部隊がカフェを襲撃し、男性を逮捕して手錠をかけ、警察署に連行します。作戦全体はヘリコプターで上空から監視されていました。尋問が始まります。容疑者の人生の詳細が 26 の質問で明らかにされます。視聴者は、尋問室のマジックミラーの反対側に立っているかのような気分になります。容疑者の返答を聞くことができ、嘘発見器の結果を簡単に見ることができる、という映像です。

 これは、そのパフォーマンスと2番目のアートビデオ作品のドキュメンタリー写真です。容疑者はVeso Soviljです。彼は私たちの教授であり指導者で、Mladen Miljanovićが学生だったときの指導者です。ミリャノヴィッチは、ソヴィリの逮捕と尋問のシミュレーションを録画しました。映画をできるだけリアルにするために、ミリャノヴィッチはスルプスカ共和国特別警察のメンバーと協力することに決めました。アーティストの教授はこのプロジェクトについて知らされておらず、自分が映画の主役になることも知りませんでした。撮影が完了した後、ミリャノヴィッチは尋問室に入り、プロジェクトの目的は彼の指導者の芸術活動30周年を記念することであると説明しました。ミリャノヴィッチの説明を聞いて、ソヴィリは大興奮したようです。

ミリャノヴィッチは、ボスニア・ヘルツェゴビナのパビリオンと、第 55 回ヴェネツィア・ビエンナーレにおけるスルプスカ共和国の初の代表者であり、スルプスカ共和国現代美術館が制作したパビリオン「歓喜の園」は、2013 年のビエンナーレでベスト 10 パビリオンの 1 つに選ばれました。2014 年には、スルプスカ共和国を代表する初のアーティストとして、第 5 回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築家展で、作品「バイオメコノミック」を展示しました。また、スルプスカ共和国出身で米国で個展を開催した初のアーティストでもあります。シカゴ現代美術館での「イーブン モニュメント」展や、ニューヨークの AC インスティテュートでの「ライト インターバル」展など、ミリャノヴィッチは、創造する若いアーティストの作品に大きな影響を与えました。

Selma Selmanは、ボスニア・ヘルツェゴビナ出身で、ロマ(ジプシー)の血を引いています。2014年にバニャ・ルカ大学の絵画科で美術学士号を取得しました。2018年にはシラキュース大学を卒業し、トランスメディア、視覚芸術、舞台芸術の修士号を取得しました。

彼女の芸術作品における究極の目標は、女性の身体を保護し、抑圧された女性の集団的自己解放へのクロススケールのアプローチで攻撃することです。機能的で現代的な政治的抵抗を求めるセルマの探求は、さまざまな方向と規模からの抑圧の個人的な経験から生まれています。

セルマは、世界中で追放と貧困に直面したロマの少女たちに力を与えることを目的とした組織「Get The Heck To School」の創設者でもあります。セルマ セルマは現在アムステルダムに居住し、活動しています。

Mila Panic は、ベルリンを拠点とするアーティスト兼スタンドアップコメディアンです、彼女は個人的なものから非常に詩的なものまで多岐にわたるテーマ性を持っています。写真やスタンダップコメディアンまでの視覚的および談話的な要素がサイクルを生み出し、そのプロセス自体の結果を垣間見ることで、移住のさまざまな継承を相互に解釈し、文書化されていないものを明らかにし、壁の絵を形作るナールのさまざまな文化の物語を明らかにします。Zvono賞を受賞したことによって注目されました。

Znovo Awardは、独立した専門家の公に発表されたコンペティションに基づいて毎年授与される章で、ボスニア・ヘルツェゴビナの若手作家にとって最も重要なアワードとも言えます。また、アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヘルツェゴビナ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア、 クロアチア、コソボ、ハンガリー、スロバキア、北マケドニアを含む中央および東ヨーロッパの若手ビジュアルアーティストの登竜門とも呼ばれています。

受賞者は、ニューヨーク2ヶ月のレジデンシープログラムも用意されています。

賞の名前は、1982年に結成されボスニアの英雄的な現代美術グループ「ZNOVO」にちなんで名付けられました 

彼らの芸術的取り組み、ボスニアでは全く新しい傾向を示してくれました。

Zvono賞Center for Contemporary Culture KRAKによって運営されています。KRAK現代アート文化センターは、現代美術の中心的場所として、文化的な学習協力と共存のためのプラットフォームとしての地位を確立しています。 

