「20世紀のスロベニア」~もう一つのヨーロッパ芸術~

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写真引用:スロベニア近現代史博物館

Introduction

 本日は、スロベニア近現代史博物館(National Museum of Contemporary history of Slovenia)のキュレーター・教育部門担当であり、民族学者・文化人類学者のVilja Lukan Pišek氏をお迎えし、「20世紀のスロベニア」 (Slovenians in 20th century) というテーマでスロベニアを探求していきたいと思います。

スロベニアの近現代史ということで、過去100年程前から現代までの歴史を勉強することになります。この中には、地政学的問題、つまり戦争や政治などの負の部分を沢山垣間見ることになると思います。近年、世界がよりネガティブで悲しい情勢になっていることを考えると、今回の講義がよりリアリティーを増し、そして時代は繰り返す、ということを痛感させられると思います。

今回の20世紀の学びが、私たちの現在と未来の平和への行動に繋がるような、小さな活動に寄与できればと思っています。

それでは芸術総合講座を始めたいと思います。

World War I

以下、Pišek氏)

 私たちは、スロベニアの首都、リュブリャナで最大の公園、ティボリ公園内にある、小さな城内にある国家機関の博物館です。 スロベニアは若くて小さい国ですが、深く大切な歴史を今日は20世紀を中心にお伝えしようと思います。 

1914年、様々な国々が関わった世界対戦、後に「第一次世界大戦」が起こる目前では、スロベニアはまだ独立国ではありませんでした。当時はオーストリア・ハンガリー帝国であり、66年間玉座に即位したフランツ・ヨセフ皇帝は当時84歳でした。

スロベニアはいくつかの省内で分割されており、経済や開発分野に置いて、特に港があるトリエステを中心に、とても重要な場所に位置していました。バルカン地域における複雑で不安定な戦争と植民地化は、二つの連合国、オーストリア・ハンガリー、ドイツ、イタリアと、 フランス、ロシア、イギリスで分割され、対立することになりました。

その間もなく、1914年6月28日、ボスニアのサラエボで、オーストリア皇太子、フランツ・フェルディナント大公と妻ソフィーが、セルビア人ナショナリストのガヴリロ・プリンツィプに暗殺され(サラエボ事件)、第一次世界大戦の直接的な引き金となりました。こちらの写真は暗殺前の写真になります。オーストリア・ハンガリーはセルビアに対して告訴し、それを受け入れられなかったセルビアとの流れから、それが戦争に繋がりました。 

そして1ヶ月後の1914年7月28日、皇帝フランツ・ヨセフは戦争の始まりを宣言しました。スロベニアは即座に35000人を軍隊に招聘しました。当初、スロベニアはこの戦争に勝利し、そして早く終結するだろうと高を括っていましたが、その期待も虚しく、長くて破壊的な戦争が続きました。 

スロベニア軍は異なる戦線にも兵士を送り、マシンガンや爆弾、そして無数の犠牲者をうみだしました。 

負傷した兵士が列車病院の前に並んでいる姿です。 

こちらは1915年4月26日、イタリアはロンドン条約 をイギリス、フランス、ロシアと密約を交わしました。これによりイタリアを第一次大戦に参加させ、この影響は紛争を引き起こしました。  

そしてイタリアが参戦すると、ソチャ河に新しい全長93キロにも及ぶ前線が開け、オーストリアハンガリーとイタリアは1917年の5月から10月の間に12もの戦いを行いました。 

これにより甚大な人的被害と物などが亡くなりました。写真で93キロもの川沿いに斬撃が見られます。 

The Hinterland of the First World War 1914-1918

被害は都市にも拡大し、経済は軍事費に費やされ、市民は食糧難に直面していきました。写真にあるのは博物館でこれらの状況を展示しているものになります。 

一般的物流と人手不足に陥り、女性や子供たちや老人、囚人までもが労働に駆り出され、農業や工業を支えていきました。

 

スロベニアに同時に大量の難民が押し寄せてき、その後10万人以上のスロベニア人が国外退去を強いられました。ちなみに、戦後多くの避難者は自身の家や町が破壊され、故郷に帰ることができませんでした。

