「写真史入門」〜もう一つのヨーロッパ芸術〜

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 本日は、ハンガリー国立美術館 学芸員、Zsófia Albrecht(ジョフィア・アルブレヒト氏)をお呼びし、「写真史入門」(An introduction to the history of photography: The early pioneers and masters till the 2nd half of the 20th century)をテーマにお話しいただきます。 アルブレヒトさんは、ハンガリーの美術教育担当の学芸員、歴史研究家、大学の博士課程に在籍している傍ら、ハンガリー科学アカデミーにてアシスタントマネージャーとしても勤務しています。 

「撮影」は、産業革命やIT革命のように、大きく歴史や文化を変えた発明でしょう。 絵を描くことから、投影機、写真機などを使用するようになり、そこから記録や表現する概念や手間が大きく変わりました。

今回、アルブレヒトさんからヨーロッパ的な視点で、写真の歴史やその見方 などを教えてもらえることは貴重なことだと思いますので、興味深く聞いていきたいと思います。 

以下、アルブレヒト氏)

 今日は「写真史のイントロダクション:20世紀中期までの先駆者と巨匠」(An introduction to the history of photography: The early pioneers and masters till the 2nd half of the 20th century)についてお話ししていきます。

19世紀中盤から20世紀初頭まで、多くの写真家が作品を残してきました。現在とは違い、さまざまなトライ&エラーを繰り返しながら、多くの作家、技術者、研究者など様々な人がが今に至る礎を築いてきました。

今回、いくつか写真と作家、技術発展の転換点など、後世に残した影響をお見せしていきます。それでは始めていきましょう。 

 まずは根本的に、写真とはか何か、どんな意味があるか、 写真が芸術、アートディウムとしてどう解釈するのかで、私たちの考え方や視点に変化があるかもしれません。 

人の根底には、常に何かの視覚方法に興味があり、楽しむ感覚があるといえるでしょう。その初期のツールのひとつは、いわゆる「Laterna Magica 」もしくは「Magic Lantern」です。 これは15世紀に、イタリアの建築家 Leone Battista Albertiがつくりました。あのレオナルド・ダ・ヴィンチも壁に投影して絵を描くのにこれを使用していました。 

初期のバージョンでは「カメラ・オブスクラ」、 小さな穴から光が差し込む小さな暗い箱があり、  反対側の壁に外の景色の反転像が投影される形態でした。 

1732年、ドイツのハレ大学教授、Johann Heinrich Schulze は、医学、化学、哲学、神学を学んだのち、光と銀塩の力を発見しました。彼は、銀を溶かした硝酸とチョークを混ぜて蓄光物質を作ろうとした際、彼は太陽光によって物質が黒くなることに気づきました。 ヨハン・ハインリヒ・シュルツェは、硝酸銀(AgNO3)とチョークの粉で作ったシートの上に、文字やその他の形の切り抜き紙を置く実験を行いました。太陽光は半透明の紙を黒くし、黒い紙の上に白い文字を残しましたが、それを「定着」させることができなかったため、永久に残る画像を作成することはできませんでした。 

一番初めの写真を残したのは、Joseph Nicéphore Niépceです。彼は自分のドローイン力に満足せず、カメラ・オブスクラの方法でラインをなぞっていきました。しかしそれにも満足しない彼は、ある時、ディスク板を被せたまま数時間放っておいた際、このような初となる写真が創造されました。 

こちらの、より精度が高いJoseph Nicéphore Niépceの写真は、感光液にラベンダーオイルを溶かし、それを板に塗布してカメラ・オブスキュラの中に設置したものです。約8時間後に取り出し、ラベンダーオイルで洗い流して、露光されなかった液を除去してこれがつくられています。8時間の露光により太陽は動いたり、人物は撮れなかったりと、様々な難しい点がありながらも、現代へ繋がる礎を築く発明となりました。 

