前編では、最近何かと耳にすることが多い、アート思考に関してその実践者である柴田“shiba” 雄一郎さん(下記敬称略)に話を伺い、その本質を探っていった。今回の記事では、そんな柴田さんの人生に焦点をあて、いかにして、彼はアート思考の実践者となったのか。その奇想天外な人生のストーリーを紐解いていく。
ー改めて、先ほどはアート思考に関してメディア越しでは中々、語られない話をしていただきありがとうございました。続いて、お伺いしたいのが、どのようにして柴田さんがアート思考の実践者となったのかということなのですが 元々、柴田さんは、アートなどの表現活動に興味があったのですか。
柴田
そうですね。いまでもミュージシャンをやっているのですが、自分でトランペットの演奏をする他プログラミングや作曲などもしてますね。音楽に関しては、小学四年生のときの音楽の先生がセクハラ教師で、男子には、すごい厳しいくせに、女の子には、リコーダーを教えるときに後ろから近寄って髪の匂いを嗅ぐような、そんな音楽教師のせいで、私は音楽の時間をボイコットしていました。それのせいか(?)今でも譜面が読めないのですが、高校生のときに、親が転勤し、そこから音楽にはまりました。同時に高校生ながらアート集団を組織して、金沢美大でインスタレーションをしていたりしました。
ーへぇ、高校生が大学でインスタレーションするなんてすごいですね。親の転勤から音楽にはまったり、アート集団を組織したということですが、転勤が表現にのめり込むきっかけになったのですか。
柴田
実は、転勤を機に、いじめにあいまして、家庭内の不和もあり、当時いじめてきた人間や親や画一化した社会を恨んで、全員死んでしまえと思ってました。その無能な人間たちを馬鹿にしてやりたい気持ちがあったんです。それで、いじめられてきたときに、変なことをしていたら目立ち始め、気づいたら学校に馴染めない生徒やハズレ者が集まってきて30人くらいのアート集団を組織していました。アートや音楽で社会に反抗していたんですね。
当時は例えばTOTOの本物の洋式便器を持って、街中を練り歩くという作品を展開してました。壁に囲まれたパーソナル空間としてのトイレから壁をとって街のいろんな場所に置けば、世界の全てがトイレになるというコンセプトの”世界トイレ化計画”とか、、。それを見た金沢美大の生徒がデュシャンの「泉」を街に持ち出した高校生(笑)ということで学園祭でインスタレーションをさせてもらったりしました。当時はデュシャンとか知らなくて、とにかく普通の人間がやらない事をしてアイデンティティーを保っていたのかもしれないです。
ーそんな原体験があったのですね… トイレの作品もコンセプトが面白いですね。その当時の柴田さんは、どういった考えを持って、活動していたのでしょうか。
柴田
そうですね。先ほども、人間を馬鹿にしてやりたい気持ちがあったと話したと思うんですが一言でいうと、大人や社会を愚弄するためにアートをするということですね。そういう活動をしているうちに、仲良くなった人からやっていることがヨーゼフ・ボイスやナムジュン・パイクに似ているねと言われたりして自分のしていることが芸術活動であると知ったり、あとは、音楽では、パンクバンドが会場で殴り合っているのを見て自分たちのバンドが出演した時には、音楽を聴きに来た人をどれだけ不愉快にさせるかということをしていました(笑)なので殴り合っていたパンクスも自分たちのライブでは不可解すぎて黙って見てましたね。パンクスも黙るアバンギャルドなバンドでした。
ーそうなんですね。尖っていて素晴らしいです(笑)高校を卒業した後は、どういったことをしていたのですか。
柴田
美大に行けば理解者がいると思い美大を受験しようとおもったんですが、親の反対と、 予備校みたいなところで筆の持ち方から教えられるのが嫌で美大は諦めて日本大学芸術学部の美術学科を以外全部受けて、なぜか演劇学科に受かってしまい、日本大学芸術学部の演劇学科に進学しました。
ー大学に進学してからは、どういった活動をしていたのですか。
柴田
大学に行ってからも、大衆を愚弄する精神というのは相変わらずあったのですが、一番、大学時代で記憶に残っているのは、卒業論文ですね。「バリの民族芸能とその中におけるトランスと大脳生理学を結びつけて神が降りてくる脳の状況がトランスだとすれば、トランスを大脳生理学的に分析すると、神が降りてきた脳の状態をシュミレーションできるのではないか。」という仮説をテーマにしました。実際に、バリ島に行って、いわゆる幻覚症状を引き起こす植物を摂取して踊ることで、神に近づこうとするフィールドワークをしていました。例えるなら、ウィルアム・S・バローズのように自分を実験台にして、ドラッグをやるという感じで精神拡張を学術的に証明したいとその時は思っていました。
ーそれはすごいですね(笑)面白いテーマだけど、実際にやってしまうあたりがすごい(笑)そのフィールドワークではどういったことがわかりましたか。
柴田
最終的には通算6ヶ月間バリ島で踊りの修行をすることになるんですが、観光用のショーで踊られるでケチャが有名ですが、本来バリ島の踊りは神に捧げる儀式の一部でした。踊りを踊るということは、自然を体現することで、森羅万象と一体となる事で神様を体現することなんです。これは日本の八百万の神、偏在する神々の概念にも近く、ヒンズー教とアニミズムが結びついたバリ・ヒンズーという独自の信仰です。だから、観客のために踊るものではなかったんです。
そこが面白いと思いました。バリに伝わるサンヒャン・ドゥダリという儀礼があります。疫病や干ばつなどの天災の時に行う儀式で、儀式を通して浄化することが目的なんですが、幻覚要素のある煙を焚いている中で処女の女性に神様が憑依して目隠しをした状態で2人がシンクロして踊ります。
