今日の芸術講座は、チェコ共和国のヤブロネッツ・ナド・ニソウ ガラス・ジュエリー博物館(The Museum of Glass and Jewellery in Jablonec nad Nisou)の博物館キュレーター兼、リベレツ工科大学歴史学部の助教授のKateřina Hrušková博士にお願いしました。 レクチャータイトルは、「ヤブロネッツとイゼラ山のガラスボタン」(GLASS BUTTONS FROM JABLONEC AND JIZERA MOUNTAIN )です。

皆さんもご存知かと思いますが、チェコはガラス芸術で、その歴史と技術の高さが有名な国です。その中で、ヤブロネッツ・ナド・ニソウ(Jablonec nad Nisou)いう街では、職人達が何百年に渡りガラス工芸産業とその文化を創造し、現在も支えています。この街では、ガラスビーズ、ガラスボタン、ガラスジュエリーなども有名ですが、その中でも今回、日本でもとても人気のある「ガラスボタン」にフォーカスし、その歴史と現状についてフルシュコバー氏に教えていただきました。 それでは行ってみましょう。

こんにちは。まずは、皆さんにヤブロネッツ・ナド・ニソウの場所と簡単な歴史について説明します。ヤブロネッツ・ナド・ニソウは、中欧ヨーロッパの中央に位置しており、 首都プラハから約100キロ北にあります。

この国の歴史はダイナミックに変化しており、文化や経済、そしてヤブロネッツのボタンなどのジュエリー衣装などについて語る時、政治と地政学的歴史を抜きにこの発展を語ることはできません。
まず、1867年から1918年まで、この地域はオーストリア・ハンガリー帝国 の一部でありました。その後、1918年から1982年まで、この地はチェコスロバキアとなり、1993年1月1日、 チェコ共和国とスロバキア共和国に分割しました。これらの変化の中、ヤブロネッツ・ナド・ニソウは、コスチュームジュエリー産業において、とても重要なポジションを画一していきました。ですので、19世紀、20世紀、または 21世紀ど時代を経ても、ヤブロネッツ・ナド・ニソウはそのままの名前のまま、コスチュームジュエリーとガラスボタンを、歴史の中で継続していくのです。

次に、ヤブロネッツ・ナド・ニソウ ガラス・ジュエリー博物 館(The Museum of Glass and Jewellery in Jablonec nad Nisou)についても説明します。ここは、チェコの文科省による州立の博物館で、1904年に美しいアール・ヌーヴォー建築内に設立され、現在121年目となっています。2003年以降、この 博物館は、チェコ文化省の管轄となり、ガラスジュエリー特化した機関も設立されています。
博物館のガラスジュエリーのコレクション数は世界最大です。ボタンにおいては、合計で約500万個以上あります。ほとんどが、これからお見せていく“ サンプルカード ” の状態です。 また、いくつかの会社、特にウィルヘルム、ガブリデール・マラのファイルボタンも多くコレクションしています。

博物館では、18世紀後半からの多くの特許や認証などのの書類、ドキュメンタリー、そしてガラスのみならず、金属ボタン、プラスチックボタン、木製ボタン、 ホルンボタンなど、全てを網羅したボタンがあるといえるでしょう。このように、世界で唯一とも言われる、ガラスとジュエリー、特にガラスで作ったジュエリーとビーズ、ガラスボタンに特化した博物館として、私たちは運営、修造、保管、展示、研究など、様々な業務をしています。

博物館は大きく分けて5種のコレクション「コスチュームジュエリー」「ボタン」「装飾ガラスとスタジオガラス」「ライト」「クリスマスオーナメント」に分かれています。
チェコで唯一のガラスジュエリーの博物館であり、合計、世界最多の1200万個のコレクション数を誇っています。
それではガラスボタンについて話していきましょう。

ヤブロネッツ・ナド・ニソウのジュエリー産業の歴史、特に手押しガラスボタンは、18世紀末以降、この地域で最も重要な産業です。Jablonez Gutsもしくはヤブロネッツのジュエリーと呼ばれ、 多くの製造業者や、 工場は、あるいは今もイゼラ山の様々な場所に位置しています 。それでは イゼラ山のまわりを見て見ましょう。

