【後編:マクロ】地球は野生化した文明人の楽園になる?これからの世界の在り方とは。

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前編では、素朴という名のナラティブというテーマで、個人、企業に連なるナラティブをさまざまな概念を通して見てきた。後編では、よりマクロな社会の変容に焦点を当て、話を進めていきたい。

ひとつに繋がっていく地球

個人や企業が、自らの文脈、ナラティブに立ち返る動きは、現在の社会システムに生じている様々な軋み、とりわけ、資本主義に対する疑念の声に呼応したものだ。

そんな中、現在、注目されているのがカール・マルクスが提唱したコモンという考え方だ。

マルクスと聞くと、真っ先に思い浮かぶのは、彼の有名な著書である「資本論」や、マルクスがフリードリヒ・エンゲルスと体系化したマルクス主義だが、近年の後期マルクスの思想の研究を経て、再度、見直されるようになったのがこの概念だ。

コモンとは、人々が生きていくのに必要な共有財産のことを指す。代表例としては、水や医療が挙げられる。土地や森、川といった農業に必要なものは、共有の財産として集団で管理されていた。

しかし、資本主義によって、コモンが解体されることで、ありとあらゆるものが商品化され、資本によって独占されたことで、貧富の差が生じてしまったのだ。さらに、資本主義は価値を増殖し資本を蓄積させるために、さらなる市場を絶えず開拓していくシステムである。またマルクスは「資本論」の中で、資本主義が「構想」し「実行」するというクラフトマンシップを解体し、それにより、何かを生産する際に、どのような材料でどのような材料でどのような形の物を作ればいいか、といったことを考える「構想」と実際に自身で身体を動かして構想を実現する過程である「実行」が分離され、労働者の精神は欠陥していってしまったと述べている。

この資本主義に対して、19世紀後半にイギリスで興ったアート・アンド・クラフツ運動は産業革命による工芸品の品質低下を危惧し、職人による手仕事の復興を目指したが、この運動は資本主義の本質をついたものだった。

この資本主義に対置する考え方と言われているのがコミュニズムだ。「人新世の資本論」の著者斎藤幸平氏によると、コミュニズムとは、資本主義がこれまで壊してきたコモンの領域を再び構築していくことを指すという。

このコミュニズムの特徴は、行政や企業などの資本の力によるトップダウン型の管理のやり方ではなく、市民自らの手でコモンを管理していくボトムアップな管理の仕方にある。このボトムアップな市民による自治は、地域社会に住民の自助による繋がりをもたらしていく。

この自助がなされる過程で見直されるのが、資本主義によって、解体されたクラフトマンシップだ。これにより、人間の労働は、再び「構想」と「実行」、「精神的労働」と「肉体的労働」が統一されたものへと変質し、人間性の回復されていく。そして、その働き方のベースにあるのは、自分でルールメイキングを行うオーナーシップだ。このコミュニズムは近年のシェアとも似た概念でもあることから、日本においても浸透していくだろう。

また、こういった人間性を回復する動きは、昨今のSDGsやサーキュラーエコノミーといった持続可能な社会を目指す動きとも連動しており、ますますこの動きは加速していくことだろう。

前編で話をしたように、企業、個人が自らの文脈を見つめ直し、オーセンティックなリーダーシップを発揮していくことは、コモンを再び構築し、人間性を徐々に回復していくひとつの段階とも言えるものだ。それにマルクスは、「地球そのものをコモンである」と言っており、人々が自らのナラティブと繋がり合い、人間性を回復していった先に、個人と企業、社会が地球と繋がり、地球をひとつのコモンとして、共同で管理するという地球中心主義の考え方が当たり前のものとなる世界が到来するのかもしれない。

また、このコミュニズムと並行して、地球を覆うことになるのがメタバースだ。

メタバースとは、SF作家のニール・スティーヴンスンによる小説「スノウ・クラッシュ(Snow Crash)」の作中に登場する巨大な仮想空間のことを指し、メタはギリシア語で「超える」を意味することからインターネットの次のインフラになると言われている。