こちらが当時の難民キャンプになります。ここに戦争の被害から追われたスロベニア人が沢山流入してきました。現代における難民キャンプも似たような状況にあります。 

現在もそうですが、この100年前の時代の「プロパガンダ」も大きく役目を果たした戦略でありました。当時は兵士と家族の間のハガキの手紙が使用され、それらの手紙は検閲があったりもしくはコピーをとられたりしました。ですので、家族は印刷されたハガキを手にするなどし、内容はなんてことないメッセージで戦争に不利益なものは送ることはできませんでした。 

この時期は深刻な食糧難が起きていましたが、しかし全ての人間は戦争のために必要なものを生産するなど、働からざるえなかったのです。

しかしながら政府を民衆を鼓舞し、スロベニア国家を強くしていきました。 

1917年、 Anton Krochettがメイ宣言」(May Declaration)をしました。ちなみに、メイ宣言とは、主に2つの重要なものがあり、一つは1917年に、君主制から独立し、南スラヴ民族の統一を求めたスロベニアの宣言、もう一つは1989年にスロベニアの独立を宣言しユーゴスラビアからの分離を訴えた宣言です。

これは国民の大きな運動となり、20万人の署名も集め世界を民主化した大きな歴史の一つです。 

しかし前線で兵士は究極に厳しい状況に置かれていました。写真にあるのはこの兵士がいた洞窟のレプリカです。兵士たちは食糧も、特に水がなく、ノミとネズミだらけの最低の衛生環境の中で過ごさなければいけなかったのです。

ガス爆弾などが開発されたことにより、ガスマスクをつくりました。同時に、軍事開発として、テクノロジーが変化しました。ワイヤレスのラジオや電話などが“Soška fronta”(ソチャ川流域で展開された戦線の名称)の部屋で見られます。 

博物館に所蔵されている、第一次大戦で実際に使われた重要な二つのオブジェをお見せします。

一つ目は塹壕で使われる、ライフル用の展望鏡です。これらは防火であり、兵士の手をカバーできる仕組みになっています。ですので、安全面を考慮した大切な小さいオブジェです。 

次のオブジェはオーストリアハンガリーの水筒です。各兵士にこれが一本配られるのですが、実は兵士が1日に飲める水の量はこれ一杯です。前線の究極の状態で、さらに最低の衛生環境の中、水は食糧よりも大事なものでしたので、水がないということは本当に厳しいとこを意味していました。 

The 1920s, 1918-1928

実に4年もの歳月を戦闘に費やされ、そして戦争が終わり、同時にオーストリアハンガリー帝国は終わりを迎え、スロベニア人は新しい段階へと進みます。1918年10月29日、終戦となり、リブリャナはオーストリアハンガリー帝国の終焉を迎え、スロベニアとクロアチアとセルビアが国家を宣言をしました。 

しかしながら、 国際コミュニティからはそれを国家と認められず、独立するようなことにはなれませんでした。 

スティリア地方ではRudolf Maister少佐がスロベニア兵士を終結させ、マリボル周辺のドイツ人の武装を解放させ、1918年11月にマリボルの町を、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国であると主張した。ドイツ・オーストリア間の暫定的な部隊による短期間の戦闘の後、現在の境界が確立されました。そして、大部分はシチリア公国で、スロベニア人と少数民族のドイツ人の間の間で続きました。 

この写真では、スロベニアでドイツオーストリア排除へのプロパガンダの 様子が見られます。そしてこの辺りからユーゴスラビアへの流れが徐々に現れだします。

ともあれ、イタリアとの国境問題は1920年に解決し、イタリアは領土を取り、スロベニアは海へのアクセスを失いました。その後、イタリア国粋主義(Italianization)と、スロベニア語が学校や役所などでは禁止され、文化系機関は閉鎖され、暴力が横行していきました。ですので、スロベニア人にとっては悪い政治体制となりました。 

このような困難の蓄積により、スロベニア、クロアチア、セルビアは協力し、1918年12月1日に3国の3民族による王国(セルブ・クロアーン・スロヴェーン)を形成しました。これが後のユーゴスラビア王国となっていきます。Alexander王はこの初代ユーゴスラビアの王となりました。このように20世紀前半では大きな動きが躍動的に変化していきました。 

1919年には、リブリャナの大学にスロベニアの科学と文化を発展させてる組織が作られました。それにより海外で働いていた知識人たちが自国へ戻ってきました。スロベニアの学生もウイーンなどの海外に留学するのではなく自国で進学、就職、研究できるようになったことは大きな功績です。 