ヤブロネッツ・ナド・ニソウのビジネスは金属とガラスの中心として栄えました。ボタンに限定して見た場合、Smrzovkaという地域では、ガラスボタンを生産していた最も古い場所でもあります。もう一つの重要な場所は、Lucany nad NisouとZelezny Brod、このエリアは19世紀後半からガラスボタンを作っていた記録があります。

ヤブロネッツボタンで特徴的なのは、ジュエリー産業ラインの一つとして生産されていることです。そして高価な宝石などの模倣品として、ローからアッパーミドルクラスの消費者をターゲットとしています。19世紀から20世紀はイギリス、フランス、アメリカ、過去にはインド、 バルカン半島など至る所に輸出されていました。
ボタンはファッションには欠かせないものであり、経済成長やファンションブームによってとても流動的に変化しています。
非常に厳しいところを述べると、ファッションのトレンド、原材料の高騰、ガラスボタンには良くない洗濯機の登場などにより、現在はよりコレクション重視になっていることです。

生産の最も一般的なタイプは 19世紀以降の、手押しのプレスタイプのガラスボタンです。ガラスボタンとこれから沢山お見せするにあたり、6つの生産技術をお見せます。
ランプワークやプレスボタンにおいて、チェコに残っている最も古い技術で、18世紀末まで遡ります。 ボタン製作にはグラス棒、バーナー、プライヤーなど、様々な種類のツールが使われています。
1829年から1832年の間には、プレスする新しいテクノロジーも生まれました。19世紀初頭にはさらに複雑な型も登場してきます。
その他、焼き付け、吹きガラス、モザイクガラス、ガラスビーズの編み物などがあります。

こちらのランプワークの写真はビーズと釣り糸で縫い合わせたもので、ボタンの裏側は金属製です。

こちらのモザイク柄で、Kokorinという地域でつくられた典型的な技術です。1840年代に人気で、 通常のカフリンクとして使われていました。

こちらの陶器に近いボタンは20世紀前半に作られたGb.Redlhammer会社により作られています。こちらのボタンは壊れにくく、ベッドシートや下着に多く使われました。洗濯機に入れても問題がありません。アフリカでは象牙を使ったものがこれに近いと思われます。先ほど説明したようにヤブロネッツは何かの高級な材料の模倣品としてつくられており、こちらはパールを模倣しています。

吹きガラスは特別なカテゴリーで、左のものは7cmもあり、19世紀にとても人気となりました。右側は天然パールの模倣です。
全てはオリジナルでつくられています。
プレスガラス製法でボタンが作られる工程のビデオです。ご覧ください。
現在でも手作業によってつくられ、材料も貴重なものを使っているため、ひとつひとつがオリジナルで、安価なものではありません。

前述でお伝えしたように、最も広く生産されたのはプレスガラス製法のボタンです。色彩を変えば、様々な配色を一つのモデルから生み出すことができます。

このプライヤーの金型部分を「コア」と呼びます。このエングレイビング(削り出し)部分が、必要不可欠な部分であり、最も高価で価値がある道具になります。この映像は、ガラスボタンを押す職人と製作プロセスです。
最初の押す小さな家をプレスショップと呼び、この職人は、クライアントとニーズに対して、他のビーズやシャンデリアなどのガラスも押します。
彩色場面で、なぜガラスボタンを2回もオーブンに入れるかというと、それは2種の異なった融点の着彩をしているからです。例えば、ゴールドレイヤーまたはプラチナレイヤーを、 500°Cの温度で熱して着色し、そして次の別の着色温度の彩色、例えば400度であったり、近年の着色剤だと200度のものなどで2回目のオーブンで色を接着させます。
このような作業工程により、仕事の分業性により、職人工場が一つの町に点在して連携して産業が成り立っています。

