目次
はじめに
今日のアート講座は、チェコ共和国のヤブロネッツ・ナド・ニソウ ガラス・ジュエリー博物 館(The Museum of Glass and Jewellery in Jablonec nad Nisou)の主任学芸員チーフキュレーター、副館長である、ペトル・ノヴィー(Petr Nový)氏にお願いします。 タイトルは、「チェコのガラス製クリスマスオーナメントの世界」(World of Czech glass Christmas ornaments)です。
皆さんもご存知かと思いますが、チェコはガラス芸術で、その歴史と技術の高さが有名な国です。その中で、ヤブロネッツ・ナド・ニソウ(Jablonec nad Nisou)いう街では、ガラス職人が何百年に渡り、ガラスアート産業を支えています。この街では、ガラスビーズ、ガラスボタン、ガラスジュエリーなども有名ですが、クリスマスツリーに付ける、オーナメントが何より特徴的です。
この町にある博物館は、世界中のガラスオーナメントのコレクションをしており、世界一のコレクション数を誇ります。それでは、以下、ガラス製クリスマスオーナメントの世界の歴史を、ノヴィー氏に教えていただきたいと思います。
まずは少し、ヤブロネッツ・ナド・ニソウ ガラス・ジュエリー博物 館(The Museum of Glass and Jewellery in Jablonec nad Nisou)の紹介に入ります。
ここは、チェコの文科省により州立の博物館です。1904年に設立され、現在120周年となっています。チェコで唯一のガラスジュエリーの博物館であり、世界最多の1200万個のコレクション数を誇っています。
こちらが、博物館の外観となります。たまたまですが、こちらも1904年に建設されたものです。
この山々に囲まれた街は、世界大戦中は特に、ガラスジュエリーの世界的貿易センターの中心にあったからです。
ガラスのオーナメントにおいては、現在18000点程で、これも世界屈指のコレクション数を誇ります。
手吹きのクリスマスツリーの飾り
手吹きのクリスマスツリーの飾りは、バーナーの炎を使って手作業で作られています。ガラス工場で引かれたガラス管を主に使っています。アルカリ含有量の高い石英ガラス(以前はソーダカリウムガラス)で作られています。
クリスマスツリーの飾りには、自由に吹き飛ばせるものもあれば、型で成形されるものもあります。6 つの基本色(赤、青、緑、金、ピンク、紫)で作られ、その後装飾が施されます。銀は基本、色ではありません。吹き飛ばされたクリスマスツリーの飾りには、銀メッキ、着色ワニスへの浸漬、装飾塗装、スプレー、銀メッキワイヤーでの巻き付け、バロティーニによるコーティング、グリマー(ガラスの粉)または繊維素材の塗布、印刷技術(シルクスクリーン塗装、タンポン印刷)、または他の素材(リボン、シェニール、造花、紙、布切れ)との組み合わせなど、さまざまな仕上げ技術が使用されています。
中空ビーズを使用したクリスマスツリーオーナメント
これらは手作業(バーナーで吹き付ける)または機械(鉄、真鍮、またはセラミックの型を使用)で作られます。これに使用される製品は、直径の小さいガラス管です。これらはソーダカリウムガラスのガラス工場で作られています。完成したビーズとロカイユは化学的に銀メッキ加工され、ワイヤーに通され、通常は他の部品と組み合わせて目的の形状を作ります。
小さなビーズ(ロカイユ)で作られたクリスマスツリーの飾り
これらはカットされたロカイユとさまざまな色の小さな管で作られ、時には個々の中空ビーズまたはコスチュームジュエリーに使用される半完成素材と組み合わせて作られます。ガブロンズガラスビーズ飾りの場合と同様に、これらはさまざまなファンタジーまたは表現的な形状に作られています。
1510年
ガラスのオーナメントを語るにおいて、クリスマスツリーはもちろん欠かせません。ですので、クリスマスツリーの歴史をご紹介します。