それに、バリにおいてこういった集団的祭儀が国家の運営において極めて大きな意味を持つとギアーツが劇場国家という言葉で語っていますがそのこともフィールドワークを通じて感じることができました。ちなみに、論文を提出したときには、実際に、幻覚症状を引き起こす植物を摂取したことは記載しないようにと大学の教授に言われて揉めました(笑)
詳しくはこちら【脱アート:③踊る神の島バリ】
ーそうなんですね(笑)それは揉めると思います(笑)大学を卒業されてからはどうしていたんですか。
柴田
大学を卒業してからは3年間くらいインドやネパールに行ったりして、ヒッピーのように過ごしながら、日本に居るときは夜間のコンビニの清掃員をしてお金を貯めて、また海外へ行くという生活をしていました。それであるときに、バリ島から友だちに手紙を送ったのですが、なぜか、その手紙がめぐりめぐって、超能力者の手に渡って、 そうしたらその超能力者にヘッドハンティングされて、帰国したら超能力事務所の職員になって、このとき初めて社会人になりました。
ー超能力事務所の職員!? 一体、どういった経緯でヘッドハンティングされたんですか。
柴田
どうやら、その超能力者が中国の方で日本語も堪能ではないのですがその人が言うには私と2000年前に仕事を一緒にしていたらしく、それが理由でヘッドハンティングしたらしいです。
ーそんなことがあるんですね(笑)超能力事務所の職員って、、、何かエピソードはありますか?
柴田
超能力は心のテクノロジーだと思うんです。脳生理学や医療も発達してきた中で被験者と能力者の中に何が起きているのかを科学的に解明できるのではないかと思っていました。私は超能力者の側近として理屈では説明できない体験を目の当たりにしていたのですが、ある時、詐欺の容疑で訴えられる事件が起こりまして私も取り調べを受けたんですが、幸い訴えた人が、私のことを被害者だと言ってくれたので、私は訴えられずに、難を逃れた経験があります。その頃から超能力の研究やビジネスに限界を感じていました。人の心は1+1が必ずしも2にはならない。まだまだ、解明するには程遠いと感じてスピリチュアルからテクノロジーへ、180°方向転換しました。これが30歳ぐらいのときです。
ースピリチュアルからテクノロジーへ…すごいパワーワードです(笑)そこからどのような活動をしていたのですか。
柴田
インターネットが出始めたくらいの時だったので1998年から2000年にかけては、インターネット放送局や音楽配信の新規事業のプロデューサーをしていました。私はその当時、プログラミングもできなかったのですが、 私の中で、テクノロジーは今までにないものを実現するための手段という考え方がありました。これから音楽や映像、商品やサービスがどんどんデジタル化するというイメージでこんなものがあったら、こんなことができたら楽しいだろうという妄想から色々提案したら、その提案のいくつかが実現していく中で今までにないモノを生み出す事が楽しくなりました。そこからITコンテンツやサービスのディレクターのようなことをするようになりました。
これはインターネット放送局で開発したモバイル中継キャラクターです。このキャラクターは「攻殻機動隊」の続編という物語(妄想)とインターネット放送が将来TVを超えるメディアになるという妄想を現実化したものです。この当時はテレビ局もまさかインターネットに追い越されるとは思っていなかったでしょう。無理もありません、YouTubeの10年前ですから。
ーなるほど、では、そこから新規事業などに関わるようになっていったんですね。その時から、今の柴田さんのアート思考に通じる考え方のようなものはありましたか。
柴田
そうですね。基本的に、私は仕事をするときに、お金よりもワクワクを優先的に考えているのでワクワクが全てのベースにあり、出来上がってしまうと辞めてしまうんです。なので自分はトヨタやソフトバンクといった大企業の新規事業を担当してそれなりに成功事例も作っているのにお金持ちではないし、社会的地位がないことに多少負い目を感じていましたが、結局、自分はお金儲けよりも創造することがしたかったんだと思います。作家の多くは作品を世に出したらその作品に興味がなくなり、次の創作に向かう様に自分にとって新規事業は作品のようなものだったのだと。。携わったビジネスが世の中にリリースされたら、そこで興味がなくなってしまうからリリースしたものを運用して、収益を生み出すということ。つまり、資本主義に関心がないんだということがわかりました。そして、その時に今まで自分はビジネスをしていたのではなくアートをしていた、肯定的に自分軸で生きていくことができていた、アート思考に救われていたのだと認識しました。
ーそこで、柴田さんの中でアート思考とビジネスが繋がったのですね。とても、面白くユニークな人生のストーリーでした。お話いただきありがとうございました。
柴田さんの人生のストーリーをお話を伺ってみて、筆者の中のアート思考の実践者に対するいわゆる美術修士の資格を持っているビジネスマンだったり、コンサルティングファームに勤めていた経歴の方なのだろうなという想像が鮮やかに裏切られて、柴田さんの語るアート思考は自身のこれまでの歩みから紡ぎ出された柴田さんの在り方そのものなのだろうなと感じた。みなさんもぜひ、柴田さんのセミナーを受講して、柴田さんの語るアート思考を体感してみてはどうだろうか。
後編では、柴田さんが語るこれからの世界の展望をお届けする。