しかしながら、政治体制は未だ繊細で不安定であり、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国における議会活動は、1929年1月6日に終焉を迎えました。ベオグラード議会でセルビア人議委員がクロアチア議員を銃撃したことにより国関係亀裂が入り、それを抑えるために、アレクサンドル1世カラジョルジェヴィッチ国王は議会を解散し、政党、政府、そして憲法を廃止し、その代わり自分が独裁し、そして3国が団結するために国名を加盟したのです。

国名は、ユーゴスラビア王国と改称され、ユーゴスラビアの川にちなんで名付けられた9つのBanovina (region)に行政区分されました。 

The 1930s, 1928-1941

Inter War(第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の期間)時代は、一方では工業を中心とした経済と、美術や建築など文化の発展、もう一方では国際政治と緊張が高まっていきました。 

1933年、スロベニアに高層ビルが、初めて建てられました。現在もこのビルはあり、今や高いとは言えませんが、当時はかなり長い間、バルカン地域で最も高いビルとして知られていました。

建築では、Jože Plečnikが多くの重要な建築をしていきました。

30年代は、文化面において、スロベニア人は新しいモダンカルチャーを嗜むようになってきました。31年にはスロベニア王国の初となる映画が上映されました。Ita Rina というスロベニア人女優が欧州で脚光を浴びました。 

しかしながら、1929年の世界大恐慌の後、30年代は大きく政治体制が揺れ動きます。1933年10月9日、アレクサンダー王がマルセイユで暗殺されました。彼の従兄弟となるピーター王子となりますが、その影響は弱く、スロベニアはドイツとイタリアに緊密になっていきました。1941年3月のスロベニアは、ユーゴスラビア王国の一部として、枢軸国側への参加が迫られる中、クーデターで政情が不安定化しました。

そして同時期、第二次世界大戦が始まっていきます。

The Second World War, 1941-1945

写真にあるのは、博物館内の、第二次世界大戦にフォーカスしたセクションです。

1941年4月6日、ドイツがユーゴスラビア王国を攻撃します。ユーゴスラビアは、ドイツの6倍の武力に押され、たった11日間で降伏します。 

その後、枢軸国への参加(三国同盟調印)が発表され、ドイツ、イタリア、ハンガリーによるスロベニアの分割占領へと繋がり、これは同時にスロベニアの国家アイデンティティーを解体していきました。ドイツ占領下の地域ではスロベニア語は禁止され、何千もの民衆は国外退去を強いられ、ドイツ化(Germanization)されていきました。ドイツ、イタリア、ハンガリーの各々のかたちで占拠していったのです。8万人のスロベニア人が牢屋に送られ、5万8千人が強制収容所に送られ、2500人が人質に取られ死刑にされました。 

 このユーゴスラビアの侵略に対してのスロベニアの抵抗が始まり、1941年4月26日にLiberation Front of the Slovene Nationを起こし、それは パルチザン (軍事)へと変わり、スラブ民族を一つにしたのです。

こちらの写真では何点かの自由化運動のためのユニフォーム、サイン、文書、武器、隠しラジオなどを展示しています。パルチザン抵抗勢力は小規模から始まりましたが、徐々に様々なところに広がりをみせ、それは当時のユーゴスラビア以上に広がっていきました。1942年2月には、リブリャナは有刺鉄線で包囲されたので、人々は、あらゆる手段で、あらゆるところに物を隠して密輸をしていました。この間、常に公共の場所では、逮捕、国外追放、人質、そして銃撃が起こっていました。 

次はこのチャプターの中でも最も暗い部分を紹介します。第二次大戦時の強制収容所時の収集品がここにあります。スロベニア人は、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所ダッハウ強制収容所 な どに送還されました。

マウントハウゼン強制収容所はスロベニアとオーストリアの間にあり、そこに同時につくられた地下トンネルでは、現在でも地下を通って国境を越えることができます。このキャンプで最も多かったのはフランス人、ポーランド人、スロベニア人でした。ナチスのユダヤ人迫害以外も、知識人や政治犯、反対勢力などが、強制労働、飢え、大量に殺され、スロベニアは多くの犠牲を払いました。争いは国同士や民族間のみならず、民間の内戦も引き起こしました。

このようなことは決して繰り返されるべきではなく、そういったメッセージを私たちの博物館では訴えています。 

1945年春、ドイツ軍とその協力軍はスロベニア領土全体から撤退し、最後の軍事作戦は、1945年5月8日のドイツの公式降伏から1週間後にケルンテン州で行われました。