この地のガラスの生産の記録では、 1775年頃のからKarl’s Glasworksがはじめました。カーロス・グラス・ワークは現在はありませんが、彼らはプレスガラスのみでの仕事でした。1822年と1832年には、ガラスロット(ガラスの棒状のもの)が発明され、生産性があがっていきます。それによる仕事の簡素化、そして一般社会の経済発展による全てのものの生産工場が増え、ボタン生産も増えていきました。
その後1800年以降、ランプワークが登場します。ランプワークはガラス棒とバーナーだけが最低限あれば製作できるので、ボタン生産量は増えていきました。1840年代にはガラスモザイクが開発されました。

こは最も古いランプワークのボタンです。18世紀末からのこの技術はとても原始的でありながら、19世紀の作品と比べても、 驚くほど豊富なモチーフがありました。花、ハート、星などのモチーフが「ボタンのサンプルカード」で見て取れます。

これらのボタンは、ガラス、石、金属の 組み合わせてできているて、1849年代の典型的なファッションの一つです。

ボタン業界にとって重要なポイントがありました。1861年に、サクセブールのアルバート王子の死にあたり、未亡人となった妻のヴィクトリア女王が仕たてた喪服にあります。彼女は喪服をつくるために、大きな黒いガラスボタンをヤブロネッツでつくらせました。これを機会に、喪服に黒ガラスボタンというのがイギリスではスタンダーになりました。黒ガラスは ジェットという希少な黒い石の模倣です
こちらのボタンカードで見られるのは、 アルバート王子の死 の後に見られる、1860年から1870年代に“ボタンフィーバー” と呼ばれていた象徴的ボタンでイギリスの喪服には欠かせないものとなりました。

次のジェットのイミテーションは、これは特別な技術で、こちらは、石、金属を組み合わせリベットでとめたものです。

19世紀後半からは、ファッションの変化がみられます。ボタンは、ただの黒いだけではなく、色違いの組み合わせ、 白、 紫色、金と銀色などが登場してきます。また今までになかったモチーフも登場します。

これらの全てはヤブロネッツの工房、Alex.Strauss&Co.によって手掛けられました。これらは織物や刺繍、ビーズワークのイミテーションとして作られています。

1867年頃からとても重要な技術発展は、ガラスシャンクが発明されたことです。生産が簡略されたもので、そして金属シャンクも同時に需要があり、幅が増えたことになります。
1860から1870年の間は、この地域からのガラスジュエリーの輸出量はピークとなりました。この街のガラスジュエリーにおける連携工房達も大きくなり、その循環をより良くするための生産組織も構築されていきました。

こちらがガラスシャンクのボタンです。右のものが一番典型的なものになります。

この時代からどの会社も、金属シャンクの品質にこだわり始めます。 重いガラスボタン部分が、布の上に壊さないようにしっかり留まり、なるべく修理が少ないようなベストな機能性を探求する努力が始まります。ちなみにガラスと金属シャンクは、プライヤーの金型に同時に入れることで、ガラス溶けている状態でシャンクにくっつくというものです。また、写真左下のボタンのように、4つ穴の強いシャンクは、ヤブロネッツ特有のものです。

ガラスボタンのExport houses(海外輸出事業) に戻ります。ボタンはあくまでジュエリー関係の一つでしたので、自社生産における製品が利益率が高いものは生産し、それ以外のものは他から購入して輸出していました。

1870年代は透明、簡単な色彩など、シンプルなファッションボタンが流行となりました。上の画像では、Picturesという、19世紀後半のイギリスボタンのイミテーションです。下の段はスコットランドのハイランドのスタイルとして 60年代後半から70年代初頭に人気を博しました。ガラスボタンの中に、どんなイミテーションでもつくれる技術を職人達は持ち合わせています。

19世紀後半から国交が増え、遠い異国からエキゾチックなデザインやセンスが流入し始めます。
戦時下の時代ですが、日本、中国、インド向けなどにつくられたボタンもとても興味深いです。これは剣の鍔をイメージしています。平均は9センチと、 戦争時のものながら、とても大きいボタンです。