Saša Tatić もZvon賞にノミネートされた有望なアーティストであり、多くの有能な作家を輩出しているアワードであることがわかります。ボスニア・ヘルツェゴビナ・の若いアーティストにとって、世界とつながり、成長する機会を生み出すこのセンターと賞は非常に重要です。この活動が、現在では皆無とも言えるアートコレクター意識、アートギャラリーの創出に繋がっていくこと信じています。アーティストのためのスペースがほとんどない状況で、若手のアーティストが、ボスニア・ヘルツェゴビナとヘルツォを離れる中、スルプスカ共和国唯一の現代アートギャラリー、VAGON GALLERY が他国とのコラボレーションなどを通して、次世代に芸術文化をローカルに根付かせていきたいと思っています。

Borjana Mrdjaは、202020年にベオグラードの美術学部で絵画分野の博士号を取得した後、バニャ・ルカ芸術アカデミー絵画学科で教授を務めています。ウィーンのオープンシステムギャラリーとVBKÖ(2012年)での一連の講義「Living archive – Bring in take out」や、ドレスデンのドイツ衛生博物館での「The hasitating body forum」に参加しており、ZVONO賞(2012年)で最優秀アーティスト4名の1人にも選ばれました。 

Mnemonic Matri の白いシャツは家族の遺産で、そのアイテムを作品化していきます。

沈黙したままのシャツが身体と空間を失った証人です。時間と変化、記号的日常性、その裏にある消費者消費主義的メッセージが込められています。 

Miodrag Manojlović は美術アカデミーのインターメディア科の新しい教授です。彼はバニャ・ルカ芸術アカデミーの絵画科で卒業し、ベオグラード芸術大学の舞台デザインの修士号を取得しました。教授は、ボスニア・ヘルツェゴビナの文化の非常に困難な政治的状況に対して芸術的インフラの発展の可能性や希望のため熱意を持って戦っています。

以上で終わりにしたいと思います、ありがとうございました。 

Q1:

第二次世界大戦やユーゴスラビア時代と激動の時代が続いていました。そしてあなたと同じように若い20、30歳の若いアーティスト達は、その影響がありますか?

A1:

私が駆け出しの作家として制作のみをしていた頃は、政治のことはそんなに知ることも気にすることもありませんでしたが、私がヴァゴンギャラリーをオープンするにあたりそれは随分と変化しました。文化省や政府の状態によって、ギャラリーの運営は左右されます。政府の制度によって、それはギャラリーだけではなく、文化センター、劇場、学校、あらゆる文化イベントに関わってきます。ですので、私たちは自然と政治や情勢について知っていくことになっています。

Q2:

ヴァゴンギャラリーはスルプスカ共和国で唯一の現代アートギャラリー、ボスニア側には2つしかギャラリーがないと言っていました。これは私たち日本人にはかなり驚くべきことですが、、。

A2:

ギャラリーを作ることも難しいですが、それを維持することはさらに難しいのです。私たちはコラボレーションや若いアーティストの公募を行ってボスニア・ヘルツェゴビナのでアートシーンを創っているところです。私たちの活動は隣国のセルビア、マケドニア、スロベニア、クロアチアにすぐ知れ渡るほどですが、何より金銭的がありません。

Q3:

日本とは比べものにはなりませんが、サポートについてはある意味日本も同じような状況かと思っています。ただ、ボスニア・ヘルツェゴビナではもっとサポートされるべきでしょうし、アートコレクターや美術館によりアート作品が購入されるといいですね、

A3:

ボスニア・ヘルツェゴビナでは現在ははっきり言って無理です。

Q4:

ユーゴスラビア時代のアーティストの現在の60、70歳代の美術家はどのように作家としてサバイブして来たのですか?

A4:

教職員やアカデミーの教授としてでしょう。ボスニア・ヘルツェゴビナ人ではありませんが、Marina Abramović もそのアーティストの一人です。そして数十年前とは文化への素養が変わってきたと思います。私の祖父祖母の年代は、文化について積極的に学び、文化活動やイベントに頻繁に行っていたようです。そしてどの家の室内の壁にも絵がかかっていましたが、今はそうではありません。教育システムの問題点もあるでしょう。

Q5:

もしあなたがだったらどうしますか監督、学校のために何をしますか、何を変えますか、あるいは何かシステムを決めることができたら何をしますか、

A5:

私たちの教育制度は19世紀同じような形で、社会主義、資本主義と社会が変化しても教育システムは変わりません。しかし現代は様々なことを教わらなければいけない時代で、その中で芸術の素養を養う時間、それに対しての子供たちの集中を促す配慮がされていません。

Q6:

ギャラリー関係でアーティスト・イン・レジデンス・プログラムや、ギャラリー内でサロン的なディスカッションが沢山あると聞きました。

A6:はい、私たちはプログラムをオーガナイズをしていますので、ぜひ今後関わりを持って友好を深められたらと思います。ディスカッションは現在のマーケットの状況、作家として生計を立てる作戦、プロとして生きられるためのことなどを常に話し合っています。

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