メタバースは常に現実と接続されており、そこに参加している人々は自らエコシステムを管理するコミュニティを運営し、このコミュニティがデジタルのプラットフォーム内の土地の開発や通貨の割り当て、新しいウェアラブル端末を追加するか否かなどの事柄に関与することで、このプラットフォームにおけるルールは最適なカタチにその都度アップデートされていくことになる。

このメタバースの運営に関する考え方は、市民によるボトムアップのコモンの管理のやり方と類似している。これからの地球はアナログ世界のコミュニズムとデジタル世界のメタバースが覆っていくのである。

ちなみに、アートサバイブログでは、チェコのプラハに拠点を構えるメタバースをテーマにした事業に取り組む企業への取材もしたので、そちらもぜひ読んでみて欲しい。取材した記事はこちら

野生化された文明人へ

さきほど、述べたような地球中心主義の世界が到来したときに、そこに住まう人々は一体、どのような思考を備えているのだろうか。

そのヒントは、かつて文化人類学者のレヴィ=ストロースがその著書「野生の思考」の中で、述べた「野生の思考」にある。近代科学的な思考に対置されて理解される「野生の思考」とは、自然や動植物を自らの眼で観察し、耳で聴き、時に舌で味を見ながら考えることであり、手で触れてその特徴を理解しながら、あり合わせの素材を当面の目的に合わせて臨機応変に用いること(ブリコラージュ)によって、モノを何かの道具へと昇華していく思考を指す。この野生の思考こそが、地球中心主義の世界の住人、すなわち、野生化された文明人の思考に他ならない。

野生化された文明人は、その自らの思考をもってコミュニティを管理していくことになり、その管理の仕方は遊びのようなものになっていくだろう。遊びの思想で知られるヨハン・ホイジンガによれば、遊びとは、人間のあらゆる活動の基盤であり、文化を生む根源的な力である。さらに日本語の「遊び」には、「遊戯」の他に「ゆとりがある」という意味もある。これを使ってホイジンガの議論を言い換えるならば、私たちは「遊び=余白」を持つことで自分たちを人間たらしめていると考えてみることになる。余白のない、目的に即した息苦しい「労働」だけで我々は生きているのではない。むしろ経済活動としての仕事も全て余白=遊びの部分を確保することで、活動が人間性を保ち、それによって我々は仕事の時間にも意義を見出すことができる。

しかしながら、そのような社会では、遊びと仕事は分かれたものではなく、遊びと仕事は一体となっていく。と言うのも、遊びとは、本来限られた場所とルールで行われるものであるが、このような社会では、人々が自らのナラティブに基づいて生活しコミュニティのルールを作り、自らの人生のルールメイキングもしていくため、遊びが社会の運営に浸透したものとなっているからだ。このことは、神学者ジェイムズ・カースが、ゲームには有限ゲームと無限ゲームの2種類があり、有限ゲームはルールの中で遊び無限ゲームはルールを変化させると言っていることとも共通点がある。

新しい社会とは、無限ゲームが基盤となった社会とも言える。そして、地球中心主義の世界とは、野生化された文明人が野生の思考を発揮し、自らの人生のルールメイキングを行い、コミュニティや社会の運営をしていく社会の在り方なのだ。かつて、トーマス・モアはその著書「ユートピア」で理想の国の姿を描いていたが、そこは、まさに人類が自然と調和する楽園となるのかもしれない。

終わりに

ここまで、前編・後編とこれからの社会、人類の在り方がどのように変容していくのかを見てきた。荒削りではあるが、個人レベル、社会レベルの視点から、これからの社会がどのように変わっていくのかを考えることができる記事となっていたら、嬉しい限りだ。人々が自らのナラティブを基に繋がりを紡ぎ、遊ぶように社会、地球を管理する未来が到来することが待ち遠しい。

(参考文献)

 ・『人新世の資本論』

 ・『野生の思考』

 ・『ホモ・ルーデンス』

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