リンゴ、ナッツ、プレッツェル、ナツメヤシ、紙の花、ろうそくなどの本物のものを飾ったツリーに関する最も古い記述は、ハンザ同盟都市リガ(現在のラトビア、1510 年)と北ドイツのブレーメン(1570 年)の年代記に見られます。ツリーは、ギルドハウスで商人の子供たちのために飾られ、子供たちは休日の後に飾りを取り外して食べることができました。クリスマスツリーが個人の家に広まったのはずっと後のことです。
18 世紀には、飾り付けされたクリスマスツリーがドイツ全土の貴族や都市社会の裕福な人々の間で広まりました。ツリーはたくさんのろうそく、金や銀でメッキされた果物、ナッツ、お菓子で飾られていました。19 世紀初頭には、手作りの紙の飾りや、銅色に塗られたナッツや卵が人気になりました。田舎の村では、19世紀中盤までクリスマスツリーはまだ家庭にありませんでした。
1812年
今日のチェコ共和国は、ボヘミアという名前がありました。ですので、国単位で言うかボヘミアエリアで言うかによって変わりますが、ボヘミアでクリスマスツリーが初めて作られたのは、1812年、ラインラント出身でコミュニティ劇場の監督だったヨハン・カール・リービヒが、友人たちへのサプライズとしてプラハ近郊のリベン城にクリスマスツリーを飾ったときです。しかし、このドイツ式の新しいアイデアがプラハの住民に受け入れられたのは1840年代になってからでした。
1840年~1860年
最初のボヘミアガラスのクリスマスツリー飾りと思われるものは、おそらく19世紀半ばより前にイゼラ山脈(JIZERA)で作られたものと思われます。吹きガラスのボール、ロカイユの紐、そして後には中空のビーズが使われたという証拠があります。それにもかかわらず、20世紀初頭になっても、ガラスのクリスマスツリー飾りはほとんど作られていませんでした。当時の需要は、ドイツのテューリンゲン地方のラウシャでの競争で十分に賄われていました。ラウシャでは 1840 年代からオーナメントが吹き付けられており、1870 年には相当な量が吹き付けられていました。ドイツ自体が長年、これらの商品の最大の買い手でした。
1880年
写真は裕福なアメリカの家庭の写真です。19世紀になりようやく、クリスマスツリーを飾る流行が、ヨーロッパ全土、さらにはドイツからの移民によって米国にまで広まりました。米国へはオランダから来たという説もあります。サンタクロースにおいては、アムステルダムの古い物語だったようです。アメリカで初めてサンタクロースが祝われた場所は、米国のニューアムステルダムという、現在のニューヨーク市です。また1930年代には、サンタクロースがコカコーラの絵柄と共に登場します。これは新しい習慣でした。19世紀には、クリスマスツリーを飾る習慣はヨーロッパ中に広まり、世紀の変わり目までに、手作りの飾りは、木、金属、そしてもちろんガラスで作られた工房や工場で作られたものに取って代わられました。クリスマス ツリーを正しく飾る方法を説明した最初の本も登場しました。第一次世界大戦後、クリスマス ツリーは、社会階級に関係なく、世界中のプロテスタントとローマ カトリック教徒によって飾られ、それに応じて商人によって幅広い製品が提供されました。クリスマス ツリーのオーナメントのメーカーにとって、いわゆる黄金時代が始まりました。おそらく、イギリス人がクリスマスの習慣を香港に持ち込み、今でも香港はガラスの新しい装飾品の重要なマーケットです。シンガポールでも非常に重要となり、そのためヨーロッパから文化的習慣も輸出され、同時にガラスのクリスマスオーナメントも植民地主義の産物としてアジアに広がっていきました。
1908年
北東ボヘミアの国内のガラス職人は、ガラス玉やオリーブの代わりに、さまざまな形、サイズ、デザインのガラスビーズを作ることに主に携わっていました。これらは通常、製造後に内側に銀メッキが施され、1880年代以降、主にインドに大量に輸出されました。この分野の状況は、1908年以降、より安価な日本製品がボヘミアの吹きガラスビーズをインド市場から追い出し始めたときに変化しました。
