デジタルテクノロジー・彫刻行為を通して考えるこれからの身体の在り方とは?

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インターネットが社会に普及してから、20年ほどだが、今やわたしたちの生活にデジタルは欠かせないものとなっており、それは環境の一部と言ってもいい。そして、このデジタルとアナログの2つの次元の間で人間は揺れ動くようになり、わたしたちの身体の在り方は変わってきた。今回、アートサバイブログでは、これからの身体の在り方に関して、様々な言説やアートを通して、考えていこうと思う。

デジタルテクノロジーとは何か。

 まず、始めに、今や、わたしたちの生活において一般的なものとなったデジタルとは何かを考えていこう。デジタル(digital)とは、ラテン語の「指 (digitus)」を表す言葉が語源で、「指でかぞえる」といった意味から派生してできた言葉で、離散量(とびとびの値しかない量)」を意味し、連続量(区切りなく続く値をもつ量)を表すアナログと対をなす概念だ。現実世界(フィジカル世界)の物事や出来事はすべてアナログなので、コンピューターで数えることができる0と1の数字の組み合わせにより、デジタルデータへと変換される。こうして生まれるコンピューターの中のアナログな現実世界のコピーをデジタルツインと呼び、最近、話題となっているメタバースなどで、それらはより精度高く具現化されていくだろう。
 また、デジタルについて考える際に、欠かせないものとなっているのが、テクノロジーだ。人によっては、テクノロジーとデジタルを混同して考えている人も多い。テクノロジーという言葉は、芸術を含む技術を意味するギリシア語の「テクネー」が語源で、科学とその理論の成果を応用した技術を指す。近年では、この二つの言葉が結びついたデジタルテクノロジーに私たちは恩恵を受けているのだ。

メディア社会における身体の在り方

 次に、こういったデジタルテクノロジーが私たちの身体、そして社会にどういった影響を与えているのか考えていこう。身体の在り方を考える上で、人間が生活を営む基盤となっている社会との関わり方は外せない。とりわけ、デジタルテクノロジーは、ある情報を媒介とするメディアであり、それらが私たちの身体の在り方に与える影響は大きい。メディア論で著名なマーシャル・マクルーハンは、メディアは身体の拡張であるとも語っているが、いまや、スマートフォンやPCなどのデジタル環境は人間の身体の一部であり、人間はインターネットに接続された蟻のような存在だとも言える。日々、生活する中でデジタルに接触し続ける私たちは、検索、選択という履歴、足跡をインターネット上に残し、その足跡が個々に最適化されたアルゴリズムを構築し、私たちを、自らが見たい情報の泡、フィルターバブルに包み込む。かつて作家のジョージ・オーウェルは「1984」で監視社会がもたらすディストピアを描いていたが、現在の一党独裁で物事を決めていく中国の監視社会の在り方を見ているとそれが実現するのもそう遠くないかもしれないことに恐怖を感じる。このようにデジタルテクノロジーが身体と深く結びつくことで、わたしたちの身体は常に見られているという感覚を持つようになっていく。これは、社会学者のデイヴィットライアンが、哲学者のジュレミ・ベンサムが考案した全展望監視システムを現代の情報環境において捉え直した監視社会においても語られている。全展望監視システムとは、円形に配置された収容者の個室が多層式看守塔に面するよう設計されており、ブラインドなどによって、収容者たちにはお互いの姿や看守が見えなかった一方で、看守はその位置からすべての収容者を監視することができる施設だが、今日のデジタル時代においては、その機能が拡張され、全展望監視システムは不可視の存在となり、私たちの生活を絶えず覗いている。もはや、私たちの身体は、私たちの制御できる範疇を超えた次元が所有しているとも言えるのだ。

(写真2)Wikimedia Commonsより

彫刻行為を通して考える身体

 デジタルテクノロジーが深く浸透した社会は、私たちの身体に絶えず見られるという緊張感を与えるが、デジタルテクノロジーだけではなく、アナログな現実世界(フィジカル世界)からも身体の在り方を考えるていくために、ここからは、彫刻を通して、身体というものを見ていこう。彫刻において、彫刻を作るということ、sculptingする行為は、作家の身体の摩擦運動によって起こる。歴史的に見ても、その時代によって、媒体が変わっているとはいえ、意識的にその反復行為を繰り返していることに変わりはない。イタリアルネッサンスは、Humanityを回復する時代であったが、人々は、中世のキリスト教の厳しい掟のある生活から解放され、自由で人間らしいものの表現を求めた。ミケランジェロの目と心は、”自由な人間”に向かっていった。そして、sculptingの対象に適した道具が開発されてきて、彫刻家はその手と心で自由に石と交流することを可能にした。ここに人と石は、1対1の対等で親密な関係が獲得された。それから時が経ち、現代の彫刻家は 一定の材料、技術、様式を駆使して、美的価値を創造、表現しようとする人間の活動およびその所産を保証されており、社会から自由となった。それにより、現代の彫刻家の目と心が向かう方向はそれぞれの彫刻家の中にある。そしてその多くが、作者は自然に対して主体となり、作品は作者の主観の対象となる。これは、現代の彫刻表現として全く当然なことといえる。
 また、現代では、便利な電動工具や、データから出力する3Dが数多く取り揃えられており、人は材料に対して圧倒的優位性をsculpting 内にて獲得している。この彫刻における身体の在り方こそが、アナログな現実世界(フィジカル世界)において、0と1というデータの箱によって掬い上げることができない身体のセンサーが感じる知の在り方であり、インターネットに接続された蟻に成り果てている現代の私たちに必要なことではないだろうか。それはフィジカルに自ら手を動かし、何かを作ること、身体の動きを伴う知の獲得にほかならない。しかしながら、こういった知の獲得の仕方は段々と希薄になってしまっている。この現状に対してわたしたちは何をしていけばよいのだろうか。

これからの身体の在り方

 ここまで、デジタル・アナログといった二つの視点から身体の在り方を見てきたが、これからの身体の在り方を考える上で、デジタルとアナログを対立関係に置いて考えることから抜け出す必要がある。デジタルもアナログも等しく、人間の生活の一部であり、どちらもテクノロジーを有している。そこに、優劣はないはずだ。一方で、デジタルは、0と1という区分によって物事を表現するが故に、どうしても、最適化し、組織化されてしまう宿命から免れることができない。そして、デジタルと関わる身体もまた、最適化され、個々人のリアルを狭めていってしまう。そういったことを考えると、アナログの身体知を獲得しながら、その獲得した知を可能な限り、デジタルへと変換していくことによって、私たちの社会はより良いシステムを備えることができるようになるのではないだろうか。その中で、アナログの身体知を掬い上げるアートは重要な役割を担うことだろう。そして、アートこそが、階層化し、私たちを絶えず見張り、制御している社会システムを改良する手引きをしてくれるに違いない。この記事がこれからの身体の在り方を考える上で、役に立てば幸いだ。

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