こちらは20世紀初頭のエジプトで作られたガラスボタンです。全ての装飾は彩色のみで行われています。

19世紀最後からLacy Buttonsが人気となります。これは、品質の高いガラスを使用し、高透明ガラスの裏から彩色します。この花の形は現在でも採用されているデザインです。これは、先ほどもあった喪服用の黒いボタンと同じ金型をつかったもので、ここにクリスタルを流し、裏彩色を施しているのです。こちらは、長い歴史の中でも最も成功した流行を築いたと言ってもいいでしょう。
20世紀初頭にはアール・ヌーヴォーデザインのボタンが市場に出回ります。同時に、1905年頃から劇的にデザインの変化が見られます。デザインや色が根本的にシンプルになっていきます。
つまり、時代によってデザインのみならず、ボタンの役割、重要性が変化していったのです。

こちらもWilhelm Klaarからのレイシーボタンの他の形をしたものです。 裏側から、真珠色、黒、銀、金の彩色をしています。アメリカのコレクターが このタイプをボタンを見ると、レイシーボタン専門のボストンガラスワークスのサンドイッチガラス製法と思うようです。

次の19世紀後半からと20世紀初頭のファッションの潮流は「銀ボタン」でした。銀ボタンは高価ですので、イミテーションはガラスにプラチナ彩色を施しています。もし銀をここに塗ると、経年劣化で黒くなってしまうからです。
第一次大戦間ですが、ボタンの職人やデザイナー達は、どんなパターンでも形にできるような、技術の最盛期とも形容できるレベルになりました。様々な大きさ、色彩、異国風にアレンジしたもの、またプラスチックボタンもたくさん登場しました。 プラスチックボタンは現代人向けボタンだけではなく、ドイツ人の民族衣装などにも使われました。木製のボタンもたくさんあります。

左のガラスボタンはセミプレシャスストーン(宝石種の区別の中で完全に宝石類と分類できない多くの宝石)の模倣としてつくられています。装飾はガラスの中にほどこされてあります。 右側は簡単なボタンで、スプレーしています。

ここでは2つの例で、 左側にはインド、右側は中国風のエキゾチックなイメージです。

この2枚のカードに、ガラスやプラスチックのボタンが見られます。 これは、世間が新しい素材を求めていたからです。プラスチック、動物の牙、木製、セルロイドなど、様々な材料のボタンが受け入れられていきました。

象牙に見立てた、ガラライトという牛乳を素材とした特別なプラスチックで作られたボタンです。

鳥やキノコの形をしたボタンもあります。こちらは子供向けではなく大人を対象として作られています。
戦時下でのファッションアイテムはなぜかとてもクリエイティブで、 色にあふれ、新しいモチーフにも溢れています。しかしこれらは円形ボタンと違い、機械を導入した作業工程が踏みにくく、一般的にはとても高価なもので、ニッチなコレクターがメインのターゲットとなっていました。

時代と共に、ガラスボタンにおける新たな課題と衰退した点などについて話しています。 最初の問題は洗濯機の登場でした。ガラスボタンの服は洗濯機には不向きで、いくつかの企業は、[washable button]として、 新たに洗濯できるボタンを開発しましたがあまりよい結果ではありませんでした。下写真のボタンはマーラ社の洗濯機にかけられるガラスボタンです。

次の問題は、軽い、安い、プラスチック材料との競争です。 そしてさらなる問題は、透明性の高いリードガラスの値段の高騰でした。 そして、時代と共に、単純にガラスボタンへの客の興味が失われていったことです。 クライアントは常に新しいあものを欲しがります。なにより、合成材料のドレスなどには、重いガラスボタンは着用させにくかったのです。
さらに残念なことに、第二次大戦以降、ソビエト連邦の衛星国となったチェコスロバキアは、共産主義化によってガラスボタンの工房や企業は国有化されました。それにより、ガラスボタンを製造する国有の会社は2社に集約され、それ以外は廃業もしくは大量生産重視の、安価で効率良い機能のみの追求したボタンの製造となっていってしまいました。
この経緯もあり、最後の大きな問題として、販売戦略の変更されたことです。一国営企業となったJablonexは輸出企業でしたが、60年代半ばに戦略を変え、 商品単位の取引から領土や地域単位で取引を始めたのです。ファッションジュエリー全般を販売していたこれの会社から、ボタンはターゲットから外れ始め、需要は下がっていきました。このボタンが危機時代の中、 唯一安定した顧客はもちろんソ連でした。
さらに酷い状況は、ソ連の傘下にある法令により、1945年~1948年の間に多くのドイツ企業が、ナチス政権に協力したと言い掛かりにより、全ての企業財産が没収されたことでした。もちろんそれにより、企業は崩壊しました。