技術における知識が非常に重要ですが、吹きガラスビーズの作り方が1905年以降、日本への技術はヤブロネッツから輸出されました。これは日本がロシアとの戦争に勝利し、アジアの超大国となった後、日本のビジネスマンがヨーロッパ、ボヘミア、そしてヤブロネッツにも行くようになりました。そこから知識やイノベーションがが日本へ、主に大阪と周辺に移転され、チェコの大きな輸出先であったインドのシェアを乗っ取って行ったのでした。そこでヤブロネッツから15キロ程離れたJizera山脈のチェコの職人を中心に、中空ビーズで新しいタイプのガラスのクリスマスオーナメントやガラスジュエリーを発明し、アメリカに輸出しました。アメリカではツリーにガラスのオーナメントを飾ることが流っていきました。
1910年
1910年頃に市場に登場した新製品は、塗装されたボール紙に小さなガラスのボール(バロティーニ)、反射材を散りばめたクリスマスツリーの飾りが登場していきました。
1910年~1920年
20世紀初頭のイゼラ山脈のもう1つの新製品は、ガラスのブレスレットリング、いわゆるバングルと吹きビーズ、カラー印刷を組み合わせたクリスマスの飾りで、これもインドに輸出されていました。こちらも第一次大戦前後で日本市場に解体されました。吹き真珠にはリンを含むワックスが詰められていました。日中は光を吸収し、暗くなるとツリーの上で空の星のように輝きました。
1929年
1929年、世界経済危機の始まりに、ヤブロネツ近郊のザサダのガラス製品製造業者であるヨゼフ・クプカが、シードビーズのクリスマス飾りを持ってやって来ました。
この辺りから、ボヘミアやチェコスロバキアのガラスの大きな物語は始まります。
1931年
1931年3月、世界経済危機の最中、フラデツ・クラーロヴェーの国立ガラス製造研究所とジェレズニー・ブロッドのガラス製造学校が協力し、新しい吹きガラスのクリスマスツリー飾りに焦点を当てた最初のコースを開催しました。同年7月、ズドビーンに吹きガラスのクリスマスツリー飾りの製造のためのガラス製造協会が設立されました。これが、今日知られているチェコのガラスオーナメントの本当の始まりでした。
1933年~1948年
1900年頃、ビーラ・トシェメシュナ出身の元工場職人、ヴァーツラフ・ベルガー(1873~1959年)が中空ビーズのビジネスを始めました。1933年にクリスマスツリーのオーナメントの吹き付けに携わりました。彼の最初のデザインは、息子のヨゼフ・ベルガーがデザインしたクリスマスツリー、彗星、雪だるま、花などの装飾が描かれた銀メッキなしのガラスボールでした。これらの製品は後に、型に吹き付けなければならないより難しい形状や、聖ニコラウス、小鬼、天使、家や教会、毒キノコ、水差し、鳥などの銀メッキ製品に続きました。彼の製品にはビーズの飾りやオーナメントも含まれていました。
完成品は国内およびヨーロッパ(ユーゴスラビア、イギリス、オランダ、ドイツ)で販売されただけでなく、1937年以降は米国(ウールワース社を通じて)にも直接販売されました。ベルガー社が国営のズドビーン協会のメンバーではなかったにもかかわらず、市場にこれほどの影響を与えられたのは注目に値します。
共産主義により、民間企業全体が1948年に国有化され、吹きガラスクリスマスツリーオーナメント製造のためのガラス製造協会に統合されました。1989年の自由化後、1995年にヴァーツラフ・ベルガーの曾孫であるミロスラヴァ・ユクロヴァと彼女の夫ミロスラフ・ユクルが彼の跡を継ぎ、「OZDOBA CZ」が設立されました。
1934年
1934年、生産開始からわずか3年で、チェコスロバキアから最初の5.2トンのクリスマスツリーオーナメントが63,000チェココルナで輸出されました。この数字は 1937 年までに 157 トン、270 万チェココルナにまで増加しました。主な顧客は米国、スイス、リトアニア、フランスでした。チェコは世界で2番目にガラスオーナメントを輸出する国となりました。
1935年~1937年