1945年11月29日、ユーゴスラビア連邦人民共和国が宣言されました。ですので、第二次世界大戦は終わりましたが、スロベニアは新しいステージに入り、第二の社会主義ユーゴスラビアが誕生します。これは6つの共和国からなる統一された国家と経済圏を有する多国籍連邦と定義されました。スロベニア人は、共産主義政府によって統治されるこの新しい社会主義国家に主権国家として加盟しました。 

The Post-War Period 1945–1961

私たちは博物館のこの部屋を「戦後の部屋」と呼び、1945年から1961年の記録を展示しています。

戦争の惨劇は全てを破壊しその残骸を残し、都市や村、そこへの交通機関も含め多くの復興を必要としました。

 

戦後、ユーゴスラビアは全てをゼロから復興しなければいけなく、経済的にも政治的にもソ連に大きく依存しました。これを指揮したのがティトー( Josip Broz – Tito)でした。彼の権威は政治、軍事などあらゆるところで指揮しました。 

こちらは1945年、戦後初の選挙で、ティトーが当選する前の状況です。 

社会主義の国有化により、工業、銀行、教会など国に没収され、広大な土地は小さな農家に再配分されました。そして今後5年を目処に、国は重工業、電力供給、インフラなどを優先的に着手することを決めました。

それにより、大量の人手を使い、建物、線路、工場などを建設していきました。

 

戦後の最も注目すべき町は、Nova GoricaとValenjeでした。ヴェレニェは、ノヴァ・ゴリツァと並んで、戦後に建設されたスロベニアの新興都市の一つでした。 

1947年、共産党間の諮問機関としてコミンフォルム(インフォルムビロ)が設立されました。しかし実際には、スターリンは各国の政党を従属させ、ソビエト型の社会主義を押し付けようとしていました。

1948年、コミンフォルムとの対立が勃発しました。この対立の原因は、ソ連の覇権主義的野望と、ユーゴスラビアが社会主義圏における平等を求めたことにありました。ティトーはソ連に対してNOと答えたのです。ここから、ユーゴスラビアの独自の発展が始まりました。 

1950年代初頭以降、ユーゴスラビアは他の共産主義国とは異なる発展を遂げました。「工場は労働者のもの」というスローガンを掲げ、社会主義的な自主管理制度を導入しました。労働者評議会、従業員、そして労働者自身が企業経営においてより大きな役割を果たすようになりました。 

同時に、スロベニアの西部国境問題は戦後長年未解決のままでした。1947年にイタリアとの平和条約が締結され、トリエステ自由地域(FTT)が設立されました。1954年のロンドン覚書により、FTTのB地帯がユーゴスラビアに付与され、スロベニアは再び海域へのアクセスを獲得しました。 

リュブリャナのヴラズ広場にある小児病院の写真です。病院、学校、文化関連機関が、社会主義スローガン「団結、修復、発展」と共につくられていきました。

The period from 1961 to 1980

1960年代から 1970年代にかけて、消費の生産が増加し、生活水準の向上に重点が置かれるようになりました。新しい住宅街が建設され、工場では日用品の生産が開始され、経済発展の変動や諸問題にもかかわらず、雇用は高水準を維持しました。国境は双方向に広く開かれました。

経済発展に伴い、スロベニアの生活は向上しました。余裕が出てくることで重工業のみならず、ストーブ、ラジオ、洗濯機、冷蔵庫など、消耗品の生産も始まりました。これにより家族は幸せになり、祝日なしの仕事が土日は休むという生活にもなりました。

自動車が主要な交通手段となり、国内やユーゴスラビアの他国に旅行もできるようになりました。 

ラジオに代わってテレビが主要な情報源となりました。特にスポーツが最も盛り上がるようになりました。キッチンには冷蔵庫や洗濯機などの家電製品が溢れかえるようになりました。

1963年には、スロベニア初のカラー長編映画Good Luck, Kekec!』(Srečno、Kekec!)が上映されました。これをきっかけに海外からオーディエンスと認知が上がりました。 

多様な建築物が建設されていきました。このように全てのものが現代化していったのです。ユーゴスラビアの経済活動は他の社会主義の国々とは違いました。スターリンの死後、国境はよりオープンになり、人々は旅行にいけるようになりました。