1829年、装飾家で画家の Louis Jacques Mandé Daguerreは、Joseph Nicéphore Niépceと契約を結びました。1831年、ダゲールたちはヨウ化銀の感光性を発見しましたが、ニエプスはこの化合物で成果を上げることができませんでした。ダゲールは自身の発見に自信を持ち、1833年にニエプスが亡くなった後も、息子のイシドールと新たな契約を結び、研究を続けました。

フランス政府は彼らの写真製法を買い取り、公有財産とすることで、誰もが自由に使用できるようにしました。対価として発明者たちは終身年金を受け取りました。ダゲールは、良質な写真は、彼が設計したカメラ(本質的には特殊なカメラ・オブスキュラ)と薬品によってのみ撮影できると強調しまし、ダゲールは1839年8月19日にフランス科学アカデミーでこの発明を発表しましたが、ガゼット・ド・フランス紙は1月6日にすでにそのニュースを掲載していました。 

直接的なポジ鏡像は、ヨウ化銀を塗布した銀板(または銀メッキ銅板)に記録され、水銀蒸気で現像され、最初は食塩で定着され、後にチオ硫酸ナトリウム溶液で定着されます。 

長時間露光時間を短縮するため、より高速なレンズの開発と、光感度の高い化学物質の探索がすぐに始まりました。写真右で見られるポートレートでは、頭部を8−10分ほど止めるための木製の器具がありました。ハンガリー生まれの数学者Joseph Max Petzval は、ポートレート撮影に適した特に高速なレンズを計算しました。そして、ウィーンの光学機器メーカー、Voigtländer 社が、そのレンズを製造しました。 

1837年に、ダゲールによるダゲールタイプのカメラで撮られた写真です。 

こちらも、今日よく知られている写真で、これは、初のパリの街の写真で、しかも人が写っています。 この頃はまだ露光時間、つまりシャッタースピードがまだまだ10分くらいと長く、車や人など動いているものは写りません。ですので、左下に写っている二人には、ダゲールが止まっていてもらうようお願いしたか、警察官の靴を磨く男は10分以上靴を磨いていたのかもしれません。 

オリジナル写真が額縁と台座に収められています。ダゲールにより、バイエルン王ルートヴィヒ1世への献辞されました。

1960年代、写真をクリーニングする方法があるとのことでしたが、それは失敗となり、古いダガーロタイプの写真画像はほとんど消えてしまいます。 

William Henry Fox Talbotは、さらに実験を進め、当時の8時間の露光時間を遂に1分までできるようにしました。というのも、1840年、タルボットはニンニク酢の実験中に、この薬品が印画紙の感度を高めると聞いて、この酸を使って潜像を現像できることを発見したことによります。この発見は印画紙を使った写真技術に革命をもたらしました。タルボットは改良されたネガプロセスを「美しい絵」という名前をギリシャ語にちなんで「calotype」と名付け、特許を取得してこの発見を保護しました。

タルボットの娘、マチルデのものだった写真入りで初めて商業出版された 書籍『自然の鉛筆』(1844年)は、メトロポリタン美術館所蔵のコレクションとなりました。

1877年、Eadweard Muybridgeは、12台から24台のモーションカメラと、1000分の2秒の露出を実現する独自のシャッターを開発し、動くもののどんな瞬間でも写真に収めることができるようになりました。これにより、例えば面白い発見は、速歩する馬の歩様において、ある特定の瞬間に4本の脚が同時に地面から離れていることを証明しました。この高速シャッターは、動画撮影という概念と技術の原点でもあります。

写真右のフランシス・ベーコンは、エドワード・マイブリッジ に大きく影響と敬愛されたとして知られています。 

物理学者、James Clerk Maxwell は、世界初のカラー写真を撮影した人物です。1855年、マクスウェルは3色方式を開発し、実際のシャッターは1861年にトーマス・サットンによって押されました。この写真の被写体はる色付きのリボンです。 