ズドビーン協会が製作した装飾品は、1935 年にブリュッセルで開催された国際博覧会で名誉あるグランプリを受賞し、1937 年にはパリでチェコスロバキア全展示品の総合グランプリの一部として再び受賞しました。
ですので、チェコスロバキアのガラスオーナメントは1931年に始まり、34年に輸出が開始され、1935年には国際エキスポでグランプリを獲得したのです。
1948年
第二次世界大戦後、ズドビーン協会は国有化され、本部はドヴール クラーロヴェーに移されました。1952 年からは輸出は国営輸出会社ヤブロネッツに委託されました。また、50 年代にはヴェスティーン、オパヴァ、スロバキアにも別の協会が設立されました。
1918年から1939年まではチェコスロヴァキアとして、チェコ人とスロバキア人は一緒に暮らしていましたが、その後ドイツの統治下に入り、スロヴァキアは1939年から1945年まで独自の国家になりました。そして1945年から1993年まではまたチェコスロヴァキアになったのです。
1958年
コレクションは、1958 年にブリュッセルで開催された EXPO フェア (グランプリ) をはじめ、フェアでも評価されました。
60 年代には、クリスマスツリーの飾りは 40 か国以上に輸出された。吹きガラスの大きなクリスマスツリーの飾りはケニアやエジプトなど世界中に輸出されました。主に西側諸国 (イタリア、オランダ、米国、ベルギー、フランス、英国) で販売されましたが、「ガブロンズ ガラス ビーズ飾り」は主に社会主義諸国に輸出されました。80 年代には、吹きガラスのボールだけでチェコスロバキアだけで約 1,100 万個が製造され、この生産分野では 1,000 人以上の人々が雇用されていました。
1957年~1962年
画家のミラン・ヴォトルバは、1934 年にトシェモシュニツェで生まれ、ノヴィ・ボールとジェレズニー・ブロッドのガラス製造学校でガラス製造の基礎を習得し、1950 年代から 1960 年代の変わり目にプラハの芸術・建築・デザインアカデミーで大学在学中にクリスマスツリーのオーナメントのデザインに専念し始めました。1968 年にスウェーデンに移住し、レイミレガラス工場でデザイナーとして働き始め、1978 年にグサムに自分のガラススタジオを設立し、ミラン・ヴォトルバは、権威あるスウェーデンの年間最優秀アーティスト賞のコンテストで 2 度表彰されました。
1957年~1962年
2009年、ヤブロネツ・ナド・ニソウのガラスとコスチュームジュエリーの博物館は、ミラン・ヴォトルバにいくつかの新しい装飾デザイン、または展示プロジェクトを考案するよう依頼しました。
博物館は、ローリニ・ウ・トゥルノヴァのカミラ・パルシ・ジュジャールスカがデザインした形状を具現化し、ヤブロネツのGOJA社がスポンサーとして銀メッキを施しました。その後、ミラン・ヴォブルバが2010年5月初旬にガラスとコスチュームジュエリー博物館の敷地内で最終的な装飾を自ら描きました。ミラン・ヴォブルバは2016年にグサムで81歳で亡くなりました。
1989年
1989年以降、チェコスロバキアの自由化プロセスにより、国営企業は民間企業に変わりました。一部の企業や工場は独立し、他の企業は消滅し、他の企業は再び現れました。ヤブロネッツは独占権を失い、ヤブロネツに新しく建設された工場で作られた吹き装飾品の取引を開始しました。当時、これは中央ヨーロッパで最も近代的な工場でしたが、2006年に生産が中止され、1年後には輸出も中止されました。
2008年
博物館の現在のガラス製クリスマスツリーオーナメントのコレクションは、その数だけでなく、デザインの数とそのバリエーション、色と色合い、使用されている伝統的および現代的な装飾方法、追加された原料でも注目に値します。標準範囲に加えて、特定の企業向けに注文されたサンプルと限定品があります。その中には、高級ガラス製クリスマスツリーオーナメント、世界のデパートの目の肥えた顧客向けに個別にまたは小さなセットでパッケージ化された小さな芸術作品などがあります。