政治的に、ユーゴスラビアはティトーのとても強いリーダーシップによって成り立っていました。しかしその彼が1980年に亡くなると、急激に衰退していきました。 

The Hinterland of the First World War 1914-1918

80年代 は、激しい変化の10年でした。まずは1980年にユーゴスラビア大統領ヨシップ・ブロズ・チトーの死去で始まりました。 

チトーが亡くなった後の団結と力を無くし、ユーゴスラビアは重大な危機に陥ってしまいました。

その現状下での社会システムの不満が顕著に現れだし、これに最も異議申し立てに影響力があったのは若者のアートでした。音楽、グラフィティー、演劇、美術などが民衆の声を集めていきました。市民の声がムーブメントを起こし、哲学者や人権団体を動かし、それはやがて民主主義運動の一つの流れとなっていったのです。  

1989年5月6日、詩人 Tone Pavčekは、リュブリャナのコングレス広場で行われた、スロベニア作家協会会長会議で、『May Declaration』(5月宣言)を宣誓しました。「5月宣言」は、スロベニアにおける民主的野党の根本となり、10万人強が署名しました。

1989年には、スロベニアの国家樹立と、当時のユーゴスラビアの民主化を主張する多くの団体(後に政党となる)が設立されました。1989年12月4日、スロベニア民主同盟、スロベニア・キリスト教民主党、スロベニア社会民主同盟、スロベニア農民同盟(後のSLS)は、選挙前の連合としてDEMOS(スロベニア民主野党)を設立しました。これらの発展が、国際的なその他の運動と偶然にも交わり、1989年のベルリンの壁の崩壊が象徴となり、東欧の共産主義の解体、ほとんどの大陸の国々が民主主義へと移り変わっていきました。そこにスロベニアもいたのです。

1990年12月23日に、スロベニア国民の大多数が賛成し、憲法改正と、独立して自らの国で生活するという決定で終わりました。 

The Independence of Slovenia 1991

1991年6月25日、スロベニア共和国は独立文書をリブリャナの国会の前で採択し、独立国家となりました。

何千何万もの人が集まり、新しいスロベニアの国旗を掲げて喜びま した。

しかしながら、この独立を成し遂げたことへの試練は次の日の朝早くに訪れてしまいました。次の日、1991年6月27日、ユーゴスラビア軍(YPA)がスロベニアをアタックすることを決意し、スロベニアの戦車、国境、飛行機、リブリャナ空港など作戦的にそれらを爆弾で破壊しました。それに対してスロベニアの一般人も含めて抵抗し、この戦いは戦闘停止合意まで、10日間続きました。 

欧州共同体の仲介により、1991年7月にブリユニ諸島でスロベニアとユーゴスラビア軍の交渉が開始され、戦闘停止合意であるブリユニ宣言 (Brioni Declaration )の調印をもって交渉は終了しました。 

スロベニアは独立プロセスを3ヶ月間「凍結」し、その間ユーゴスラビア軍は兵舎に撤退した。この期間が1991年10月に終了すると、最後のユーゴスラビア兵士がスロベニアを去りました。

The Republic of Slovenia 1991-2008

1991年末には、国際社会はユーゴスラビアが解体の過程にあることを認めました。これにより、スロベニアの国際的承認への道が開かれました。欧州共同体加盟国は1992年1月15日にスロベニアを承認し、同年5月にはスロベニアは国連の正式加盟国となりました。

スロベニアは自身の機関、法律、経済を確立し、社会主義経済から市場経済への移行は簡単ではなく、民営化、雇用と失業者、物価上昇など様々な課題がありましたが、素晴らしい成功を結果納めています。

1991年以降のスロベニアの独立後、2004年の礎は、スロベニアがNATOに加盟したことです。2007年にはEUに加盟し、さらに通貨をEUROにもしました。最も重要な国際政治、経済、安全保障組織との和解、加盟、さらには2008年にはEU議会の議長を務めることもありました。これらの成功は、スロベニアを安定した民主主義、そして敬意を持たれたEUの国として存在している証となりました。

2008年のここまでが今回の展示内容になります。ここ以降のスロベニアは、二人の大統領を輩出し、今は初の女性総理大臣です。

ともあれ、今回スロベニアという小さな国の荒れ狂った20世紀の歴史をお伝えできました。私たちの博物館はスロベニアで最も多くのドキュメント、特に写真のコレクションがあります。スロベニアの今のみならず、違う時代の新しい発見をできる場所ですので、是非、実際に訪れに来てください。

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