次に、19世紀後半から20 世紀中盤までの偉大な写真家たちの仕事を紹介します。 まずは、日本人女性の美を写した写真家、Felice Beatoです。彼は、日本にヨーロッパ人がいけるようになって最初に行った内の一人でした。 見たところ、この写真は設定されて撮影されています。ですので、多分バトウは、日本中を旅してこの写真を撮ったのではなく、初めから設定されてモデルや道具も用意されていたことが伺えます。彼は日本のみならず、インドなどにも行った人物です。 

なぜこれを見せたかったかというと、実はハンガリー国立博物館では、Bertalan Szekelyが1871年に描いた、「Japanese woman」を所蔵しており、ハンガリー人が描いた絵画と、この写真を見比べてみたかったからです。 

イギリス人のJulia Margaret Cameron は、最初の女性写真家の一人です。彼女のスタイルはとても、 独特で、それまでの単調なポートレートに斬新な視点、光と柔らかさを持っていました。Charles Darwin やAlice in WonderlandのモデルとなったAlice Liddellなど、重要な人物等を撮影しています。 

Nadar という写真家は パリで修行し、1874年、パリでとても重要な印象派の展覧会で注目を浴びました。彼は写真以外の芸術の才能にも富んいました。 

この時代からアール・ヌーヴォーアール・デコの時代が始まります。

Madame d’Oraと呼ばれた写真家の Dora Kallmus はウイーンを中心に、ファッション、肖像画など、とても有名な芸術家のフォトグラファーとしても活躍しました。女性の写真家は今とは比べ物にならないほど珍しく、それほど彼女のスタイルはユニークで、時にタブーに切り込む珍しいものでした。写真右はEmilie Flögeで、グスタフ・クリムトのパートナーであり、分離派(Secession)の創設者の一人でありました。  

20世紀初頭はダダイズムシュールリアリズムの時代でした。シュールリアリズムの代表者と言えば、Man Ray (Emmanuel Radnitzky) です。彼は、ネガポジやコラージュなど、様々な実験的な探究をし、異素材のメディウムやテクニックを混在させた先駆者でもあります。時には一般的ではないヌード表現やタブーにも挑戦しています。 

アメリカにてマン・レイともコラボレーションをしていたLee Miller です。 その後彼女は独立したフリーの写真家としてヨーロッパに渡り、VOGUEにて写真を撮ります。その後、第二次世界大戦となり、彼女は戦地の最前線でも、写真を撮るなど奇抜な能力を発揮しました。彼女に捧げられた映画「LEE」  が2023年に上映されています。 

チェコ生まれの写真家、Lucia Moholy-Nagy は、ハンガリー生まれのアーティストLászló Moholy-Nagy (1895-1946) の妻で、両者ともドイツのバウハウス学校で働いていました。男尊女卑の時代もあり、夫側に名声を取られ続け、彼女個人の評価はあまりされてこずでしたが、2024年にはプラハのKunst halleで、大きな展示が行われました。

世界大戦中により、ドイツを逃れイギリスに往年は居住していました。

以上ここまで、撮影やカメラのテクノロジーの発展、写真家等とアート様式を紹介してきました。技術においては、全く違う技術と写真への概念が次の時代を席巻していきました。一枚の写真を撮影するのに時間もコストもかかった時代から、今では誰のが手軽に写真を撮れるようになりました。「誰が本当の写真家なのか?」「どこに価値が重要視されるのか?」などの疑問が出てきます。また、20世紀初頭から、現代のAIやディープフェイクのように、“虚像”の存在をどう捉えるかについての疑問も出てきます。

1世代前とも言えるフィルム写真については、現像や保管の必要性、印刷に至るまでの温暖化にはじまる環境負荷への懸念などもつきまとってきます。しかしながら、印刷写真の重要性や尊さは言うまでもなく過去と現代と未来を繋ぐ素晴らしい発明であることは間違いありません。 

以上で、今回のレクチャーを終わりにしたいと思います。皆さんの明日への活動の一端になれれば幸いです。

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