私は、このコレクションのサンプルを、「ボール、ツリーピーク、その他の形状、フェストン、クリスマスの時期、おとぎ話の世界、自然に触発されたもの、健康的なライフスタイル、私たちの周りの世界、限定品とコレクション」の10のテーマグループに並べて紹介することにしました。
尖った「ツリーピーク」系のオーナメントです。
「フェストン」シリーズです。
西洋とアメリカの「クリスマス」ものです。
おとぎ話のモチーフです。
健康的な野菜シリーズです。アメリカではピクルスを飾るミステリーがあるほどです。クリスマスの最も古いモチーフの一つ、フルーツや花など自然をモチーフにしたものがたくさんあります。
「ボール」系のオーナメントです。
「私たちの周りの世界」をモチーフにしたものも沢山あります。
限定品とコレクションなども豊富です。
2020年
ガブロンズガラスビーズのクリスマスツリーオーナメントを現在も生産している最後の場所は、クルコノシェ山脈のポニクラです。ラウティスは1995年からこの地で活動しており、ほぼ100年前に遡る伝統を築いています。今日、この会社のおかげで、ガブロンズガラスビーズのクリスマスツリーオーナメントの製作技術は、ユネスコの無形文化遺産の代表リストに登録されています。
当博物館は2020年、プラハの建築家ミハル・フラヴァーチェクの設計によるガラスクリスタルの形をしたユニークな増築により、博物館の本館が拡張されました。増築の実現は、チェコ共和国で2020年の建物オブ・ザ・イヤーの称号を授与されました。上階は、現代ガラスアートの展示プロジェクトのスペースとして使用されています。
2022年
下階では、ガラスのクリスマスデコレーションの新しい常設展示「World of Wonders (WoW!)」が公開されました。3300点にもなるオーナメントがあります。この展示会は、クリスマスの飾りが海を越えて約束の地へ向かう旅の物語を語るストーリーとなっています。
このため、展示品は海の波の形に設置されています。舞台装置は、デザイナーのヤクブ・ベルディフ・カルペリスで、展示のアイデアストーリーは、博物館キュレーターである私ペトル・ノヴィーとダグマー・ハブリチコヴァが考案しました。
ここまで、大きな物語をかなり簡単に紹介してきましたが、皆さんも楽しめたことを願っています。ありがとうございました。
Q&A
Q1:
様々なモチーフがありますが、なんでもありなのですか?
A1:
大きく分けて2種類あります。一つ目は、クリスマスらしい保守的なものです。古いパターンで変化していいのは基本は色だけですが、トレンドも重要です。会社は毎年新しいものを作りますが、マイナーチェンジのようなレベルです。もう一種類は、顧客が独自のデザインを持ってくるデザイン製作です。
この20年程で色々と習慣なども変化しました。例えば、過去に比べ、アメリカでは毎年クリスマス後にオーナメントを捨てるようになりました。インド、中国、日本、マレーシアに需要が増えました。もちろん、中国のプラスチック製のオーナメントも増えました。
Q2:
クリスマスビジネスについて欧米の人はどう思っていますか?
A2:
現在私たちが見るものは、16世紀とはまるで違い、伝統的ではありません。消費社会の一端と言えます。これは植民地主義や帝国政治と現在のクリスマス習慣を切り離すことはできないことを意味しています。ですから、アフリカやアジアと欧州のクリスマスとは違うのです。
Q3:
プロテスタントから始まったオーナメントについて、カトリックと正教会などの関係を教えてください。
A3:
かなり複雑ですが荒削りに要点だけ説明します。カトリックには神とのコミニケーションにおける個人的責任はありません。直接神とは話せず、牧師を仲介します。しかしプロテスタントは、神と誰でも話すことができ、個人の責任があり、祝う習慣もありました。
カトリックの祭事は教会で、家ではありませんでした。カトリックならイブは教会にいるべきで、プロテスタントは家で祝ってもよかったのです。
人気があったクリスマスは、19世紀にはカトリックもこれを受け入れる必要がありました。