この期間を社会主義の時代として説明しましょう。 第二次世界大戦後、 1948年から1989年、社会主義政権の元、 ガラスボタンの製造は 国有企業に2つのみに集中されます。 1つは、Sklenena Bizuterieという、豪華なガラス製品に特化しています。もう一つの重要な会社Zeleznobrodske Skloという、比較的安価であり一般向けの製品を製造していました。西ヨーロッパへはSklenena Bizuterieを、東へはZeleznobrodske Skloの製品を多く輸出しました。
国営企業になったことにより、仕事の細分化と管轄の采配が勝手に行われ、ボタンの輸出は、プラハの国営企業、コヒノールが請け負うことになりました。しかし、プラハでは誰もこのようなガラスのことを扱える人が会社にはおらず、困難と問題の連続だったそうです。
その後、 新たに国営企業、Jablonexが1952年に設立された。これにより壊滅的だった輸出業が再稼働し始めました。

第二次大戦前後、40年代と50年代の後半は、新しくデザイン化されたボタンはほぼありませんでした。その後、金属風ボタンがマーケットではスタ人気になっていきました。

1962年以降、ボタンを装飾する方法に新型が見られます。 企業は真空の装飾、オーロラ・ボレアリスと呼ばれる新しい技術を使い始めました。この技術により、クロムとアルミニウムが生み出す美しい七色の虹の効果をつくることに成功しました。

1960年代は、 子供たちのために古い物語や乗り物など、こども向けのボタンがたくさんつくられました。そう言った意味では、60年代はボタン業界にとって、社会主義時代の中ではまだマシな時期だったかと思います。

1989年にビロード革命が起こり、社会が自由化となりました。これに従ってファッション業界ではすべてが一変しましたが、ガラスボタン業界は変わらず厳しい状況が続きました。特に、それまでソ連とその他の衛星国がクライアントであり、数限られた独占国営企業は安定した収益をあげられたのが、民営化により競争が起き、東ヨーロッパからのクライアントを失ったことによる損失が大きいと思われます。Zeleznobrodske Skloはあまり新しいものをつくらなくなり、代わりにElegantやHGなど新しい新興国有企業が登場してきました。
90年代にこの新企業たちは、ファッション業界のボタンのみならず、を製コレクター向けの新作もつくり始めました。これは功を奏し、アメリカ、カナダ、イギリス、 日本のコレクター達がこれらを高値で購入してくれました。これがこの町の産業、工場の伝統技術や機械を守る助けとなり、デザイナー側も、顧客リサーチやデザインの趣向を研究し、改良していけました。

こちらはいまはなきJalgoのサンプルカードです。彼らの全てのファイルがこの博物館に所蔵されています。この会社は残念なことに後継者がいなく廃業となりました。

こちらはHGのサンプルボタンカードです。 右写真はコレクター向けに作られたヴィンテージコレクションです。この会社は2000年以降、ボタンをアイコンとし、H glassという名で一新しました。

H Glassのユニコーン、孔雀、カエルなどの新しいデザインが登場します。猫のボタンは日本で大成功を収めています。

特定のボタンタイプとマーケットについて紹介していきます。
「イギリス領インド帝国」「民族衣装」のコレクション、「記念ボタン」や「プロパガンダボタン」、「スモールラグジュアリーシリーズ」、「コレクターズアイテム」にマーケットやクライアントを色分けしてみました。

このクライアントオーダーボタンは、 20世紀初頭から登場する吹き出しガラスボタンで、イギリス領インド帝国向けにつくられたものです。

こちらもイギリス領インド帝国のためにつくられたボタンです。
左の写真は典型的なヨーロッパのボタンの形状ですが、色は典型的なインド風に仕上げられています。 右側はインド特注デザインで、金属、 ガラス、プラスチックの合わせボタンです。カードの上には、イギリス領インド帝国のThe Sunset Rosesという特別な商標ラベルが見ることができます。インドがクライアントとしてどれほど重要だったかを示しています。

Filigree(透かし細工)のイミテーションで、これらはヨーロッパ全域の民族衣装で使用されました。右側は、Ahoyという会社のカードで、宝石の衣装やファッションアクセサリー、そしてオーストリアとドイツ向けのラグジュアリーコスチュームのためのボタンを製作していました。

これはお土産、記念品用ボタンと男性用カフスです。

プロパガンダボタンの紹介です。左側は1944年のナチスのキャンペーンボタンで、敵が「シーっ(pst)」となるというデザインで、右側はソビエト連邦の星が見られます。金型のエングレイビングも出来上がったボタンもかなり品質が高いものとなっています。星形ボタンは機械で作れないため、一点一点手作業で行われており、とても高価なものでもあります。

90年代のJalgo社のコレクターボタンです。エジプト風など、職人とデザイナーたちはコレクターをさらに触発する特別なものを作り始めました。

H Glass社のコレクターボタンのコレクションです。19世紀のように形やモチーフと取り入れ、しかし印象的な色味で新しさを演出しており、とても市場で人気となりました。花柄、レイシーボタンなど、先ほどの話しにもあったものが参照されています。19世紀と違い、現在EUではリードガラスを使ってはいけないため、昔より透明性に欠けるのが実情です。

これらもH GLASSのとても美しいボタンコレクションです。

カナダやアメリカのコレクターのためにつくられたボタンなどもあります。例えば、Geraldine Peckはビジネスマンで、マリー・グレゴリーという作家の絵を元に、 青と白のガラスとの組み合わせのものです。

これらの物語が共感させるようなデザインボタンなどが登場します。

ヤブロネッツボタンブランドの特徴です。

全てのコレクションカードにはエディションNo.がついています。
彩色や金銀のデザインが施されているものには大概特許がついています。

企業側とヤブロネッツのメーカーと協議し、1~3年間適応の特許や販売ライセンスなどの業務に至ります。

これはボタンのサンプルカードではなく、ガラスの色と種類のカードです。

右側から、サテンガラス、透明ガラス、クリスタルガラスとなります。

オファーカードといい、売りたい人がコミュニケーションにつかうカードです。

こちらはパリからヤブロネッツに会社を移したJajtelesのサンプルカードです。 この会社は、ラグジュアリー系ボタンにフォーカスしています。イギリスで数々の商標をもっていて、「Royal Button」という品格高いブランドです。

ここのカードは「ミシン目カッター」で必要なボタンのパーツを裂くことができ、彼らはその特許も持っていました。

このカードもおもしろく、左に支払われた日、右に売り上げた記録のスタンプを見ることができます。ガラスと陶器のボタンをつくっていました。

こちらは、パソコンがない時代のお客様カードです。あなたの顧客は何をいつどこで注文したのなどが一目でわかります。

1916年の有名なコレクターのカードです。

ビーズ会社のオーナーのイヴァン・ワイスコフ(Ivan Weisskopf)の コレクターのカードです。

1904年にに私たちの美術館で初のコレクションになるカードです。

金型(コア)のドキュメントです。ボタンのドローイングが書かれています。コアを新しくつくることは非常に高価なことですのでコアの重要度がわかります。

左はコアのドローイングで、右はその証明書です。

今回は以上で、「ヤブロネッツとイゼラ山のガラスボタン」、その歴史と現在までについてお伝えしてきたことを終わりにしようと思います。大きな流れと概要は掴めたかと思います。
政治体制や会社の経営方針、市場の変化やテクノロジーによる技巧やデザインの変化など、「ボタン」一つに様々な問題が交ざりあっています。また、ボタンの役割の変化、つまり装飾品からコレクターのアイテムや 見るだけのアートアイテムのようになった変化は微妙なものでもあります。
しかし根底にある大切なことは、職人やデザイナーのパッションやひらめき、熟知された知見と技術、その産業と文化の継承です。今回のレクチャーで皆さんにそういうことが伝えられたことが意味があることだと思います。


